島田龍編「左川ちか全集」を読んで
照る日曇る日第1805回
同郷の詩人仲間の伊藤整はもとより、西脇順三郎、萩原朔太郎、百田宗治、北園克衛、春山行夫などからも高く評価された、左川ちか(1911~1936)の全詩集、小説、評論、翻訳、書簡までも収録した浩瀚な全1冊本である。
将来を嘱望されながら病を得て、24歳で夭折した詩人の天才的な資質とそのモダンな作風は、本書を通読し、島田選手の懇切丁寧な解説を読めば、ただちに了解されるだろう。
ほんとうは遺作の「季節」を記しておきたいのだが、やや長くなるので、彼女の「夏のこゑ」という作品の、冒頭の3行を掲げておこう。
遠く見えるな、遠いな
羅紗のマントにくるまり
霧のやうに紫だ
「詩は言葉の勉強だと思う。併しそれは話すやうな言葉と違って、表面から見えない心の言葉である。思惟の中から選ばれた言葉で空間を充たすことであると思ふ。言ふために言はれた言葉だけの意味を拾ひあげることではなく、何を言はうとし、又何物かを反映しようとすることであらう。最もきびしくそして非常にわづかで、焔のやうに焼切るところの巧さである。沢山の「おしゃべりをしながら何か一つほんたうのことを言ふことでもあり、或いは背後から追ひかけてゆくことでもある。」(「樹間をゆくとき」より引用」
というのが、彼女の詩論の要諦であろうが、「焔のやうに焼切る」、そして最後の、「(ほんとうを)背後から追ひかけてゆく」というのは、いかにも優れた実作者の言葉だと思った。
ドルを売り円を買うのはシシュポスが大なる岩を運ぶに似たり 蝶人