
人生場当たり的にのらりくらりとやってきた私、コロ健。
医者になってもその生き方に目立った変化はなく現在に至っている。とくに、学問的な分野となるとこれは顕著で、学生時代の試験の一夜漬けに始まり、いまは、学会・論文・原稿の自転車操業。それらを手掛けるにあたって、いったいいつ勉強しているのか?ということになる。通勤時間を論文読みに充てているが、それでも足りない。結局のところ、これまでの人生の蓄積の有無が響いてきたところ。
そんな私にとって、今度の某学会のテーマは救いだ(と勝手に思っている)。
温故知新
例によって、”出すだけ出そう”とおもって抄録を提出したのだが、学会が近くなってきて文献を集め始めたら・・・どれも、とっくに調べられていた。ちょうど、私が医者になったころに、すでに立派な論文が出ていた。

私にとってはよくあることだが、こうしょっちゅうだと、情けなくなる。
さて、温故知新というテーマ、病理医としてどう扱うか。
臨床半分の学会なので、病理医は違った視点から病理医なりのことを言わなけれあばいけないと思っている。
というわけで、ここのところ、発生学の本を読むところから始め、件の20年以上前の論文を読み、さらにその孫引きで50年前の論文を読み、と、少し歴史を振り返ってみることができた。
なんで、何にも知らなかったんだろうとおもえて、余計情けなくなった。
100年以上前に提唱されていた疾患概念でもいまだ詳細が不明なものは多くある。治療法はあるものの、それは結果を修正しているだけで、原因を正さなくては仕方がない。
と、いうようなわけで、発表は師走に入っての12月3日。あと2週間を切ってしまった。
本番の演説の時に、「今回のテーマは温故知新ということで、私も病理の立場から・・・」なんて、余裕綽々で話を切り出せるといいのだが(というか、口上はこれに決めた!!)。


