例えるならば、両側に沢山の部屋があるホテルの廊下だろうか。
自分の肉体、思考は1個なのに、ある時は”この部屋”で自分の役割を演じ、またある時は”こちらの部屋”で別な自分の役割を果たす。昨日の講習会の講師用にあてがわれた部屋は、突き当たりを曲がったところの部屋で、ここからは見えなかった。そこには、講演がうまくいくか一人心配していた私がいた。人間には無数の部屋、すなわち世界があるのかもしれない。このブログの世界も一つの私だ。なるべく自分のありのまあの心情、考えを書き記そうと努めているが、時々ふとよぎる暗い感情を書くことはできない。
このブログを書いている目的が、”そうあってはならない自分”を目指しているからだろうけど、心の奥底までをさらけ出していないということは、読んでくださっている方を裏切っているのではないかと自問する。それなら、小説家・絵描きなどの物書き、絵描きはどうだということになる。おそらく、あの人たちはそういう心の闇を赤裸々にさらけ出すことができるからこそ、多くの人の共感を集めるのだろう。だから、私のこのブログはブログ、これでいいと思っている。
そんな風に考えると、人間というのはつくづく細かくできているものだと思う。それぞれの人と話すとき、メールを一本一本出すたび、それぞれの人に対して違う自分を作って、別々の自分を演じている。当事者同士ではそれを裏表と感じることもあるかもしれない。でも、他人が他人のそういう姿を見ても、おそらくなんとも思わないだろう。
ドアで隔てられた部屋の中で何が起こっているのかなど、たとえドアがガラス張りであっても分かるわけがない。いや、その部屋の中にいる自分自身でさえも、何が起こっているのかわからないかもしれない。
人生は真っ直ぐなのか迷路なのか