昨日書いたとおり、検査は診断のためのいくつかある情報の一つであり、診断とはいくつかの検査情報を集めてなされるものだ。
病理医が病理診断を行うときには、臨床医がとってきた理学所見、血液・生化学・生理機能などの臨床検査データ、画像などの結果を総合して診断する。全ての診断をそこまで細かく行うことは難しいので、臨床医に診断のための申込書を書いてもらう。申し込みに際し、臨床医は最低限の臨床データを病理医に知らせる。
胃の内視鏡生検の申し込みであれば、患者さんの主訴、貧血の有無などの検査データ、内視鏡所見(画像込み)などを記載する。腕のいい内視鏡医であれば、内視鏡所見と組織所見はほぼ一致する。病理医は、組織所見から慢性胃炎だとか胃癌だとかの診断をするのだ。
これが子宮頚癌の診断だったら、検診での細胞診スクリーニング検査を行なって、細胞検査士が陽性と判断した症例について、婦人科医がコルポスコピーで子宮警部の観察を行ったのち、変化がある部分から組織を採るすなわち、生検を行う。病理医は申込書に記載されている細胞診検査、コルポスコピー検査の結果を踏まえて診断を行う。
生検組織の様な小さなものであっても、こうやって診断を行なっている。絵合わせだけで診断をしているのではないのだ。
これが手術検体であったらもっと多くの情報が必要になるし、多くの臨床医もそれを求める。
ところが、臨床医の中には、病理診断を検査の一つと位置付けて、他のデータも合わせて総合的に”診断”する人がいるが、それは診断の意味がわかっていない。
病理診断は、そこにある”患者さんそのもの”である組織に対する診断であって、最終的なものだ。もちろん、臨床的にはその病理診断に基づいて次の手を打っていく、すなわち治療方針を決定していくことになるので、そういう言い方を臨床医がいるのもわからないではない。そういう臨床医はいつまでたっても考え方を改めないので、放っておくしかないし、それに、全ての疾患において組織をとってきて、病理組織学的に診断を下しているわけではないので、そこらへんがこんがらがってしまう臨床医もいるだろう。
だが、臨床診断と病理診断は異なるもので、いつまでも検査扱いされていては困るのだ。日本の医療では、一人の患者に対して一人の医者が一番上位にあるという意識が強い。主治医という言い方が根強く残っているのはそういう考えからだ。チーム医療においては数人の医師がグループで患者の診断にあたり、看護師や検査技師などのコメディカルの協力を得て、治療を行なっていく。その患者に関わる全ての医師がそれぞれの責任を持って患者に対応するのだ。
一人の患者に対して臨床医が5人関わったとして、あとは放射線科医、病理医なども加えてのチームとなる。この話は病理医が関わらない領域の話ではないので、そんなに医者の数が多くないところではどうしろというのだ?という議論はここでは意味をなさないのは言うまでもない。
とはいえ意識の低い病理医もいる