この歳になるまで気がつかなかったことがある。
「勉強のできる人」というか「学歴の高い人」というのは、社会的に高い地位に就くべき、というか就いて当然だと思っていた。なにも考えもなく。でもそうではなさそうだということがやっとわかってきた。
”名選手すなわち名監督ならず”というが、そういうのとはちょっと違う。名選手はそれなりにカリスマ性もあるし、努力型の名選手だったらそれだけでもモデルケースともなるので、悪くない。まあ、そもそも名選手なんて数十年に一人しか出ないものなので、問題にならないのだ。ボルトやイチローが名コーチになるかならないかは問題ではないのだ。
それよりも問題なのは、日常的によく遭遇する、「ちょっと勉強ができて、高い学歴を手に入れた人」、そんな人というのは始末が悪い。具体的には”名門大学を出た”、ナントカの資格を持っている”、”多数の論文発表をしている”、などという人たちだ。
そういう経歴を否定するつもりは全くない。素晴らしいことだし、嫉妬する気も起こらない。大したものだ。
そうではなく、そういう経歴=全てにおいて優秀と置き換えてしまう人というのが結構いるので困る。勉強ができる、とか資格を持っているとか、論文をたくさん書いている、というのは普遍性は比較的高いことだけど、それはそれで偏った範囲のことでしかない。すなわち、そういった人=上に立つ資格のある人とは言えないのだ。
”高学歴””高実績”の人というのは、頭のいい人が多いので、マネジメントに関する知識も多く持っている。だから、上に立ったら、”こんな時は、こんな風にしたら、この人たち(部下)はこう動くだろう”と考えてしまう。
でも、実際は違う。
そういう人たちは、上に立った時、下の人(部下)ができない時にそれを理解することができない。自分ができることができない人のことを心の中で馬鹿にしてしまう。そんな人の下になったりしたら、たまったものではない。
学歴とか資格を取ったご褒美に、そんな地位を与えられるというシステムがなぜ存在するのかの原因はなんなのだろう?日本という、社会の閉鎖性が原因の一つに挙げられるかもしれない。人間の移動、入れ替えのない、閉鎖性の高い人しかいない社会の中では比較の基準となる項目が限られてしまう。その尺度が学歴とか資格になる。そしてそれだけが一人歩きする。こんな人でも大臣?とか教授?というのはよくある。 グローバル化の中、ジリ貧の日本という国が伸びていくためにも、このような悪しき民族性をよく自覚し、改めるべきことは改めていく必要があるだろう。
両方ふさわしい人もいます