こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

連休の中休みに仕事とは何なのかと考える

2022年05月06日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
 今朝は普段よりずっと早く目が覚めた。仕事に差し支えるからさっさと眠り直そうと目を瞑ってみるものの仕事のことが気になって目は冴えるばかり。スマホをいじったり、テレビで大リーグエンゼルスの大谷翔平の試合を見たりするうちにあっという間に1時間近く眠れないでいたが、起床時間の少し前にはうつらうつらしていたようで、一旦は眠ることができた。こんなことになるのも、歳のせいかそれとも今日は仕事があるせいか。改めて目を覚まして血圧を測ると、昨日までよりずいぶん高かった。そろそろ仕事のストレスというものを感じなくなってもいいように思うが、仕事というものに対するプレッシャーを感じないではいられないようだ。

 私の仕事は私でなくてはできないというわけではない。むしろより適切に対処できる人はいるに違いないし、さらにいまでは人間でなくてもAIでだってできることも多いはずだ。それなのにこうしてストレスと闘いながらも仕事を全うしようとしているのはむしろ間違っているように思う。ただ、今の職場で私なりに居場所があると感じることができるということは、私が多少は必要とされているからかもしれない。

 連休の中休みという言い方もおかしな表現だが、今週の月曜の朝よりも通勤の電車は混んではいたが、いつもほどではなかった。勤め人の数が増えていて、これは昨日で連休を終わりとするところがあるからかもしれないが、やっぱりずっと休み(休まされ)続けている人というのは多いのだろう。いずれにしても人はなんのために働いているのだろうか。他の人に必要とされているか、金のためか、自己実現のためか、居場所の確保のためか、その他、数えきれないほどののさまざまな理由があって、その全てが統合された状態が労働というものだ。ただ、労働というものにはさまざまな形態があって、何をもって労働かと定義することは容易ではない。

 労働において誰かの代わりはいくらでもいる。そう考えるのは物理的にか、技術的にか、理由はそのほかいろいろある。政治家の代わり、社長の代わり、医者の代わり、スポーツ選手の代わり、家族の代わり。気に入らないと思ったらいくらでも代わりはいるだろうにと思ってしまうが、大好きな人、尊敬する人がそこにいたらその人の代わりなどというものは全く思い浮かばない。私がどう考えられているか別として、私は私自身の代わりがいるだろうになどとは考えず、今ここで仕事を投げ出してはならないし、このストレスと対峙して職務を全うしたい。
しょうもないことか

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