オリーブの花が咲いた。昨年までと異なり、多くの花がついて喜んでいる。オリーブは自家不結実性なので、実を生らせるには別品種の花粉が必要であり、我が家にも大小で4、5本うわっているのに、なかなか多くの実がつかないでいるのだが、さて、今年は楽しみにしていいだろうか。
先週、通勤の電車の中、若い女性二人が私の隣に座った。一人は少し甘えたような声でよく喋っていたが、私の隣に座った人はそこそこガッチリしていて、そのよく喋る人の話を胸を張って黙って聞いていた。マスクをしていたのでよくわからなかったが目の綺麗な女性だった。チラッと横を見たら向こう側の女性としっかりと手を握り合っていた。なるほど女性同士のカップルであったかと合点がいった。その時に、いわゆる男女の性的役割が必ずしも表現型の違いによって担われているものではないということがわかった。
2丁目が今ほど観光化されていなかった30年以上前、ただのバカ学生だった私には馴染みのオカマバーがいくつかあってよく飲みに行って遊んだ。そんな時、そこで働いていた人たちに対して特別な感情を持つことはなかったし、いわゆる女性的であった友人がそこでバイトをするようになったからといって別に何とも思わなかった。
私にとっては、男が女であっても女が男であっても、そんなこと関係なく、楽しく飲んで歌って騒いでいたら、それだけでよかった。
女ー1ー2ー3ー4ー5ー4ー3ー2ー1ー男
男と女の間に1本の線をひいて結んだ場合、こんなふうにならないか。やることなすこと考えることが男という人はいるし、逆にそれらが女以外の何ものでもないという人もいる。そして私はこの線上の少なくとも両端にはいないと思うし、ちゅうぐらいのところでうろうろしながら生きている人というのは多いのではないだろうか。どの辺りの人が生物学的に優れているのかそうでないのかはわからないが、誰が誰よりも優れているということは絶対にない。
男らしさ、女らしさという定義自体が間違っているのではないか。生物は遺伝子を残すために性的に異なった役割を有しているが、それは恋するためではない。もちろん、人間にとっても恋は恋で、そもそもの目的は自らの遺伝子保存、生命の維持が変形発展してきたものである。人間はもともと弱い生物であって、猛獣から見たら男も女も大して変わらない。それでも、人間社会という安全に囲われた世界の中では、男性の方が筋力がやや強いせいで女性に対して優位性を保っている。逆に女性は平和主義的だというが男性によって力を持たせてもらえないできたからこそのことかもしれない。
女性に対する優位性をもって、男らしさというものを定義してきたのだとしたらそれは誤りだ。目先の問題で男性の既得権益を守ろうとするのは人類そのものの発展にとってマイナスであったという考えが必要だ。先進国と言われる国における少子化問題は男性至上主義の行き詰まりであり、女性の社会的地位向上が招いた問題ではない。男が女であろうと女が男であろうとそんなことはどうでもいい。
日本男児、という言葉があったが、それは一体何を意味したのだろうか、そしてそれが軍部によっていいように使われて多くの日本人男性が無駄死にしたということに思いを馳せなくてはいけない。男性中心的な思考というのは必ずしも男性に恵みをもたらせてくれるものではない。
見直すことが常に大事