こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

ダイエット作戦変更

2017年08月16日 | 日々思うこと、考えること

お盆休みで、電車内は空いているけど私のお腹の脂肪はなかなか空いてくれない。

一向に体重が減らず、かといって晩酌をやめる決心がつかないでいたところ、とある本に「階段上り下りダイエット」のことが書いてあった。
さっそく始めてみたら、これが意外と面白い。階段を上るごとに、「これは筋トレ」と意識するそうだ。それがモチベーションの維持につながるとのこと。

駅のすごく長いエスカレーターは危険なのでやめているけど、一、二階分は階段で上るようにした。病院ではすべて階段。といっても、病理診断科の部屋は三階で、医局も四階なのでそう苦にならない。そうしてみたら、上った階数が歩数計で10階分ぐらいだったのが20階分以上になった。やってみるものだ。

もう一つは電車内でのピラティス。これについては前にも書いたけど、なかなかうまいタイミングがみつからないでいた。

やっと最近、電車の空くタイミングがわかってきた。空いているので、両足を広げてしっかり立つことができて、この前のように後ろにひっくり返るようなことはない。しっかり踏ん張ってバランスをとることにした。

まあ、変更と言えるほどのことではないし、ダイエットといえるかどうかわからないけど、やらないよりはやったほうがいいだろう。

 千里の道も・・・

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傘が手放せない日々

2017年08月15日 | 通勤・交通・旅行

社会人(医者)、になってから、お盆の時期にはあまり休みを取ったことがない。病院は通常営業で、臨床のアクティビティが下がるというわけではない。おかげさまで今日も一日中忙しかった。患者さんにしても夏休みだから受診できるというメリットもある。
そんなわけで、この時期、毎年ガラガラの電車でのんびり通勤できる。ところが例年とは違うことが起きている。折りたたみの傘を常に持っているのだ。私は晴れ男というわけではないけれど、急な雨に降られた経験があまりない上、都内ではコンビニですぐに手に入れることができるので、一年に一度か二度しかないような機会のために、傘を普段から持つようなことはしないできた。
それが、今年はそれほど降られなかった梅雨が明けたと同時に雨模様の日が続く。朝から降っていたら、しっかりした傘をさして出かけるのだけど、最近の空模様は、場所と時間によって降るかもしれないし、降らないかもしれないというおかしな具合だ。なんというか、全体では降水確率は80%なんだけど、場所によっては20%ぐらいというような、降水確率は高いのだけど本当に降るかはわからない、という中途半端な状態だ。そうなると折りたたみの傘を持って出るしかない。



それにもまして、一度に降る雨の量が半端ではない。霧雨程度なら、駅まで少し濡れていってもと思うが、いまやゲリラ豪雨だ。
大学受験のときに暗記したWhen it rains, it pours.(降ればいつも土砂降り)というフレーズを思い出す。でも、それは運の悪いことを表現したものだったと思われ、その頻度はそれほど高いものではないはずだ。ところが今では意味が違う。本当に雨が降るといつも土砂降りなのだ。これには地球温暖化が関わっている可能性があるらしい。温暖化の影響で、大気中の水分量が多くなってしまったことで、少しのきっかけで土砂降りになってしまうようだ。雨ではないけれど雷の発生も温暖化に関係している可能性が指摘されている。
このまま環境破壊が進めば、産業革命が人類、地球にもたらしたものは福音ではなく不幸であったということになってしまう。それはそれでしかたのないことかもしれないけど、環境破壊を少しでも緩める方法は真剣に考えないといけない。

人間は罪深い

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敬語を使わない若者は、敬意がないのでは無く、ただ単に敬語を知らないだけ

2017年08月14日 | 生き方について考える

この歳になるまで気がつかなかったことがある。

若い人がどうして敬語を使うことができないのか、と疑問思っていた。そして、最近の若者は人に対して敬意を払うことがないのだと。ところがそうではなく、敬語を使うことが下手なのだということがわかってきた。自分が多くの人に、少なくとも見た目において敬語を使われる歳になって、その理由がわかってきたのだ。

若者たちは誰に対してどんな敬語を使うべきなのかを知らないだけなのだ。どうしてかというと敬語とは、使われたいと思う人にだけにしかその意味がわからないから。

目上の人に対して、上司に対して、顧客に対して。威張りたいから敬語を使わせる、というとちょっと言い過ぎだけど、良し悪しは別としてそこにはある上下関係が存在している。

そういう関係性の中で、敬語を知らない、敬語の使い方を知らないといって、若者に対して目くじらを立てても仕方がないのだ。関係性の中で下位にある者は上位になったことがないのだから、”上位にいる人がどういう風に敬ってほしいのか”がわからない。そういう人に対して”今の若いモンは言葉の使い方がなっていない!!”などといっても仕方がないのだ。

多くの若者は目上の人に対して、敬意の念は持っているのだ。人間は生まれた時、何もなく無力だ。だから誰かに守ってもらわなくては育っていけない。そのことは本質的に刻み込まれていることであり、目上の人間に対し敬意を持つということは人間として本質的なことなのだ。

敬い方を知らないというだけで、若い人のことを責めたりしてはいけない。大人になったら、そういったことまでひっくるめて受け入れたやらなくてはいけない。まあ、ジジくさい言い方になったといえばそれまでかもしれないが、問題はそれだけではない。

格差社会の中、問題の一つに年長者による若者からの搾取がある。世代間闘争ともいえるだろうが、これからの日本で労働者人口が減っていく中、これまでと同じような社会保障制度を保つことを考えるということは、若年世代からの搾取につながる。国の借金を無尽蔵に増やしているということも、同じようなことだ。

次世代への負債は残すだけ残して、自分たちは威張り放題。というわけにはいかない。

年長者は現実を直視し、もっと謙虚になり、次世代への配慮を持ってからやっと、若い人たちに対してあれこれ言うことができるようになる。まずは、自らが敬語を使われるべき存在とならなくてはいけない。

敬う気持ちが何より大事

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次々と消える鎌倉のお気に入りの家々

2017年08月13日 | 鎌倉暮らし

高度経済成長の頃、鶴岡八幡宮の裏山に住宅地を建てるという計画が持ち上がった。

その計画に従っていたら、鶴岡八幡宮の風景はこのようになるのだったそうだ。さすがにこれはない。

せっかく、米軍が爆撃しないでくれたのに、それ以上に醜怪なものになっていたかもしれない。

(これは今年のお正月に撮った写真。だけど、それが・・・)

(こんなになっていたかもしれないと考えるとゾッとする。)

 

その時、鎌倉の多くの人たちが反対に立ち上がり、現在のような姿は残った。その石碑が八幡宮の裏山、御谷(おやつ)の森にある。

鎌倉は空襲を免れたおかげで、古い家が多く残っている。でも、最近それらが、次々と失われている。

 

 

昭和レトロな感じの家で、庭も素晴らしかった。鎌倉に住んだら、こういうお家に住みたいと思っていたが、手に入れることはできなかった。

風情のある表札もいつの間にか消え去った。捨てるほどだったならば、もらっておけばよかった。

 

 

あっという間に更地になって、この後十数軒の家が建つそうだ。

この家の近くでお気入りの家があった。柳と松が立派な家で、近くにある古い神社の周囲の緑の一つとなっている。

こういったものは、一度失われてしまったらもう元には戻らないが、鎌倉市の財政状況では文化財として残すことは難しそうだ。

なんとかならないか

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終戦記念日がいつなのかを知らない人が多い

2017年08月12日 | 日本のこと、世界のこと

日本人の正答率、60%の問題。と尋ねられたらどんなレベルの問題を考えるだろうか?

まさか、それが『終戦記念日は何日か?』などという問題だとすると、驚いてしまわないだろうか。

確かに、ネットで調べてみると、どうやら終戦記念日を知っている人は実際4〜5割程度のようだ。

アメリカに戦争を挑んだことを知らない人がたくさんいる時代、終戦記念日なんてわからないだろう。そのうち、戦争をしたことすら忘れてしまうかもしれない。

先の大戦の記憶をどう残すか?

NHKのアーカイブ映像を8月になったら流すということだけではどうしようもない。やはり、記念日とか記念碑を残すしかないだろう。

日本は敗戦の記憶となる記念碑を残すことをしてこなかった。せいぜい、沖縄の平和祈念公園だが、あれは驚くことに県営だ。

そうすると、残すとすれば記念日だろう。

 

戦争の記憶となる日。

私の誕生日は12月8日で開戦記念日だが、母国が負けた戦争が始まった日を記憶の日とするには、抵抗がある。

ならば、ヒロシマ、ナガサキとなるが、これは別の意義がある。3月14日では、ちょっとよくわからなくなる。

そうすると、やはり終戦の日だ。この日を敗戦記念日と言う必要はないので、一番ふさわしい。山の日とか、海の日を新たに作るぐらいなら、8月15日を祝日としたらよかったのではないか。

でも、そんなことをすると嫌な気持ちがする人が少なからずいるのだろう。

終戦の日は8月15日

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自分が一番、という人は人を踏み台にしても平気

2017年08月11日 | 生き方について考える

この歳になるまで気がつかなかったことがある。

自分のことしか感がていなくて、なんでも自分が一番という人がいる。そういう人は、人を利用するのが上手で、人を使って出世するのが上手だ。

いい上司の顔をしているようで、他人なんて自分が出世するための踏み台としか考えていない。

使われる方の人間は、自分が使われているだけだということを気がつくのはずっと後になってだ。

 

”一将功成りて万骨枯る”という言葉がある。

『一人の大将の功名は,多くの兵士が戦死して骨を戦場にさらした結果である。一人の成功者の陰で,多くの犠牲者が忘れられがちなのを戒めていう。』

などという解説があるけれど、後半の”戒め”はほとんど役に立っていない。ほぼ全ての大将は部下の命などどうとも思っていない。後になって殊勝な顔をしているだけだ。

そういう人たちが、部下の命を使い捨てることなどなんとも思っていない。

確信犯だ。

先の大戦の時に、”一億玉砕”などという言葉を思いついた人物は、国民そのものの命をなんとも思っていなかったと言える。そんな人物によって支配されていた国民は幸せだっただろうか?

同じようなことは私の身の回りにも大なり小なりある。

所詮人間、自分が一番で、他人のことなんて構っていられない。という考えの人と関わると大変だが、避けては通ることができない。

誰もが自分の上司がそういう考えの人でないことを祈るしかないのだが、そもそもそういう考えの人が世の中には多いので、なかなか上手くいかない。

大きいレベルから小さいレベルまで

 

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勉強のできる人=上に立つにふさわしい人、というわけではない

2017年08月10日 | 生き方について考える

この歳になるまで気がつかなかったことがある。

「勉強のできる人」というか「学歴の高い人」というのは、社会的に高い地位に就くべき、というか就いて当然だと思っていた。なにも考えもなく。でもそうではなさそうだということがやっとわかってきた。

”名選手すなわち名監督ならず”というが、そういうのとはちょっと違う。名選手はそれなりにカリスマ性もあるし、努力型の名選手だったらそれだけでもモデルケースともなるので、悪くない。まあ、そもそも名選手なんて数十年に一人しか出ないものなので、問題にならないのだ。ボルトやイチローが名コーチになるかならないかは問題ではないのだ。

それよりも問題なのは、日常的によく遭遇する、「ちょっと勉強ができて、高い学歴を手に入れた人」、そんな人というのは始末が悪い。具体的には”名門大学を出た”、ナントカの資格を持っている”、”多数の論文発表をしている”、などという人たちだ。

そういう経歴を否定するつもりは全くない。素晴らしいことだし、嫉妬する気も起こらない。大したものだ。

そうではなく、そういう経歴=全てにおいて優秀と置き換えてしまう人というのが結構いるので困る。勉強ができる、とか資格を持っているとか、論文をたくさん書いている、というのは普遍性は比較的高いことだけど、それはそれで偏った範囲のことでしかない。すなわち、そういった人=上に立つ資格のある人とは言えないのだ。

”高学歴””高実績”の人というのは、頭のいい人が多いので、マネジメントに関する知識も多く持っている。だから、上に立ったら、”こんな時は、こんな風にしたら、この人たち(部下)はこう動くだろう”と考えてしまう。

でも、実際は違う。

そういう人たちは、上に立った時、下の人(部下)ができない時にそれを理解することができない。自分ができることができない人のことを心の中で馬鹿にしてしまう。そんな人の下になったりしたら、たまったものではない。

学歴とか資格を取ったご褒美に、そんな地位を与えられるというシステムがなぜ存在するのかの原因はなんなのだろう?日本という、社会の閉鎖性が原因の一つに挙げられるかもしれない。人間の移動、入れ替えのない、閉鎖性の高い人しかいない社会の中では比較の基準となる項目が限られてしまう。その尺度が学歴とか資格になる。そしてそれだけが一人歩きする。こんな人でも大臣?とか教授?というのはよくある。 グローバル化の中、ジリ貧の日本という国が伸びていくためにも、このような悪しき民族性をよく自覚し、改めるべきことは改めていく必要があるだろう。

両方ふさわしい人もいます

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この歳になってやっとわかってきたこと

2017年08月09日 | 生き方について考える

久しぶりに新カテゴリーを立ち上げることにした。

題して、”この歳になってやっとわかってきたこと”。

「実は、このことにはこんな裏があったんだ」とか、「これって、結局こうなんじゃない」などということだ。

世の中にはいろんなことがある。一昔前までは、それぞれの人の住む世界が狭かったので、別の世界を知るには小説などを読むしかなかったけど、今では、ネットを通じて画像付きでそれらをつぶさに知ることができる。そういった知識を自分の生活にフィードバックしてみると、身の回りにはいろんな人がいて、いろんなことをしているということがよくわかるようになってきた。

私は人間社会に裏側があるなんて知らずにずっとやってきた、まあ、極楽とんぼというような人生を歩んできたとも言えるけど、まずはそのことがこの歳になってやっとわかってきた。もちろん、事実は小説より奇なるものだから、いまでも、事実はネットより奇なるものだし、私の人生経験はそれでも乏しい。でもやっぱり、この歳になって実感として感じること、わかったと思えることは増えてきた。まあ、もともとその世界にいる人にとってはあたりまえのことかもしれず、「そんなこと知らなかったの?」と言われてしまいそうだが。

そういったことを”こんきも”に入れて書いてもいいのかもしれないと思ったのだけど、それにはそれぞれのテーマが大きい。カテゴリー分類なんて、自分のブログ整理のためなので、読まれる方にはあまり関係ないかもしれないが、”妻の名言”はちょっとした人気カテゴリーだし、”生き方について考える”(”考えてみる”から今日変更)も登場時、評価していただいた。そんなわけで、5本ほど書きたいことができたので、独立したカテゴリーとしてスタートしてみたい。目標としては”いじめとタバコと飲酒”ぐらいで、50本ほどになったら上出来だろう。

私のブログにカテゴリーが一つ増えるなんてどうでもいいようなことかもしれないが、読んでくださっている方の中には「これ、なんだろう?」と思ってくださる方も少しはいるだろうなどと思って、お知らせすることにした。

 

まずは明日

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台風一過とはなりそうにもなく

2017年08月08日 | 日々思うこと、考えること

超長寿ゆっくり台風5号は昨日遅くに上陸して、やはりゆっくりと近畿から北陸へと日本を横断していくようだ。勢力も結構強いままだ。

どれほど強い台風も一日もあれば大抵は通り過ぎていくというイメージがあったが、今回の5号はどうもそうではないみたいで、明後日になってもそこらへんをウロウロしているとの予想だ。

おまけに、台風が偏西風に乗って東の海上に抜けてくれたら多少は涼しくなるだろうに、今回の進路は西寄りで、台風一過の爽やかな空気にはなりそうもない。

今朝の鎌倉も生暖かい強風が吹いていた。

何より心配なのは、相次ぐ大雨被害だ。

これまでに結構なパンチを浴びせられてきたところへのフィニッシュブロウとなったりしないことを祈る。食料自給は国家成立のための肝心要だと思っているので、これ以上の農業被害はあってはならない。

鎌倉も数日は土砂災害には気をつけなくてはいけない。我が家の裏山もいつ崩れてくるかもしれない。

今日のところは、そうでもないようだが、明日からは猛烈な残暑となるらしく、気温もうなぎ上りとなるようだ。

そろそろ立秋かと思っていたら、昨日だった。あとひと月ほどは暑い日が続くだろうから、熱中症には十分気をつけた生活を送りたい。

今夜あたりは虫の声が賑やかそう

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ここでの自分、あそこでの自分。

2017年08月07日 | 生き方について考える

例えるならば、両側に沢山の部屋があるホテルの廊下だろうか。

自分の肉体、思考は1個なのに、ある時は”この部屋”で自分の役割を演じ、またある時は”こちらの部屋”で別な自分の役割を果たす。昨日の講習会の講師用にあてがわれた部屋は、突き当たりを曲がったところの部屋で、ここからは見えなかった。そこには、講演がうまくいくか一人心配していた私がいた。人間には無数の部屋、すなわち世界があるのかもしれない。このブログの世界も一つの私だ。なるべく自分のありのまあの心情、考えを書き記そうと努めているが、時々ふとよぎる暗い感情を書くことはできない。

このブログを書いている目的が、”そうあってはならない自分”を目指しているからだろうけど、心の奥底までをさらけ出していないということは、読んでくださっている方を裏切っているのではないかと自問する。それなら、小説家・絵描きなどの物書き、絵描きはどうだということになる。おそらく、あの人たちはそういう心の闇を赤裸々にさらけ出すことができるからこそ、多くの人の共感を集めるのだろう。だから、私のこのブログはブログ、これでいいと思っている。

そんな風に考えると、人間というのはつくづく細かくできているものだと思う。それぞれの人と話すとき、メールを一本一本出すたび、それぞれの人に対して違う自分を作って、別々の自分を演じている。当事者同士ではそれを裏表と感じることもあるかもしれない。でも、他人が他人のそういう姿を見ても、おそらくなんとも思わないだろう。

ドアで隔てられた部屋の中で何が起こっているのかなど、たとえドアがガラス張りであっても分かるわけがない。いや、その部屋の中にいる自分自身でさえも、何が起こっているのかわからないかもしれない。

人生は真っ直ぐなのか迷路なのか

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ビートたけしですらそうだと知って

2017年08月06日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

ビートたけしという人は、昔からすごい人だと思っている。お笑い芸人としても映画監督としても、俳優としてもそれぞれ一流だと思う。

昨日の朝は、やっぱりそれなりに緊張していたのだろう、5時過ぎには目が覚めてしまった。それと、ホテルということもあったのかもしれない。今日の出番は10時なので、もう一寝入りしようと思ったができなかった。発表スライドの手直しをしていなかったことを思い出して、少し手を入れたあと、気を紛らわそうとテレビをつけた。

そうしたら、NHKで落語を演っていた(桂文珍の演芸図鑑)。その落顔はすでに下げのところで、すぐに終わった。それに引き続いて桂文珍とビートたけしの対談が始まった。

ベッドの上でゴロゴロしながらみていたら、多芸であることを文珍に持ち上がれられたところで、たけしが「どれも、それなりにできるけど、それぞれ一流の人にはかなわない」みたいなことを言っていた。こういう、謙虚なところがこの人の人気に秘密だろうと思いながら話を聞いていた。

番組の終わりのところで、たけしが「何度演っても、その都度緊張するしね。何度うまくやっても、一度失敗したら、そのことずっと覚えているし。」と言っていた(少々寝ぼけていたので正確ではないかもしれません)。

私が、専門分野の話で講演だのに呼ばれるようになったのが、10年ほど前。多くの先輩の先生に引き立ててもらって、身の程以上のことをさせてもらって、現在に至っている。大した数をこなしてきたわけではないが、年に数度はやっていた。今回の講習会の講師も、内容は若干異なるが、何度目かになる。でも、やっぱり胃が痛くなってしまったりするのは、一体なんなんだろうと思っていた。

ところが、ふと観たテレビ番組で、ビートたけしが同じようなことを話しているのを聞いてなんだかホッとした。自分のことを脇に置いて考えたら、たけしのこの言葉というのは、これまた謙虚で、真面目な言葉として受け止めるだろう。とすれば、私もそれなりに、真摯に向き合ったら緊張するのも恥ずかしいことではないのだと。

会場について、今日話す別の講師の先生に、「いやあ、今朝は5時過ぎに目がめちゃいましたよー」と言ったら、「私もです」と返された。

たけしだけではなく、誰でも同じようなものなのか。

それにしても、日曜朝5時15分からこういう番組をやってしまうというのが、NHKのすごいところだと思う。ふとつけたテレビのチャンネルが、あのウサインボルトがついに3位に終わった100メートルの中継をしていた世界陸上でなくてよかった。

 

無事終わりました

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大丈夫です

2017年08月05日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

講習会1日目。
他の講師の先生達の話を、受講生と一緒に拝聴して勉強。同じセッションの先生と打ち合わせを済ませることもできました。
おかげさまで胃の痛みは収まり、あとは明朝寝坊しないように気をつけるだけです。

よく寝よう

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イタタタ、胃が痛い

2017年08月04日 | 日々思うこと、考えること

朝から胃が痛い。というか、胃の痛みで目がさめた。

明日からはじまる医師向けの、病理診断講習会での講義の準備がなかなか進まない。

講義といっても、今回はすごく短い(20分ほど)ので、たいした量ではないし、毎年話しているテーマだが、ちょっとずつ内容は変わる。いつにも増して、質の高い、かつ凝縮したものを話さなくてはいけないと思ってしまい、どこをエッセンスとしてどこを削ったら良いのかと考えるともう胃が痛くなってしまうのだ。

とりあえず、胃薬を飲んだが、一番の妙薬はスライドの完成だろう。ルーチン業務も山盛りだけど、なんとか時間をひねり出して頑張ってみよう。

私が伝えたいもの何か?

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弱い人の気持ちがわかったでしょ?

2017年08月03日 | 妻の名言

最近、通勤途中での失敗が続けてあった。

電車がホームに入ってきたので、急いで乗ろうと、階段を駆け上ったのはよかったのだけど、最後の一段でつまずいてしまった。すねをぶつけて、ズボンが破けてしまった。今はまだ、かさぶたが痛痒い。
また別の時には、ドア近くに立って、目の前の手摺りに掴まろうと思ったら、寄りかかっている人がいて、掴めない。あきらめてつり革に掴まろうと思った途端、電車が揺れて後ろにひっくり返ってしまった。それで後ろに立っていた人にぶつかってしまった。すぐに謝ってことなきを得たけど、とても申し訳ないことをしてしまった。

駆け込み乗車をしなければいいのだし、乗ったらすぐにつり革を掴めばよかっただけの話だけど、以前はこんなことなかった。こういうのが、老化の始まりなんだろう。いや、もっと以前から始まっていたのだろうけど、いよいよ症状となって出現してきたということなんだろう。

妻にこのことを嘆いて話したら、「そういうことがあると、弱い人の気持ちがわかるでしょ?よかったじゃない。」と返された。

近所を歩いていたら、以前住んでいたマンションの住人の男性が両手に杖を持ってゆっくりゆっくり歩いていた。いつのまにか随分と歳をとられていた。私より、30歳ぐらい上、親父と同じぐらいのお年のはずだ。生老病死。いつもそんなことの現場にいるはずなのに、実際は他人事だったのか。障害者の問題を憂えていたようでも、どれほど本気で考えていただろう。自分は身勝手だったのではないかと、反省する。

 

体に出始めたガタを自覚するようになり、やっと自分が弱い立場に移りつつあるということがわかってきた。身の丈に応じた生き方というものがあるのか、探しながらやっていけたらいい。

 

卑屈にはならないで

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人類の知性は守られるか・・・2017年7月の読書記録

2017年08月02日 | 読書、映画、音楽、美術

知性の転覆に一役買っていたような人が書いているのを読むと、一体どういう了見で?なんて、思ってしまうけど、実は自分自身も知性の転覆に一役買っていたということを自覚しないといけないと知らされる。知性ばかりでなく、品性も失われつつある現代社会だから、そんなタイトルの本が売れるのだろう。だけど、そういった言葉自体を商品化して消費していること自体に危うさがある。

知性が転覆しつつあるのは、何も日本だけの話ではない。世界中で同時進行している。水は低きに流れるというが、そりゃあテンションを高く保っているよりは、エネルギーの低い安定したところにいる方がよほど楽。みんなバカになってしまうのが楽ということだ。

バカというのは、勉強ができるできないということではない。知性、品性のないことがバカなのだ。

他の2冊は、勉強用参考書のため、割愛。

7月の読書メーター
読んだ本の数:3
読んだページ数:904
ナイス数:51

知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造 (朝日新書)感想
知性という気取った言葉が、人類にとって実はとても大切なもので、いつも意識していなくてはいけないものであるということを切々と語っている。そして、語りかけられた私自身が知性の消失に積極的に関わっていたということを自覚して愕然とした。でも、過ぎてしまったことに対して、とんでもないことをしてしまったと後悔しても仕方ない。今からでも自分の体勢を立て直して、知性の消失に立ち向かわなくてはいけない。
読了日:07月22日 著者:橋本治

読書メーター


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