ちょっと時期を逃してしまいましたが、10/28はW杯最終予選の最終戦、イラク戦でロスタイムに同点ゴールを食らってW杯出場を逃した「ドーハの悲劇(1993年)」から16年目です。
当時は私はサッカーファンになったばかりで、試合の内容は覚えていませんが、キックオフが夜中で見られなかった初戦のサウジアラビア戦以外は全部テレビで見ています。当時はJリーグが開幕した元年でした。
スタジアムでサッカーを見ることが難しかった時代で、当時はサテライトやJFLを見るのが手一杯でした。ましてや代表戦をスタジアムで見るなど当時は想像すらしなかった頃です。
このW杯最終予選は、ホームアンドアウェイが当たり前になった今では考えられない、カタールの首都ドーハでの集中開催でした。これは砂漠気候に慣れている西アジアの国に有利な制度で、当時はそれだけ東アジアの発言力が弱かったのです。
特に、初戦のサウジアラビア戦は隣国のため、サポーターが大挙してやってくるからアウェイ戦同然になると、当時のマスコミは報道していました。また、日本代表の直前の調整具合もあまり良いとは言えませんでした。
当時のオフト監督が率いた日本代表は一度スペインに遠征して、2部リーグのチームと2戦して、それから日本に戻ってアジアアフリカ杯のコートジボアール戦を戦うという、時差調整を考えると疑問の残る試合の組み方をしています。
しかも、そのスペイン2部リーグのチームに連敗してしまったのですから、始末が悪いです。当時の左SBの都並が負傷で出場できず、代役の選手が見つからなかったのが理由でした。今ならスペインまで行って2部のチームと試合をしても練習にならないという発想でしょうが、当時はそれに負けるレベルだったのです。
しかし、それでもコートジボアール戦を延長戦の末制したことと、キャプテンの柱谷哲二が復帰したことで、何とか当時の日本代表は期待を保っていた状態でした。左SBにはカズの実兄の三浦泰年が起用されていました。
当時の日本人にとっては、外国の代表チームと真剣勝負で何試合も対戦する試合を見るのは初めての経験でした。当時、サッカー番組から入ってくる相手チームの情報を聞くと、全てのチームが強そうに感じた記憶があります。
長くなりましたので、続きは明日、国立競技場で書きます。
当時は私はサッカーファンになったばかりで、試合の内容は覚えていませんが、キックオフが夜中で見られなかった初戦のサウジアラビア戦以外は全部テレビで見ています。当時はJリーグが開幕した元年でした。
スタジアムでサッカーを見ることが難しかった時代で、当時はサテライトやJFLを見るのが手一杯でした。ましてや代表戦をスタジアムで見るなど当時は想像すらしなかった頃です。
このW杯最終予選は、ホームアンドアウェイが当たり前になった今では考えられない、カタールの首都ドーハでの集中開催でした。これは砂漠気候に慣れている西アジアの国に有利な制度で、当時はそれだけ東アジアの発言力が弱かったのです。
特に、初戦のサウジアラビア戦は隣国のため、サポーターが大挙してやってくるからアウェイ戦同然になると、当時のマスコミは報道していました。また、日本代表の直前の調整具合もあまり良いとは言えませんでした。
当時のオフト監督が率いた日本代表は一度スペインに遠征して、2部リーグのチームと2戦して、それから日本に戻ってアジアアフリカ杯のコートジボアール戦を戦うという、時差調整を考えると疑問の残る試合の組み方をしています。
しかも、そのスペイン2部リーグのチームに連敗してしまったのですから、始末が悪いです。当時の左SBの都並が負傷で出場できず、代役の選手が見つからなかったのが理由でした。今ならスペインまで行って2部のチームと試合をしても練習にならないという発想でしょうが、当時はそれに負けるレベルだったのです。
しかし、それでもコートジボアール戦を延長戦の末制したことと、キャプテンの柱谷哲二が復帰したことで、何とか当時の日本代表は期待を保っていた状態でした。左SBにはカズの実兄の三浦泰年が起用されていました。
当時の日本人にとっては、外国の代表チームと真剣勝負で何試合も対戦する試合を見るのは初めての経験でした。当時、サッカー番組から入ってくる相手チームの情報を聞くと、全てのチームが強そうに感じた記憶があります。
長くなりましたので、続きは明日、国立競技場で書きます。