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DFラインの裏(大柴健二)

2009-11-16 18:54:17 | 浦和レッズ
代表ウイークはネタが少ないので、またも昔話で若いサポには失礼しますが、1996年から2000年まで浦和で活躍したFWだった大柴健二さんの思い出です。大柴はスピード型のFWで、DFラインの裏でボールがもらえる必勝パターンを持っていました。

福田の負傷時には、大柴と岡野で2トップを組み、岡野が大柴のことを「野人2号」「雑草」と呼んでいました。高校時代無名だった岡野自身と共通点があると思っていたらしく、プライベートでも仲が良いらしく、最近でも岡野の1日店長に大柴が駆けつけるほどでした。

大柴がキャリアで一番輝いたのは原監督の一年目の1998年です。それまでのドイツ人監督はプロ入りするような選手は完成されていてもううまくはならないという発想で練習を組み立てていましたが、原監督は既に25歳だった大柴も練習次第ではうまくなると考えていました。

原監督の居残り練習は、後にFC東京でも有名になりますが、この当時は原監督もまだ若く、自らシュート練習をさせることを苦にしませんでした。当時、居残り練習の対象は大柴と永井でした。

永井はギドのコネでドイツのカールスルーエに移籍して、フィジカルを身につけて帰ってきました。大柴もこの年は開幕からゴールを量産して、キャップは得られなかったものの代表合宿にも呼ばれています。

ただ、翌1999年は大柴にとって苦難の年になります。決定機に力みすぎて外すシーンも何度か見られ、大柴の不振もJ2降格の一つの理由になりました。居残り練習で鍛えてくれた原監督が去ったのも悪い影響があったかもしれません。

翌2000年は途中出場が主な役割になりますが、土橋のVゴールで昇格を決めた最終戦の鳥栖戦にも出場していました。ただ、この時期に左アウトサイドで起用されることが多かったので、自分はFWで勝負したいと思ったらしく、西沢の海外移籍でFWが足りなかったC大阪に移籍します。

その後は横浜FCに移籍したところまではチェックしていますが、現在どうしているかは不明です。輝いた時期があまりに鮮やかだったので、早すぎる引退は惜しまれる選手でした。
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