北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

借り物の体と来世

2010-08-21 22:25:47 | Weblog
 全道市役所弓道大会が釧路市の「湿原の風アリーナ」で開催されました。

 全道15市からの参加で、個人、団体の部などで日頃の鍛錬の成果を発揮してくれました。

「弓道では左利きでも必ず左に弓を持ち右手で矢を射るものです」と教わったのは掛川の弓道家からでした。

「それはなぜですか」
「昔は弓道場で矢を射る時に正対する方向に神棚や神床があって、鹿島神宮の建御雷神や香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)などの掛け軸などを飾ってあったものです。ですから、神様に正対する意味で右手で矢を射る形になり、背を向けるということがないのです」

 どこまで本当かはよくわかりませんが、単なる的当てを競うスポーツではなく、凛とした動作のそのものに意味があると言われると、武道とはそういうものか、という気になるものです。

 今日の参加者の武運はどうだったでしょうか。





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 人生には生れ落ちての運、不運があるけれど、それを踏まえて一生懸命に生きようとする人と、自堕落に落ち込む人がいて、その差は一体なんなのだろうと考えていました。

 いろいろ考えてたどり着いたのは「この体といっても今生(こんじょう)の借り物で、今生でやりきれなかったことはまた来世でできる」と信じているかどうかではないか、ということでした。

 どうせ土に還る今生の命と体ではありますが、借り物だから適当に使うのか、それとも借り物だからこそちゃんと手入れをしておかなくてはならない、と思うかの違いがそこにはありそう。

 折角今回与えられた命を乗せる体を借りられたということに感謝する人は一生懸命心身を鍛えて恩に応えようとします。しかしそういうことに気づかないか気づいても気にしない人は、心身の手入れも怠って適当に使ってしまうのではないでしょうか。

 幼い時はそれほど差がなくっても、齢を重ねるごとにその差が開いてゆくのも当然なのかもしれません。

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 そしてもう一つ、来世があるということを信じているのかどうか。

 一生懸命今生を生きて、自分の限界を見定めたところで命の限界が来たときは、来世でその残りをさらに追及しようとする。だから今生を精一杯生きて、来世へつなぐことを何度もしている人は、生まれ変わりを重ねて充実した魂をもっているのではないのでしょうか。

 よく、実年齢では同じ年なのに、大人びた考え方をする人もいれば、感情を抑制できないような幼さが滲み出る人がいます。

 これって、今回与えられた命の意味をよく分かっている人とそれがわからない人とのちがいなのではないか、と思うのです。

 人は死んだらそれまで、なのではない。今回の命を死ぬまでの間にどう生きたかということが、いつか次に与えられる来世の命のためになっていると考えれば、今生も行けるところまで行ってみよう、という気持ちになるのではないでしょうか。

 最近ちょっと油断している自分への反省も込めた自戒の弁でした。

 まずは部屋の掃除から始めようっと。
コメント (1)
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