北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

事は苦なれど、意は快なり

2011-05-25 23:45:01 | Weblog
 先日ある仕事の担当者と話をしていると、「いやあ、先日仕事の相手から散々に怒られました」という話題になりました。

「何をそんなに怒られたのですか」
「いや、いろいろと普段から思うところがあったようです。しかし、私を散々に攻め立てるのですが、実は同じ席にいた同僚への不満もあったようですけど」

「それが分かっていて怒られ続けたわけ?私じゃないでしょ、と言えば良かったのに」
「いえ、話をしていて、『ああ、これは自分じゃなくて、彼に対する不満なんだな』と分かってきました。でも誰かが発散する感情を受け止めないと収まらないものですからね。案の定、何日か後にその方と会った時には『先日はちょっと言い過ぎてすみませんでした』と言っていただきましたよ(笑)」


    ※     ※     ※     ※     ※


 
 江戸時代の儒学者、佐藤一斎が晩年に表した四冊の書物である言志四録のうち、言志晩録にはこうありました。


  人とことを共にするには、彼は快事を担い、
   我は苦事に任ぜば、事は苦なりと雖(いえど)も、
    意はすなわち快なり。

  我は快事を担い、
   彼は苦時に任ぜば、事は快なりと雖も、
    意はすなわち苦なり。

(訳文)
 人と仕事を共にする場合、彼が愉快な仕事をして自分が苦しい仕事を引き受けるならば、仕事そのものは苦しいけれど心は愉快である。
 逆に、自分が愉快な仕事をして彼が苦しい仕事を引き受けたならば、仕事は愉快だが心は苦しいものだ。 






    ※     ※     ※     ※     ※


 ある本に、今回の大震災が発生した際に、ある方が四トントラックにたくさん食料を積んで被災地に向かった時のエピソードが載っていました。

 その方はどこの避難所が困っているかを調べてから届けに行ったのですが、到着すると被災者の方が「うちよりもこの先の避難所の方が困っているからそっちに行ってほしい」と言われたのだそう。

 それで次の避難所へ行くと、やはりそこでも「さらに奥の方がもっと困っているからそちらへ」と言われる。
 
 そんなことを十一回繰り返して、十二カ所目の避難所は本当に困っていてそこでは涙で感謝されて炊き出しをして帰ってきたのだと。

 ところがその方が帰ってきてからテレビを見ていたら、そう断られた避難所が映っていて、「いまこの避難所は物資が欠乏していて、一日一個のおむすびしか食べていない」と紹介されていたのだそう。

 今自分のところには一日一個のおむすびしかないけれど、その一個のおむすびすらないところがあるからそちらへ行ってほしいということだったのだと分かったのです。


 なんだろう、これは日本人の美徳なのか、東北人の美徳なのか。

 人間は苦しい時に本性が現れます。自己を常に磨き続けなくては。  
コメント
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