札幌の自宅は小学校の近くにあるので、通勤の途中でよく小学生の子供たちとすれ違いました。
毎日同じ頃に同じ道を通ると、すれ違う子供たちも決まってきます。
子供たちとすれ違うときは、心の中で見守ってあげるのも地域の大人の務めかしら、と思い、ちらちらと様子を見るのが常でした。
大概の子供たちは元気なもので笑いながら通学の道を歩いていましたが、中には神経質そうに、なにか不安でもあるかのように早足で学校へ向かう子供もいたりします。
しかしこちらも声をかけるわけにはいきません。
心の中では、(君が何を不安に思っているか知らないけれど、今の悩みは大きくなってみれば大したことはないとわかるよ)と思うけれど、子供の時の不安って大人が思う以上のものがあったはず。
不安げで寂しげな子供の顔は見たくありません。
どうすることもできませんでしたが、その子を笑顔に変えてあげるには何ができたことでしょう。今も答えは出なくて、ちょっと胸が詰まる記憶になっています。
※ ※ ※ ※ ※
通学の子供たちの姿は様々で、なかには数人のグループで歩きながら、一番後ろの子がみんなのランドセルや荷物を持たされているようなときもありました。
おそらくジャンケンで負けたか何か、背負いきれないランドセルや袋を持たされて歩く姿は滑稽ですが、一歩間違えるとイジメじゃないのか、と不安な気持ちも。
子供たちに悪気はないのでしょうが、大人はいろいろな心配をするものです。
※ ※ ※ ※ ※
一人の子供がたくさんの荷物を持たされている姿を見ると、私は古事記の中の、大国主命と因幡の白ウサギの話をつい連想します。
古事記の大国主命による国づくりの段では、大国主命(=オオアナムチ)には八十神(やそがみ)と呼ばれる大勢の兄弟がいたことになっています。
この兄弟たちがこぞって、因幡の八上神(ヤガミヒメ)に求婚をしようと言い出し、そこへ向かうことになったのですが、大国主命は他の兄弟神からのけものにされていて、従者のように大きな袋をかつがせられ、一番後ろをとぼとぼと歩いていました。
そこで皮を剥がれた白ウサギに出会います。
白ウサギは先を歩いていた八十神に「傷には塩水につかると良い」とからかわれて、却って苦しんでいたのですが、大国主命は、川の真水で体を洗いガマの穂で身を包むように優しく教えると、ウサギの傷は癒えて、そこで「ヤガミヒメはあなたを選ぶでしょう」という予言を受けたのでした。
実際、ヤガミヒメは大国主命を選んだのですが、その結果逆に兄弟神たちに恨まれてひどい目にあい、おまけにヤガミヒメとも結婚できずに、スサノオの支配する根の堅州国に逃げ込む羽目になります。
大国主命は結局そこで、スサノオの娘であるスセリビメを奪って行き幸せになるのですが、このくだりは古事記でも良いですが、大正時代に芥川龍之介が『老いたる素戔嗚尊』という小説でドラマチックに描いています。
調べてみたら今やこの小説はネットでも読めようです。是非ご一読を。
《『老いたる素戔嗚尊』芥川龍之介》 http://bit.ly/HKRajQ
※ ※ ※ ※ ※
さて話がずれました。言いたかったことは、みんなの荷物を持たされても、そういう役回りをじっと果たすことで幸せになるものだ、ということを祖先の神話は教えてくれているということでした。
イジメにならない程度の友達同士の付き合いのなかから、良い思い出を作ってほしいものです。心の中で(ガンバレ)を叫んでいる私です。
ところで、地域の防犯活動として「83運動」というのがあるのをご存知でしょうか。
朝8時と夕方の3時は子供たちの通学時間ですが、この時間帯に地域の人たちは掃除など、家の外に出る用事を作って子供たちを見守ろう、という運動です。
「子は宝」
地域で子供たちを見守ってあげようではありませんか。
毎日同じ頃に同じ道を通ると、すれ違う子供たちも決まってきます。
子供たちとすれ違うときは、心の中で見守ってあげるのも地域の大人の務めかしら、と思い、ちらちらと様子を見るのが常でした。
大概の子供たちは元気なもので笑いながら通学の道を歩いていましたが、中には神経質そうに、なにか不安でもあるかのように早足で学校へ向かう子供もいたりします。
しかしこちらも声をかけるわけにはいきません。
心の中では、(君が何を不安に思っているか知らないけれど、今の悩みは大きくなってみれば大したことはないとわかるよ)と思うけれど、子供の時の不安って大人が思う以上のものがあったはず。
不安げで寂しげな子供の顔は見たくありません。
どうすることもできませんでしたが、その子を笑顔に変えてあげるには何ができたことでしょう。今も答えは出なくて、ちょっと胸が詰まる記憶になっています。
※ ※ ※ ※ ※
通学の子供たちの姿は様々で、なかには数人のグループで歩きながら、一番後ろの子がみんなのランドセルや荷物を持たされているようなときもありました。
おそらくジャンケンで負けたか何か、背負いきれないランドセルや袋を持たされて歩く姿は滑稽ですが、一歩間違えるとイジメじゃないのか、と不安な気持ちも。
子供たちに悪気はないのでしょうが、大人はいろいろな心配をするものです。
※ ※ ※ ※ ※
一人の子供がたくさんの荷物を持たされている姿を見ると、私は古事記の中の、大国主命と因幡の白ウサギの話をつい連想します。
古事記の大国主命による国づくりの段では、大国主命(=オオアナムチ)には八十神(やそがみ)と呼ばれる大勢の兄弟がいたことになっています。
この兄弟たちがこぞって、因幡の八上神(ヤガミヒメ)に求婚をしようと言い出し、そこへ向かうことになったのですが、大国主命は他の兄弟神からのけものにされていて、従者のように大きな袋をかつがせられ、一番後ろをとぼとぼと歩いていました。
そこで皮を剥がれた白ウサギに出会います。
白ウサギは先を歩いていた八十神に「傷には塩水につかると良い」とからかわれて、却って苦しんでいたのですが、大国主命は、川の真水で体を洗いガマの穂で身を包むように優しく教えると、ウサギの傷は癒えて、そこで「ヤガミヒメはあなたを選ぶでしょう」という予言を受けたのでした。
実際、ヤガミヒメは大国主命を選んだのですが、その結果逆に兄弟神たちに恨まれてひどい目にあい、おまけにヤガミヒメとも結婚できずに、スサノオの支配する根の堅州国に逃げ込む羽目になります。
大国主命は結局そこで、スサノオの娘であるスセリビメを奪って行き幸せになるのですが、このくだりは古事記でも良いですが、大正時代に芥川龍之介が『老いたる素戔嗚尊』という小説でドラマチックに描いています。
調べてみたら今やこの小説はネットでも読めようです。是非ご一読を。
《『老いたる素戔嗚尊』芥川龍之介》 http://bit.ly/HKRajQ
※ ※ ※ ※ ※
さて話がずれました。言いたかったことは、みんなの荷物を持たされても、そういう役回りをじっと果たすことで幸せになるものだ、ということを祖先の神話は教えてくれているということでした。
イジメにならない程度の友達同士の付き合いのなかから、良い思い出を作ってほしいものです。心の中で(ガンバレ)を叫んでいる私です。
ところで、地域の防犯活動として「83運動」というのがあるのをご存知でしょうか。
朝8時と夕方の3時は子供たちの通学時間ですが、この時間帯に地域の人たちは掃除など、家の外に出る用事を作って子供たちを見守ろう、という運動です。
「子は宝」
地域で子供たちを見守ってあげようではありませんか。