
今日から夫のカメラの記録でキナバル山への旅を綴ります。

上の美しい朝焼けをホテルで眺めた後、バスで登山口へ移動。

町の中は大した渋滞もなく、のんびりムードです。


さて、私たちが突然、または徐々にでも、自分の死に直面したとき、
「自分は、周囲の人に何を望むのか?を考える・準備する」のが
この本の趣旨ではないようですが、私は、そのように捉えました。
P.98 「在宅緩和ケアを看取り屋ぐらいにしか思っていない主治医」
という言葉が出てくるほど、<緩和ケア>というと、
<医学的治療方法が無いから、医療から見放される>という感じがします。
実際、”緩和ケア”が「カンオケヤ」に聞こえる……という
笑えない話もあるそうです。
P.99 (医学界では)死の医学は遅れています。
人の身体が死に向うとき、医療を施さない自然な状態では
身体にどういう現象が現れるのかという研究は、殆ど目にしたことがない。
そりゃあそうです。
治すことが使命の医師が医療を離れた自然死を研究するわけがない。
P.100 この死の医学の観点を抜きにして緩和ケアを実践することはできません。
病院医師にとって治療の目標は患者さんにいい人生を送ってもらうことではなく、
少しでも長く生きさせることです。
「医師の仕事は治してあげること」という思考が染み付いていて、
これを生きがいとして仕事をしています。
この治すことの真逆にあるのが緩和ケアです。
在宅緩和ケアは医療設備ゼロの自宅でこの真逆のことをやるのです。
今、私の母を含めて、かなり多くの知人が
「無駄な治療は受けたくない。管だらけで、ベッドに縛りつけられたくない。」
<延命治療は断る>と、言っているのです。
でも、<がん末期>とか、<老衰>とか、明らかに治療の手立てがない時でなく、
脳梗塞・心筋梗塞などの急性血管障害や不測の事故などの場合に、
どこまで医療を求めるのか?を、よ~~く考えておく必要がありそうです。
P.105 在宅緩和ケアは治す医療ではなく、患者さんとご家族の心を診る医療です。
死を受け入れる大切さ、最期の日まで生きることの大切さを、
時間をかけて患者さんやご家族に理解してもらいます。
医学の知識だけでできる仕事ではありません。
このようなお医者さんを、自宅近くに見つけ出し、懇意になっておくことが重要そうです。