尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「同性婚」と日本国憲法

2014年07月09日 23時26分39秒 | 社会(世の中の出来事)
 6月初めに青森県で女性どうしで「婚姻届」を提出したカップルがいたが、市役所から憲法を根拠に認められないと不受理になったという。そういうニュースが昨日のYahoo!ニュースにアップされていて、大手のマスコミには出てないけど、初めてこのニュースを知った。検索してみると、「“解釈改憲”で同性カップルの結婚は実現できるか?」という記事も出てきて、やはり同じことを考えている人がいるんだなと思った。ちょっとこの問題を考えておきたいと思う。

 憲法というのは、憲法24条の以下の条文を指している。(太字は引用者)
第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない

 これを素直に読めば、婚姻(結婚)には「両性の合意」(だけ)が必要とされることになる。それに「素直な解釈」を行えば、性別というのは「男性」と「女性」だから、結婚しようと思う男性と女性の合意がいるという規定である。(実際には、男性、女性以外にも、少数ではあるが「インターセックス」(半陰陽)が存在する。)

 しかし、どうして「素直な解釈」をしなければならないのか憲法9条を素直に解釈すれば、集団的自衛権どころか、個別的自衛権さえ認められるのか、疑問としなければならないだろう。しかし、安倍内閣は個別的自衛権をさえ超えて、集団的自衛権さえ現憲法で認めうるというのである。そこまで9条を「超解釈」できるんだったら、24条だって「解釈改憲」できるのではないか、という話である。

 安倍首相がどうして集団的自衛権を認められると考えるかというと、「日本人の命を守るため、自衛隊が米国の船を守る。それをできるようにするのが今回の閣議決定です。人々の幸せを願って作られた日本国憲法がこうしたときに国民の命を守る責任を放棄せよといっているとは私にはどうしても思えません。この思いを与党の皆さんと共有し、決定いたしました。」と言うのである。

 それを援用するならば、「人々の幸せを願って作られた日本国憲法」が、ただ同性を愛するという性的指向を持っているだけで、そういう人々の「国民の幸せを守る責任を放棄せよといっているとはどうしても思えません」となる。

 そもそもどうしてこういう条項が規定されたのだろうか。今見ると、結婚しようとするご両人の同意が結婚には必要です、って当たり前すぎる決まりである。しかしながら、戦前の家族制度の下では、強大な家父長権をタテにして「家族のため」「親の決めた」結婚を強いられる女性(男性もだが)がかつてはたくさんいたのである。というか、長い間「結婚とは家の釣り合いを考えて親が決めるものだ」というのが、日本人の通念だった。そこで「個人の尊厳」を重んじる日本国憲法においては、「結婚するには結婚しようとする両方の男女の同意がいる」=「成年男女だったら、親が反対していても二人の責任で婚姻届を退出できる」とされたわけである。まさに「人々の幸せを願って作られた日本国憲法」なのである。

 ところで、先の条文をよくみると、後段に「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とあるのが注目される。その対象はいくつかあがっているが、「配偶者の選択」が入っている。つまり、「配偶者の選択に関する法律は、個人の尊厳を重んじて決定されるべきである」と書いてあるのである。ここをよく考えてみると、日本国憲法は「同性婚を否定してない」と考える余地があるのではないか。制定当時は「同性婚」は問題化していなかったのだから、憲法は明文では同性婚を肯定も否定もしていない。そこで「憲法の趣旨」を考えることになるが、憲法が「人々の幸せを願って」作られているのなら、できるだけ時代にあった解釈をして行かないといけないのではないか。

 もう少し言うと、これも憲法で規定はされていないが、日本では刑法で重婚を禁じている。つまり「一夫多妻」「一妻多夫」あるいは「多夫多妻」は認められていない。(これは「法律婚」の話。刑法の姦通罪は戦後に廃止されたので、婚姻関係にある男女が他の男女と性的関係を持っても(もちろん)違法ではない。しかし、そういう関係は法的な婚姻関係に認められる制度的な有利さを受けられない。)そのことを前提にすると、「結婚とは必ず二人の人間どうしで行う」ということになる。つまり「ある男性とある女性」が結婚しようと思った時に、その二人の同意を「両性の合意」と憲法は表現している。

 そうするならば、「ある男性とある男性」または「ある女性とある女性」が結婚しようと思う時も、この二人の合意を「両性の合意」と読めばいいのではないか。男性と男性(女性と女性)だって、「両性」=「何らかの性別を持つ両方の人間」ではないか。これは「詭弁」だろうか。これが詭弁だと思うなら、集団的自衛権容認なんて詭弁の極みではないかと思うが。

 以上書いたことは、「半分本気」の論である。一応本気でそういう解釈が可能だと思うのだが、書いたきっかけは安倍政権の「詭弁」に触発されている。同性婚には賛成ではあるけれど、やはり憲法改正をしてはっきりさせた方がいいと思う。それ以前に、同性婚容認論議以前にするべきことがあるのではないかと思っている。「同性婚」が不要だとは言わないが、何らかの事情で「結婚できない人」も多数いるだろう中で、「結婚制度の強化」につながってはおかしいだろう

 つまり、異性愛であれ、同性愛であれ、性的関係によってつながれた関係の二人のみを、法的、経済的に優遇する制度であっていいのだろうかということである。むしろ、性的関係(異性、同姓を問わず)の有無、子どもを持つ持たないに関わらず、気の合ったパートナーと暮らすときに「結婚関係と同等に相続や扶養の税制を利用できる」という制度、社会的パートナーシップというような制度を作っていく方が緊急性が高いのではないかと思う。そういう問題もあると思うが、安倍的思考をもってすれば、現憲法においても同性婚が可能なはずではないのか。他にも探していけばそういう論点はあると思う。もっともそのことで、憲法の価値を損なうとしたらおかしいのだが。
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