高石ともやさんの「年忘れコンサート」は、30年以上夫婦で通っている年末の恒例行事で、今年は12月19日に亀戸カメリアホールに行ってきた。このブログにも毎年何かのかたちで書いてきたけど、今回も「是非知って欲しい話」があるので書いておきたい。

今年のゲストは中川五郎。誰?と言われるかもしれないが、最も初期のフォークシンガーで、翻訳家、編集者としての仕事も大きい。僕もブコウスキーの翻訳者(大傑作「詩人と女たち」や「くそったれ!少年時代」は中川五郎の訳だった)としての方がよく知ってる。何で中川五郎なんだろうと思うと、それは今年1月に亡くなったピート・シーガーの追悼だった。「花はどこへ行った」を全員で歌ったりした後で、中川五郎コーナー。そこでは、ピート・シーガーの公民権運動の歌を歌い、次にボブ・ディランの「ライセンス・トゥ・キル」という歌を替え歌で歌った。「殺しのライセンス」と言えば「007」だけど、こっちは「誰が権力者に戦争のライセンスを与えたのか」というプロテストソング。あきらかに、今の日本の状況を踏まえて「誰があの男に強大な権力を与えてしまったのか」「それは私たち自身なのではないか」と突きつける歌である。最後にピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」を熱唱。これは明らかにベトナム戦争をうたった歌だが、もう過去の歌かと思っていたら最近の日本でも意味が出てきたから歌っているという。(どっちもなかなか聞く機会もないだろうから、ユーチューブへのリンクをしておく。)完全に「反戦フォークシンガー」が戻ってきたのである。そうなってしまった日本の状況がある。
高石ともやは、日本の伝統的な歌は「抒情詩」だけど、「フォークソング」は「叙事詩」を歌うと述べて、今でも広い意味での「社会派」である。だけど、マラソンやトライアスロンを始めて、ホノルルマラソンには今年も含めて38回連続出場。そういうイメージも強くなっいるけど、今回はまさに「日本の現状を歌う」みたいなコンサートだった。その後、「2014 東北の冬」と題して、「海に向って」を歌った。これは2011年の年忘れで歌った曲だが、被災地をめぐる中で歌ってきた曲である。3年前のブログに歌詞を紹介してあるが、ちょっと再引用すると、以下のような歌。
*わたしはひとり海に向って/立っているのです
海の風に吹かれながら/立ちつくしているのです
1.こわれる 世界を 止めようもありません
何が 私に できると いうのでしょうか
(*くりかえし)
2.あふれる 想いを 止めようもありません
わかって いるのに どうにも できないのです
(*くりかえし)
3.流れる 涙を 止めようもありません
それでも それでも 精一杯 生きたいのです
これはアメリカのカーターファミリー(大恐慌時代ごろに活躍した家族のフォークグループ)の歌で、ずっと前に訳詩を付けて歌ってきたものだけど、まさに「3・11」のための歌としか思えない。「海に向って立っているのです」「こわれる世界を止めようもありません」「あふれる想いをとめようもありません」「それでも精一杯生きたいのです」…。この曲は長い間、本人も歌わなかった曲だけど、2011年には心にしみわたる曲としてよみがえった。
その後で、山形県長井市で活動するアマチュアのフォークグループ「影法師」の曲が紹介された。僕は全く知らなかったグループで、これは是非紹介しておきたい。昨年の年忘れの打ち上げで、NHKが耳にタコができるくらい流してる「復興支援ソング」という「花は咲く」は嫌だなあ、偽善的だという話になって、その「アンサーソング」を作るべきでは、という話が出たらしい。やっぱりそう思ってるのかと僕も納得するけど、その「アンサーソング」に当たる歌をすでに作って歌ってたのが、この「影法師」の「花は咲けども」という曲である。影法師のホームページから、短縮バージョンを聞くことができる。
原子の灰が 降った町にも 変わらぬように 春は訪れ
もぬけの殻の 寂しい町で それでも草木は 花を咲かせる
花は咲けども 花は咲けども 春をよろこぶ人はなし
毒を吐きだす土の上 うらめし、くやしと 花は散る
花は咲いても、春を喜ぶ人は避難生活から戻れていないではないか…という悲痛な現実を歌う。ところで、実は彼らは「白河以北一山百文」という歌をすでに何十年も前から歌っていた。東北弁で歌われるので、なかなかわからないんだけど、東北道が開通したら首都圏からのゴミが押し寄せてきたという現実を歌ってる。その3番にすでに原発を東北に押し付けるなと歌っていたのである。作詞した「あおきふみお」さんも来ていて熱い思いを語っていた。このコーナーの最後に「We Shall Overcome 蝉しぐれ」を歌って終わったのが印象的で、感動的だった。是非、影法師のサイトを見て下さい。
その後休憩となり、後半はバンジョーを交えて、様々に歌ったが、最後の方でまたビックリ。岐阜県中津川で活躍してきた笠木透というフォーク歌手がいる。高石ともやが歌う「わたしの子どもたちへ」を作った人。この人が最近作った「水に流すな」という曲を歌った。これがすごくて、「海を汚すなよ」「水に流すなよ」「私は恥ずかしい」と御詠歌のようなリフレインが繰り返される。日本人の心の奥底に響くような「抵抗歌」だと思う。まだユーチューブなどに見つからないが、横井久美子さんとのコンサートのようすなどは見つかった。
客層は高年層はほとんどで、平均年齢65歳ぐらいかなと思ったけど、毎年ひとつずつ高石ともやとともに年齢を重ねてゆく。こういうコンサートに来るぐらいだから、ほぼ全員が棄権せず自民以外に入れたんだろうなと思うような集まりで、そういう意識を持った人が「私は恥ずかしい」と歌わざるを得ないような日本の現実から逃げられない。でも最後の最後は、持ち歌の一つ、アメリカのフォークソング「陽気に行こう」で締めくくり。「喜びの朝もある 涙の夜もある 長い人生 ならば さあ陽気にゆこう…」

今年のゲストは中川五郎。誰?と言われるかもしれないが、最も初期のフォークシンガーで、翻訳家、編集者としての仕事も大きい。僕もブコウスキーの翻訳者(大傑作「詩人と女たち」や「くそったれ!少年時代」は中川五郎の訳だった)としての方がよく知ってる。何で中川五郎なんだろうと思うと、それは今年1月に亡くなったピート・シーガーの追悼だった。「花はどこへ行った」を全員で歌ったりした後で、中川五郎コーナー。そこでは、ピート・シーガーの公民権運動の歌を歌い、次にボブ・ディランの「ライセンス・トゥ・キル」という歌を替え歌で歌った。「殺しのライセンス」と言えば「007」だけど、こっちは「誰が権力者に戦争のライセンスを与えたのか」というプロテストソング。あきらかに、今の日本の状況を踏まえて「誰があの男に強大な権力を与えてしまったのか」「それは私たち自身なのではないか」と突きつける歌である。最後にピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」を熱唱。これは明らかにベトナム戦争をうたった歌だが、もう過去の歌かと思っていたら最近の日本でも意味が出てきたから歌っているという。(どっちもなかなか聞く機会もないだろうから、ユーチューブへのリンクをしておく。)完全に「反戦フォークシンガー」が戻ってきたのである。そうなってしまった日本の状況がある。
高石ともやは、日本の伝統的な歌は「抒情詩」だけど、「フォークソング」は「叙事詩」を歌うと述べて、今でも広い意味での「社会派」である。だけど、マラソンやトライアスロンを始めて、ホノルルマラソンには今年も含めて38回連続出場。そういうイメージも強くなっいるけど、今回はまさに「日本の現状を歌う」みたいなコンサートだった。その後、「2014 東北の冬」と題して、「海に向って」を歌った。これは2011年の年忘れで歌った曲だが、被災地をめぐる中で歌ってきた曲である。3年前のブログに歌詞を紹介してあるが、ちょっと再引用すると、以下のような歌。
*わたしはひとり海に向って/立っているのです
海の風に吹かれながら/立ちつくしているのです
1.こわれる 世界を 止めようもありません
何が 私に できると いうのでしょうか
(*くりかえし)
2.あふれる 想いを 止めようもありません
わかって いるのに どうにも できないのです
(*くりかえし)
3.流れる 涙を 止めようもありません
それでも それでも 精一杯 生きたいのです
これはアメリカのカーターファミリー(大恐慌時代ごろに活躍した家族のフォークグループ)の歌で、ずっと前に訳詩を付けて歌ってきたものだけど、まさに「3・11」のための歌としか思えない。「海に向って立っているのです」「こわれる世界を止めようもありません」「あふれる想いをとめようもありません」「それでも精一杯生きたいのです」…。この曲は長い間、本人も歌わなかった曲だけど、2011年には心にしみわたる曲としてよみがえった。
その後で、山形県長井市で活動するアマチュアのフォークグループ「影法師」の曲が紹介された。僕は全く知らなかったグループで、これは是非紹介しておきたい。昨年の年忘れの打ち上げで、NHKが耳にタコができるくらい流してる「復興支援ソング」という「花は咲く」は嫌だなあ、偽善的だという話になって、その「アンサーソング」を作るべきでは、という話が出たらしい。やっぱりそう思ってるのかと僕も納得するけど、その「アンサーソング」に当たる歌をすでに作って歌ってたのが、この「影法師」の「花は咲けども」という曲である。影法師のホームページから、短縮バージョンを聞くことができる。
原子の灰が 降った町にも 変わらぬように 春は訪れ
もぬけの殻の 寂しい町で それでも草木は 花を咲かせる
花は咲けども 花は咲けども 春をよろこぶ人はなし
毒を吐きだす土の上 うらめし、くやしと 花は散る
花は咲いても、春を喜ぶ人は避難生活から戻れていないではないか…という悲痛な現実を歌う。ところで、実は彼らは「白河以北一山百文」という歌をすでに何十年も前から歌っていた。東北弁で歌われるので、なかなかわからないんだけど、東北道が開通したら首都圏からのゴミが押し寄せてきたという現実を歌ってる。その3番にすでに原発を東北に押し付けるなと歌っていたのである。作詞した「あおきふみお」さんも来ていて熱い思いを語っていた。このコーナーの最後に「We Shall Overcome 蝉しぐれ」を歌って終わったのが印象的で、感動的だった。是非、影法師のサイトを見て下さい。
その後休憩となり、後半はバンジョーを交えて、様々に歌ったが、最後の方でまたビックリ。岐阜県中津川で活躍してきた笠木透というフォーク歌手がいる。高石ともやが歌う「わたしの子どもたちへ」を作った人。この人が最近作った「水に流すな」という曲を歌った。これがすごくて、「海を汚すなよ」「水に流すなよ」「私は恥ずかしい」と御詠歌のようなリフレインが繰り返される。日本人の心の奥底に響くような「抵抗歌」だと思う。まだユーチューブなどに見つからないが、横井久美子さんとのコンサートのようすなどは見つかった。
客層は高年層はほとんどで、平均年齢65歳ぐらいかなと思ったけど、毎年ひとつずつ高石ともやとともに年齢を重ねてゆく。こういうコンサートに来るぐらいだから、ほぼ全員が棄権せず自民以外に入れたんだろうなと思うような集まりで、そういう意識を持った人が「私は恥ずかしい」と歌わざるを得ないような日本の現実から逃げられない。でも最後の最後は、持ち歌の一つ、アメリカのフォークソング「陽気に行こう」で締めくくり。「喜びの朝もある 涙の夜もある 長い人生 ならば さあ陽気にゆこう…」