尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「グレート・ビューティー」

2014年12月29日 22時30分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画で、今年度の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「グレート・ビューティー 追憶のローマ」を遅ればせながら見た。パオロ・ソレンティーノ監督。非常に素晴らしい映像美で、現代の混沌と退廃を描きだした名作。好き嫌いはありそうで、周りの観客の中にもつまらなそうにしている人がいたが、ストーリイ性がないので判りにくい面はある。でも、流麗な映像美に酔いながら、様々のエピソードを通して現代人の不安があぶりだされて来て、非常に素晴らしい作品だと思う。ロードショーでは見逃して、新文芸坐の一日だけの上映で見たが、今後も再見したい映画。

 ジェップ・ガンバルデッラという主人公の65歳のパーティから映画は始まる。(というか、その前にローマ観光中の日本人旅行客のシーンがあるのだが。)このジェップという人物は、昔「人間装置」という傑作小説を書いて文壇に認められた。しかし、その後は書けなくなり、毎夜毎夜セレブのパーティを渡り歩き、雑誌のインタビューなどの仕事をしているという人物である。簡単に言えば、この映画はジェップをだしにして、ローマ地獄めぐりをしていく話で、映画ファンならすぐピンとくるようにフェリーニの「甘い生活」や「フェリーニのローマ」、あるいは「8 1/2」にインスパイアされている。

 ジェップは自分を振り返り、もう自分に遺された時間は少ないと思う。そんな日々に、かつての恋人エリーザが死んだと告げられ、しかも彼女の夫からは妻はずっとジェップのことを愛していたと言われる。そんな時、旧友のストリップバーに立ち寄ると、42歳にもなる娘ラモーナの結婚相手探しを頼まれる。ジェップはラモーナと意気投合し、一緒にあちこちを訪ね歩くようになる。しかし、ラモーナも永遠に去っていき、親友の劇作家もローマを捨て…。そんな日々に104歳の聖女がアフリカからやってくる。そういうエピソードを書き連ねていても、この映画の魅力を伝えたことにはならないだろう。現代人の不安と混迷を描いているわけだが、「甘い生活」時代のエネルギーではなく、ひたすら流れていくことへの諦念のようなものがある。

 画面はほとんど動いている。しかし、手持ちカメラによる不安定なものではなく、移動やクレーン撮影、またはクローズアップ(それらは渾然一体となっていると僕は思った)などによるもので、非常に流麗なカメラワークでとらえられる「永遠の都」の姿は陶然となるほど美しい。こういうカメラは最近は珍しいが、「すべては歴史の中で移りゆく」という映画のテーマを表わしているのだろう。性と死、ウソと真実を行ったり来たりする映画世界は圧倒的な印象を与える。パオロ・ソレンティーノ(1970~)は、「イル・ディーヴォ」というアンドレオッティ元首相を描いた代表作をなぜか見逃していて、ショーン・ペン主演でアイルランドで撮った「きっとここが帰る場所」しか見てない。ジェップ役のトニ・セルヴィッロは、いつもソレンティーノ監督作品に出ているらしいが、驚くほどの名演。歴史遺産だらけのローマという舞台も素晴らしく、非常に満腹した映画。旧作もいろいろ見ているが、どうもまとめて書く気持ちが起こらない。「グレート・ビューティ―」は新作なので簡単に書き残す次第。(この日本語表記はどうなんでしょうね。英語題であるのは仕方ないのだろうか。)
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新しい織田信長像をめぐって

2014年12月29日 00時40分05秒 |  〃 (歴史・地理)
 織田信長(1534~1582)は誰でも知っている。好き嫌いは様々でも、日本史上の破格の人物と思われてきた。ときには「無神論者」とか「自分が神になろうとしている」とまで言われる。足利将軍家だけでなく、天皇や公家の権威まで内心では否定していたとも思われている。比叡山を焼き討ちし、一向一揆を「寝切」して、中世的な宗教の時代を終わらせた「革命児」である。その残虐さにおいても人間離れ、時代離れしていた。軍略においては「天才」で、少数の兵ながら機略で勝利したり、最新の兵器である鉄砲を縦横無尽に駆使して、全国統一を進めていった。これが「信長神話」である。

 そういう信長が統一半ばに「本能寺の変」で倒れた。それは単に明智光秀の裏切り程度の問題ではありえない。背後に驚くべき大陰謀があったに違いない…と最近でも「本能寺の変の黒幕探し」本が無数にある。ところで、今書いたような「俗説的信長像」は今どんどん覆されている。少しまとめて読んでみたので、少し紹介しておきたい。信長本は非常に多く、とても追い切れない。ここでは3冊の画像を載せたが、読んでる本はもっと多い。売れるからだろうが、在野の研究者や歴史マニアの著書も多い。

 そんな中で、定評ある吉川弘文館の「人物叢書」から出た池上裕子「織田信長」(2012)は、最近の信長研究のまとめでもあり、反響も大きかった。帯には「英雄視する構成の評価を再考し等身大の姿を描いた決定版」とある。僕は今回やっと読んだけれど、歴史ファンなら読んでおくべき本だろう。洋泉社の歴史新書から日本史史料研究会編「信長研究の最前線」が出た。若い研究者による最新動向が判る本。そして最後に、一向一揆の研究者として著名な神田千里「織田信長」(ちくま新書)が出された。帯には「この男、革命児にあらず!」とある。近年の研究動向を簡単にまとめれば、そういうことになるかと思う。歴史小説に出てくる信長像とは大分違う。
  
 戦史の再検討は前から行われてきた。桶狭間の戦い(1560)は、う回路から雨中を奇襲攻撃した信長が、上洛を目指す今川軍を襲撃したと言われてきた。しかし、う回路ではなく正面から攻撃したようだし、今川軍が上洛目的だった証拠はない。長篠の戦い(1575)も、鉄砲の三段打ちなどの「革命的戦術」で武田軍を破った「世界史的な意義」まで主張されてきたが、今は「三段打ち」など不可能だとされる。近代的な武器と訓練あってこそ可能で、当時の火縄銃では無理なのである。音も大きいし、機動的に動けない。信長だけが新技術に積極的というのも「神話」で、武田軍も鉄砲はかなり持っていた。

 教科書に必ず出てくる「楽市楽座」が信長のオリジナルではなかったとは、最近言われるようになった。そもそも畿内の状況ばかりが取り上げられ、関東や九州の戦国時代などはあまり知らないものである。しかし、戦国期の史料は関東の後北条氏が一番残っているのだそうだ。相模や武蔵では北条氏の支配が長く続き、滅亡後はそっくり徳川氏の支配に引き継がれたからである。日本各地で戦国期の研究が進んでくると、他の大名でも信長と似たような政策を行っていたのが判ってきた。今までの信長像は江戸時代のバイアスが大きくかかっていたと思う。徳川氏は豊臣氏を滅ぼしたが、織田信長は家康の同盟者だったから、「信長は先見性があった」(から家康と組んで全国統一を進めた)けど、「豊臣政権は失政が多かった」(から人心は家康に移った)とされたわけである。

 重要点はいくつもあるが、まず「天下布武」について。信長は美濃の斎藤氏を制圧して、それまでの稲葉山を岐阜と改名し、「天下布武」の印を使い始めた。そして足利義昭を擁して上洛したので、この時点から全国統一を目指していたと思われてきた。それが全く間違いで、当時の「天下」とは「五畿内」(山城、大和、摂津、河内、和泉)、つまり首都圏制圧が「天下布武」である。室町時代後半は将軍を擁した有力守護大名が畿内に実権をふるうのが、幕府の実態だった。信長=義昭体制も同様で、決して新しい政体を目指していたわけではない。その後、両者の対立が激しくなるが、義昭が人心を失ったというべきで、信長と天皇、公家との関係は悪くない。戦闘で苦戦することも多い信長としては、「天皇の権威」が必ず必要なのである。天皇の権威が不要だったなどというのは全くの間違いで、信長ほど「勅命講和」(天皇命令での停戦)をたくさん使った武将はいない。

 「一向一揆」の理解も大きく変わってきた。今までは、ともすれば「一向一揆=農民軍」的な見方があった。全国統一を目指す信長との戦いは、領主権力と農民階級の雌雄を決する一大階級決戦とさえ思われた。しかし、加賀を一向一揆が支配した時代には加賀国内の領地は本願寺が支配し、税も本願寺が収めてきた。朝廷からも、他の大名からも、本願寺は戦国大名のひとつと扱われたのである。教主顕如の妻は左大臣を務めた三条公頼の娘であり、顕如の姉は武田信玄に嫁いでいる。信玄と顕如は義兄弟なのである。公家と武家と本願寺をつなぐネットワークがあり、一向一揆も信玄などとの反信長同盟の一環なのである。確かに信長は一向一揆を根切(女子供も含めた全員殺害)にしたが、それも戦国の戦いでは多かった。「階級決戦」や「宗教との戦い」だったら、その後本願寺が存続を許され、秀吉や家康とは共存した事実が理解できない。

 案外普通の武将だった信長であるから、もう少し長命だったら、武田勝頼に勝利した後の「朝廷による三職推任」(朝廷側から、信長に太政大臣、関白、征夷大将軍のうち、いずれか望む職に就くように求めてきた)を受けていただろう。しかし、その時は訪れなかった。明智光秀の反乱は、今は「四国政策の変更」が大きな理由だろうという理解が進んできた。信長は阿波(徳島県)が本拠の三好一族と戦っていたから、ある時期までは土佐の長宗我部元親の四国統一を支持していた。その取次が明智光秀だったのである。光秀の有力家臣斎藤利三の異母妹が元親の妻だったという縁である。しかし、信長は突然長宗我部攻撃に方針を変更した。本能寺の変は、まさに四国征討直前に起きた。信長の子信孝を総大将にした四国征討軍は翌日に出発予定だったのである。

 信長は独裁的で、尾張出身者を優遇し、息子たちを重視していたのは間違いない。そのため、後から参加した外様的な人々の多くは離れていった。これは戦国時代のやむを得ない生き方なのかもしれない。毛利家で信長との交渉役を務めていた安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は、織田方の秀吉と交渉を重ねて、毛利氏に以下のような報告をした。「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」(信長の時代は、後3年、5年と持たないだろう。来年あたり公家になると思われる。その後、「高ころび」するだろう。秀吉は信長と違って一緒に転落するとは思えない人物である。」すべて当たったことで有名である。具眼の士には見えていたのである。
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