尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

直木賞受賞作「等伯」

2015年11月10日 00時02分08秒 | 本 (日本文学)
 大きな問題を調べて書いていく元気が少し足りなくなっているので、しばらく本や映画の記事を。特に本は大分たまっているので、この際まとめて書いてしまいたいと思う。まずは、安部龍太郎「等伯」で、2013年1月に発表された148回直木賞(2012年下半期)の受賞作である。同時に受賞した朝井リョウ「何者」については、その当時に単行本を読んで記事を書いたが、この「等伯」は2巻本の長い本なので文庫化を待っていた。芥川賞や直木賞の作品は文庫になれば必ず読むようにしている。
 
 この等伯とは、もちろん日本絵画史に屹立する巨人、長谷川等伯(1539~1610)のことである。まあ、名前ぐらい、あるいは代表作の「松林図」ぐらいは知っているが、逆に言えばその程度しか知らない。具体的にどの時代の人かさえ、はっきりと知っているとは言えない。そんな画家の人生を読んで面白いのか。読めば判るが、圧倒的な面白さでぐいぐい引きつけられる。(下=松林図の左右)
 
 能登(石川県北部)の七尾に武士の子として生まれ、幼い頃に絵仏師の家に養子に出された。能登の戦国時代と言われても、急には思い浮かばないが、ここは室町時代に管領(かんれい)を務める名家だった畠山氏の領地だった。七尾は京都の文化を受容した文化都市だったのである。しかし、畠山七人衆と言われる重臣層のクーデタで畠山氏は追放された。等伯の実家は畠山氏の家臣で、父は戦死し、兄は御家の再興に努める。この「北陸の血」と「武士の血」という運命が一生を左右した。

 絵師としてどうしても都に上って勉強したい、名声高い狩野派の絵に負けたくないという思い。一方で、織田信長と浅井、朝倉の争い、信長の比叡山焼き討ちなどに巻き込まれ、波瀾の人生行路をたどる。世は信長から秀吉へと移りゆき、等伯は次第に名声を得ていくが、豊臣政権下でも利休をめぐる不可解な争いが起き…。そんな中、狩野派と競いつつ、芸術家として生きる等伯。しかし、家庭生活にはさまざまの悲劇も待ち受けているのだった…。(下=楓図)

 歴史小説として抜群のリーダビリティを満喫しつつ、「政治と芸術」という大問題を突き付けられる。僕が思い浮かべたのは、ナチス政権下のフルトヴェングラー、あるいはスターリン体制下のショスタコーヴィッチなどの姿である。あるいは、中国の文化大革命時代の芸術家の運命である。信長や秀吉のような、極端な個性による独裁の下では、生き抜くことも難しい。特に日本の画家は、大名階級による巨大な城や寺院建築の襖絵を受注できるかどうかに人生がかかっていた。ヨーロッパの美術や音楽も、ある時代までは王家や大貴族がスポンサーだったわけだが、日本でも町人(ブルジョワ)階級が芸術の消費者として現れるのは、まだだいぶ先の話である。

 安部龍太郎(1955~)は福岡県八女(やめ)の生まれだが、久留米工業高専卒業後に東京に出て、大田区役所に勤めたり、図書館司書をしたりしながら、歴史小説を書いていた。デビューは1990年の「血の日本史」で、当時から大型新人と言われていた。「関ヶ原連判状」や「信長燃ゆ」、「天馬、駆ける」など多数の作品があるが、直木賞は「彷徨える帝」(1994)で一回ノミネートされただけで縁遠かった。「等伯」は遅すぎた受賞というべきだろう。とにかく、格の高い良質の歴史小説を読んだという満足感に浸れる。もっとも、小説である以上当然のことながら、重要な部分でいくつかのフィクションが施されていると思われる。しかし、それも歴史小説の醍醐味というもんだろう。

 純文学を対象とする芥川賞は、新人による短編小説に限って対象とするが、直木賞はある程度「職業作家」として認知された新人作家に与えられる性格が強い。対象もエンターテインメントの長編小説が選ばれることが多い。そういう意味では、直木賞作品は「面白い作品」にめぐり合う確率が高い。好きになった作家はその他の作品に進むきっかけとなる。2~3年で文庫化されるので、最近は2012,2013年当たりの受賞作が文庫化された。辻村深月「鍵のない夢を見る」や浅井リョウ「何者」、桜木柴乃「ホテル・ローヤル」、朝井まかて「恋歌」(れんか)などまで文庫化されている。この中で、僕がビックリしたのが「恋歌」で、幕末の水戸藩の壮絶なる内戦を描いている。一葉の歌の師として知られる中島歌子の過去に、これほどの恋と獄中体験があったとは。知らずに読んでビックリである。
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