尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

台湾新電影時代

2016年05月02日 00時08分43秒 |  〃  (旧作外国映画)
 新宿のケイズ・シネマで「台湾巨匠傑作選2016」という特集上映を行っている。(4.30~6.10)その中にはホウ・シャオシェン(1947~)やエドワード・ヤン(1947~2007)の作品から、最近の「セデック・バレ」「KANO」まで多くの作品が含まれている。ドキュメンタリーの「台湾新電影時代」(2014)や是枝裕和が作った「映画が時代を写す時-侯孝賢とエドワード・ヤン」(無料)の上映もある。かねがね中国や韓国の名作に比べて、台湾映画がしばらく上映されていないように思っていた。今後、ホウ・シャオシェンの「冬冬の夏休み」「恋恋風塵」もリバイバル上映が予定されている。この機会に「台湾ニューシネマ」を中心にアジア映画の受容史を振り返ってみたい。
 
 今回上映される中で、劇映画でただ一本見ていないのが、1982年のオムニバス映画「光陰的故事」。ウィキペディアで見ると、この映画が台湾ニューシネマの始まりで、行政院長だった宋楚瑜による改革の成果だという。日程的に今日しか見られそうもないので、行ってきた。台湾の青春の諸相を描くが、オムニバスということもあり、まだそれほど印象には残らない。2作目をエドワード・ヤン(楊徳昌)が監督している。(4話目にシルビア・チャンが出ている。)この映画は日本では正式公開されていないが、1983年の「坊やの人形」は1984年に公開された。これもオムニバス映画で、ホウ・シャオシェンが1話目を監督している。これは当時見たが、やはりそれほど感心しなかった思い出がある。確かに技術的にはまだまだだったと思う。それは同時代の中国映画や韓国映画にも言えることで、アジアへの関心から見に行くが、映画ファンではなくアジアに関心を持つ人が出かけるイベントだったと言える。

 もともと映画はアメリカが世界の中心で、芸術的に優れた映画がヨーロッパ(主に仏伊英、およびポーランド)で作られる。日本の映画は時代劇やアクション映画などが毎週公開されていたが、それらの映画を見る人は外国映画は見に行かない。当時はアジア映画が公開されることは基本的にはなかった。僕が映画を見始めた70年代には、アジア映画はキネマ旬報ベストテンに一本も選ばれていない。(それまでに選ばれたのは、サタジット・レイの「大地のうた」だけ。)でも、アジア映画を知らなかったわけではない。「燃えよドラゴン」の大ヒットを受けて、70年代後半には香港のカンフー映画が山のように公開されていた。また中国や「北朝鮮」の「革命映画」が「友好運動」として上映されていた。

 その後、80年代に入ると、中国の文化大革命終了に伴い、「第五世代」と呼ばれた人々が活躍し始める。陳凱歌「黄色い大地」、田壮壮「盗馬賊」やなどである。これはその頃池袋の文芸坐で行われていた中国映画祭で上映された。また韓国映画の新作も企画上映される機会が増えていた。僕はそのほとんどを見ていると思う。アジア映画への興味関心に止まらず、東アジアの民主化支援、上映館への支援という意味もあるからである。今、キネマ旬報ベストテンを確認していくと、80年代初期は、まだフェリーニ、ベルイマン、ブニュエルなどの新作が入っている時代だった。そんな中で、初めてアジア映画でベストテンに入ったのは、1985年のユルマズ・ギュネイ監督「路」。公開時にすでに亡くなっていたトルコのクルド人監督である。ギュネイの後に、1988年になると謝晋の「芙蓉鎮」が入る。文革の悲劇をうたいあげた多少感傷的な作品だが、岩波ホールで大ヒットしたことは記憶に新しい。

 そして、1989年になると、中国のチャン・イーモウ「紅いコーリャン」が3位。台湾のホウ・シャオシェンの「恋恋風塵」が8位、「童年往時」が10位と一挙にアジア映画が入選している。翌90年にはホウ・シャオシェンの最高傑作「悲情城市」が1位、「冬冬の夏休み」が4位とホウ・シャオシェンの時代となる。1年おいて92年にはエドワード・ヤンの最高傑作「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」、93年にはチャン・イーモウ「秋菊の物語」が2位、ホウ・シャオシェン「戯夢人生」が9位。そして、イランのアッバス・キアロスタミの「友だちのうちはどこ」が8位である。以後毎年書いても仕方ないが、中国、台湾、韓国、イランのどこかの映画が大体毎年一本は入選している。またヨーロッパ映画でも北欧や東欧、あるいはスペイン、ギリシャなど小国の映画がたくさん公開され評価される時代になっていった。

 その後の世代では、台湾出身のアン・リー(李安、1954~)が登場するが、今ではすっかりアメリカで活躍している。「ブロークバック・マウンテン」と「ライフ・オブ・パイ」で2回アカデミー賞監督賞を得た。「グリーン・デスティニー」や「ラスト、コーション」のように中国が舞台の映画を作ることもあるとしても、世界で活躍する監督というしかない。また、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮、1957~)がいるが、今後は商業映画を引退しビデオ・アートなどを中心に活動するようだ。もともと大衆的に受けるというより、独自のアート系映画を作り続けた人である。だから、結局台湾ニューシネマと言えば、ホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンの二人の存在が大きい。他にも王童監督などもいるが、中国や韓国にはさまざまの映画監督が続々と登場したことに比べ、台湾映画における先の二人の大きさが際立っている。そして、エドワード・ヤンは60歳を前に急逝してしまい、それが台湾映画の大損失だったということである。

 エドワード・ヤンは今回も「光陰的故事」を含めて3本しか上映されない。これではまだ全貌が見えてこない。台湾が「新興開発地域」として韓国や香港、シンガポールと並んで注目されたのは、80年代のことである。経済的に大発展していることは知っていたが、僕はエドワード・ヤンの作品を通して、現代人の孤独をこれほど深く追求する芸術が台湾で生まれていることを理解した。(それはツァイ・ミンリャンにも言える。)監督個々の個性や才能が大きいと思うが、同時に台湾の歴史、特に複雑な現代史が影を落としているように思える。

 その台湾現代史を鋭く追及したのが、ホウ・シャオシェンの「悲情城市」であるのは言うまでもない。「紅いコーリャン」も衝撃的だったけど、「悲情城市」が突きつけてくる歴史認識の重みも衝撃だった。これは歴代の台湾映画の最高傑作で、超えるのは難しい。もっとも、僕はホウ・シャオシェンの映画を受け入れるのに時間がかかった。「童年往時」などあまりにも静かで小さな世界が続くので、だんだん判らなくなってくる。「恋恋風塵」も繊細すぎて、なんだかさらっと見てしまう。後であれッと思うが、まあそれこそ人生だと示すような映画。もしかして、小津や成瀬を初めて見た欧米人もこのように戸惑ったのかもしれない。「冬冬の夏休み」は最高の児童映画で、これはよく判る。普通の意味で一番感動的な映画だと思う。以後はまたよく判らなくなり、日本で一青窈主演で作った「珈琲時光」なんかも、悪くはないけど、なんだと思うような映画。そういうのが多くなっていく。

 台湾は日本の敗戦後、中国国民党が「光復」してくるが、独裁的な政治を行った。大陸で革命が起こった後は、国民党本体が移ってきて、蒋介石の独裁政治が1975年の死まで続く。その後の蒋経国時代に徐々に民主化が進み、次の台湾出身の李登輝主席時代に、「主席公選」制度が実現する。僕は聞いていても判らないけど、台湾では「国語」としての「中国語」(北京語)と台湾で生まれた人(内省人)の話す「台湾語」が違う。民衆を描くということは、台湾語映画ということでもあるから、自分の幼年時代を描くということだけでも社会的、政治的な意味合いが出てくる。そういう要素はよく判らないで見ていたけれど、見ているうちに慣れて行った。それが他のアジア諸国の映画を見られるようになった時に役だったように思う。最近は韓国映画と並び、青春映画が多い。「藍色夏恋」「あの頃、君を追いかけた」「海角七号 君想う、国境の南」「共犯」などなかなか面白い映画が多い。ごくフツーにエンタメ系映画が紹介されるような時代になってきたと言うことだろう。
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