ちょっと体調を崩していたが、ようやく新作映画をいくつか見た。最近は落合散歩記を書いていたが、これは連休ごろに歩いたところを、家にいるから最近まとめていたもの。まずは今年のアカデミー作品賞「スポットライト 世紀のスクープ」。作品賞と脚本賞を取り、監督、編集、男女助演賞にもノミネートされた。これはなるほどと納得できる結果で、編集リズムの冴え、演出の魅力を存分に味わうことができるが、やはり一番の功績は素晴らしい脚本にある。ジョシュア・シンガーと監督を務めたトム・マッカーシーの共同脚本。ジョシュア・シンガーはテレビで活躍してきたらしく映画は2本目だが、複雑な内容を巧みにつないでいく作法はシナリオのお手本を見る感じがする。(撮影をアメリカで活躍するマサノブ・タカヤナギが担当している。「ブラック・スキャンダル」などを撮った人。)
内容は割と知られていると思うが、ボストンの地元紙「ボストン・グローヴ」にユダヤ人の上司が赴任してくる。そして、特報担当部門「スポットライト」担当の記者4人に、ボストンのカトリック教会で児童虐待が相次いでいる問題を取り上げてはと提案する。ボストンは圧倒的にカトリックが多く、教会は不可侵の存在と思われていた。今までも個々には取り上げたことがあるが、どの事件も大事にならず示談になっていた。問題神父は「病気休職」などとして教会を離れ、少しすると別の教会に転任して再び事件を起こす。これは個別の神父の問題ではなく、カトリック教会の「隠蔽の構造」こそ調査報道するべきではないのか。かくして、被害者の証言を集め、被害者側や教会側の様々な弁護士に会い、情報公開を求め、事実が「点」から「面」になりかかるころ、2001年9月11日が訪れる…。
この大スクープは世界に反響を呼び、カトリック教会も対策をとらざるを得なくなった。そのことは当時日本でもかなり報道された。「ボストン・グローヴ」なんて新聞名は覚えてないけど、この問題は記憶している。大体、成功したスクープだから映画化されるわけで、なんだか「プロジェクトX」みたいな感じがしてくる。そこがこの映画の弱点だと思うけど、昔から結構はずれが多いアカデミー作品賞の中では、かなり納得できる出来だと思った。とにかく複数の関係者の人間的葛藤をうまくつないでいく脚本の冴えが圧倒的に面白かった。(英語のセリフが案外判りやすく、なるほどこういう言い回しをするのかといった勉強にもなる。)
ボストンも村上春樹のエッセイで読むとすごくいい町なんだけど、「ミスティック・リバー」やこの映画を見ると、どの町にも暗部があるんだなあと思う。アメリカの宗教や人種の機微もよく描かれている。アルメニア系の弁護士が孤独を訴えたり、ユダヤ人だからカトリックの暗部を追求できるんだとか、21世紀になっても「人種」が影響を与えていることが判る。児童虐待というか、要するに性犯罪なわけだが、サヴァイヴァーの様々な人生も感銘深く描かれている。アメリカは今でも珍しいほど宗教的な社会だが、日本のような基本的には世俗的な社会だとこのテーマは多少わかりにくい。だけど、「隠蔽の構造」という意味では、日本でも、あるいはどこの国でも共通のものがあるだろう。
カトリックの聖職者は独身を義務付けられているが、映画の中で出てくる研究者はそれが問題の根源だと言っていた。そうすると、日本では親鸞が妻帯して以来、僧も妻子があることが常識化していったのは、どう考えるべきなんだろうか。「家」構造の形成以来、寺も後継者としての子供がいないと困るということになる。だけど、禅宗などには修行のために「女色を断つ」ことを評価するタテマエがあったようだ。そこから生じる偽善を寺で見ていたのが、作家の水上勉。水上原作、川島雄三監督の映画「雁の寺」では破戒僧を三島雅夫が演じ、その愛人を若尾文子が演じて圧倒的だった。また水上原作、久松静児監督の「沙羅の門」という映画では、森繁久彌が内妻と子供まで持ちながら、正式な結婚をしなかったというだけで、「独身を通した」と宗門から評価されるという偽善の極みを描いている。ちょっと違うけど、世界で「宗教者と性」という問題は存在するのかもしれない。
イタリアのパオロ・ソレンティーノが英語で作った「グランド・フィナーレ」。マイケル・ケイン、レイチェル・ワイズ、ハーヴェイ・カイテルなど世界的なキャストで作られているが、映画全体としては物足りない。だけど、この映画ほど美しい映像美を堪能できる映画も珍しい。ソレンティーノの前作「グレート・ビューティ」も僕は好きで、美しい映画だった。スイスのリゾートホテルに住む老齢の世界的音楽家の物語。そのホテルはトーマス・マンが「魔の山」を執筆したところで、往時のまま変わっていないという。そのクラシカルな趣とアルプスの山々がほんとに素敵で、行けないだろうから映画でまた見たい。
夢枕獏が書いた山岳小説の大傑作「神々の山嶺(いただき)」が「エヴェレスト 神々の山嶺」として映画化された。原作は刊行当時に読んだけど、もう忘れてしまった。山岳映画というのは時々あるけど、これは日本で作られた山岳映画の最高傑作ではないか。ただし「山岳映画」というジャンル映画として。木村大作の「剱岳 点の記」などより僕はいいと思う。だけど、それは阿部寛演じる羽生(はぶ)という強烈なキャラクターの故である。これほど独特で個性が強い人物は日本映画でほとんど記憶がない。どうやって撮ったのだろうと思うシーンの連続だが、ヒマラヤの映像は圧倒的迫力。ただし、映画全体としては、まとまりのよい娯楽映画に仕上げてしまってあるのが残念。平山秀幸監督。
山岳映画というジャンルは、ドイツのアーノルド・ファンク(日本で「新しき土」を作った人)以来、時々現れる。最近では「運命を分けたザイル」とか「アイガー北壁」などが出色だった。日本では新田次郎原作の「八甲田山」「剱岳 点の記」「などが思い浮かぶが、谷口千吉「銀嶺の果て」が良い。山の雄大で神秘的な映像は、映画の大スクリーンで見るにふさわしく、山に賭けた男たちの情熱を映し出す。また犯罪者が逃げ込んだり、遭難に巻き込まれたりとドラマを作りやすい。「妻は告白する」とか「氷壁」とか「黒い画集 ある遭難」とか。篠田正浩「山の讃歌 燃ゆる若者たち」という隠れた名作もある。後藤久美子主演「ラブストーリーを君に」というのもあったな。でもまあ、山は実際にナマで見るほうがもちろん感動的である。月山頂上小屋で泊まった時に見た、東北のあちこちの山が雲海に浮かぶさまなど今も思い浮かべる。大雪山黒岳からトムラウシへの縦走とか忘れがたい山行も多い。
松田龍平と前田敦子のとぼけ演技が楽しい「モヒカン故郷に帰る」。案外面白かった。前田敦子はこの手の役は、相当うまい。沖田修一監督は、若いのにオリジナル脚本を何本も作るのはえらい。でも、やっぱりまだパンチが不足しているかも。
内容は割と知られていると思うが、ボストンの地元紙「ボストン・グローヴ」にユダヤ人の上司が赴任してくる。そして、特報担当部門「スポットライト」担当の記者4人に、ボストンのカトリック教会で児童虐待が相次いでいる問題を取り上げてはと提案する。ボストンは圧倒的にカトリックが多く、教会は不可侵の存在と思われていた。今までも個々には取り上げたことがあるが、どの事件も大事にならず示談になっていた。問題神父は「病気休職」などとして教会を離れ、少しすると別の教会に転任して再び事件を起こす。これは個別の神父の問題ではなく、カトリック教会の「隠蔽の構造」こそ調査報道するべきではないのか。かくして、被害者の証言を集め、被害者側や教会側の様々な弁護士に会い、情報公開を求め、事実が「点」から「面」になりかかるころ、2001年9月11日が訪れる…。
この大スクープは世界に反響を呼び、カトリック教会も対策をとらざるを得なくなった。そのことは当時日本でもかなり報道された。「ボストン・グローヴ」なんて新聞名は覚えてないけど、この問題は記憶している。大体、成功したスクープだから映画化されるわけで、なんだか「プロジェクトX」みたいな感じがしてくる。そこがこの映画の弱点だと思うけど、昔から結構はずれが多いアカデミー作品賞の中では、かなり納得できる出来だと思った。とにかく複数の関係者の人間的葛藤をうまくつないでいく脚本の冴えが圧倒的に面白かった。(英語のセリフが案外判りやすく、なるほどこういう言い回しをするのかといった勉強にもなる。)
ボストンも村上春樹のエッセイで読むとすごくいい町なんだけど、「ミスティック・リバー」やこの映画を見ると、どの町にも暗部があるんだなあと思う。アメリカの宗教や人種の機微もよく描かれている。アルメニア系の弁護士が孤独を訴えたり、ユダヤ人だからカトリックの暗部を追求できるんだとか、21世紀になっても「人種」が影響を与えていることが判る。児童虐待というか、要するに性犯罪なわけだが、サヴァイヴァーの様々な人生も感銘深く描かれている。アメリカは今でも珍しいほど宗教的な社会だが、日本のような基本的には世俗的な社会だとこのテーマは多少わかりにくい。だけど、「隠蔽の構造」という意味では、日本でも、あるいはどこの国でも共通のものがあるだろう。
カトリックの聖職者は独身を義務付けられているが、映画の中で出てくる研究者はそれが問題の根源だと言っていた。そうすると、日本では親鸞が妻帯して以来、僧も妻子があることが常識化していったのは、どう考えるべきなんだろうか。「家」構造の形成以来、寺も後継者としての子供がいないと困るということになる。だけど、禅宗などには修行のために「女色を断つ」ことを評価するタテマエがあったようだ。そこから生じる偽善を寺で見ていたのが、作家の水上勉。水上原作、川島雄三監督の映画「雁の寺」では破戒僧を三島雅夫が演じ、その愛人を若尾文子が演じて圧倒的だった。また水上原作、久松静児監督の「沙羅の門」という映画では、森繁久彌が内妻と子供まで持ちながら、正式な結婚をしなかったというだけで、「独身を通した」と宗門から評価されるという偽善の極みを描いている。ちょっと違うけど、世界で「宗教者と性」という問題は存在するのかもしれない。
イタリアのパオロ・ソレンティーノが英語で作った「グランド・フィナーレ」。マイケル・ケイン、レイチェル・ワイズ、ハーヴェイ・カイテルなど世界的なキャストで作られているが、映画全体としては物足りない。だけど、この映画ほど美しい映像美を堪能できる映画も珍しい。ソレンティーノの前作「グレート・ビューティ」も僕は好きで、美しい映画だった。スイスのリゾートホテルに住む老齢の世界的音楽家の物語。そのホテルはトーマス・マンが「魔の山」を執筆したところで、往時のまま変わっていないという。そのクラシカルな趣とアルプスの山々がほんとに素敵で、行けないだろうから映画でまた見たい。
夢枕獏が書いた山岳小説の大傑作「神々の山嶺(いただき)」が「エヴェレスト 神々の山嶺」として映画化された。原作は刊行当時に読んだけど、もう忘れてしまった。山岳映画というのは時々あるけど、これは日本で作られた山岳映画の最高傑作ではないか。ただし「山岳映画」というジャンル映画として。木村大作の「剱岳 点の記」などより僕はいいと思う。だけど、それは阿部寛演じる羽生(はぶ)という強烈なキャラクターの故である。これほど独特で個性が強い人物は日本映画でほとんど記憶がない。どうやって撮ったのだろうと思うシーンの連続だが、ヒマラヤの映像は圧倒的迫力。ただし、映画全体としては、まとまりのよい娯楽映画に仕上げてしまってあるのが残念。平山秀幸監督。
山岳映画というジャンルは、ドイツのアーノルド・ファンク(日本で「新しき土」を作った人)以来、時々現れる。最近では「運命を分けたザイル」とか「アイガー北壁」などが出色だった。日本では新田次郎原作の「八甲田山」「剱岳 点の記」「などが思い浮かぶが、谷口千吉「銀嶺の果て」が良い。山の雄大で神秘的な映像は、映画の大スクリーンで見るにふさわしく、山に賭けた男たちの情熱を映し出す。また犯罪者が逃げ込んだり、遭難に巻き込まれたりとドラマを作りやすい。「妻は告白する」とか「氷壁」とか「黒い画集 ある遭難」とか。篠田正浩「山の讃歌 燃ゆる若者たち」という隠れた名作もある。後藤久美子主演「ラブストーリーを君に」というのもあったな。でもまあ、山は実際にナマで見るほうがもちろん感動的である。月山頂上小屋で泊まった時に見た、東北のあちこちの山が雲海に浮かぶさまなど今も思い浮かべる。大雪山黒岳からトムラウシへの縦走とか忘れがたい山行も多い。
松田龍平と前田敦子のとぼけ演技が楽しい「モヒカン故郷に帰る」。案外面白かった。前田敦子はこの手の役は、相当うまい。沖田修一監督は、若いのにオリジナル脚本を何本も作るのはえらい。でも、やっぱりまだパンチが不足しているかも。