落合のあたりは、アパート地帯のようなイメージがあったのだけど、実は高級住宅街である。ただし、落合じゃなくて「目白」を付けることが多い。確かに山手線目白駅の近辺ではある。でも、地名としての「目白」は豊島区にある。またよく混同される「目白台」(田中角栄邸があった)は文京区。もとは「目白不動」から来る地名である。ここで言う「目白文化村」とは、大正末期から昭和初期にかけて、西武鉄道グループを築いた堤康次郎が中落合一帯に開発した高級住宅街のことである。
この地域は、東京大空襲で大きな被害を受け、また道路建設で寸断された。今は東西に目白通り、新目白通りが通り、南北には山手通り(環状6号)が通っている。長年の間には世代交代が進み、広い邸宅を維持することが難しくなる。だけど、いまでもかなり広い家があるし、また再開発された場所も高級マンションや企業の寮などが多いようだ。そんな中で僕が見つけたかった家がある。
それは石橋湛山邸である。石橋湛山(1884~1973」は戦後に短期間総理大臣を務めた人物である。しかし、病気で2か月で退陣した。今ではむしろ戦前のリベラルな言論活動で記憶されている。「東洋経済新報」に拠り、大正から日米戦争前まで戦争反対、植民地放棄を訴え続けた。それも左翼思想や情緒的な反戦論ではなく、一貫して「経済合理主義」に基づいて軍部を批判した。そういう人がこのような新興の住宅街に居を構えたというのも興味深い。
さて、その石橋邸の場所だが、中落合二丁目の交差点からほど近いところにある。西側にある「坂上通り」を上がって何回か曲がると、割と大きな家が並ぶ一角がある。別に資料館などになっているわけではなく、現に石橋家が住んでいる住宅なので、それ以上細かいことは書かない。中も見られないが、数年前の東京新聞「政地訪問」という企画記事で取り上げられ、その時に湛山の使っていた部屋の写真が掲載されていた。通りから撮った写真を3枚ほど載せておく。
石橋邸の周りには大邸宅が今も多い。写真では壁しか映りそうもない家が。だから、そのあたりは通り過ぎ、さほど遠くない場所にある「延寿東流庭園」へ。区のガイドには「目白文化村の面影が残る」とあるけど、読み方もわからない。行ってみたら、すごく小さなお庭で、住んでいた住民が家を新宿区に寄贈して庭園として残した場所らしい。園内のある案内を見ると、島峰徹という人の家で、東京高等歯科医学校(今の東京医科歯科大学の前身)を創立し初代校長になった人だという。東流(とおる)は雅号で、「延寿」(えんじゅ)は菊のこと。徹の嗣子、東大名誉教授島峰徹郎の「目白文化村の面影を残したい」という遺志を汲み、夫人が寄贈したという話が書かれている。
この一帯には多くの文化人も住んでいたが、今に残すあとが少ない。作家舟橋聖一の家が学生寮になって目白駅近くにある、また歌人、美術史家の会津八一がこの一帯に住んでいた。今は坂の途中の壁に案内板が残るだけ。中落合の落合第一小の下あたり。下の写真の右の壁に案内がある。
ところで、堤康次郎がこの地を買い占める前は、近衛家、相馬家、早稲田大学などが土地を所有していたという。目白通りの北側の豊島区目白には、尾張徳川家の「徳川黎明会」があり、この一帯は華族の所有地だったのである。そのうち、近衛家の名残りは目白駅に近いところに残っている。目白駅から目白通りを少し歩き、目白3丁目で左折する。少し歩くと、道のど真ん中に大きなケヤキの木が見えてくる。これが「旧近衛邸車寄せのケヤキ」で、道をふさいでいるけど保存されたものである。近くには近衛篤麿(1863~1904)の記念碑が残っている。五摂家筆頭の近衛家に生まれ、3代目の貴族院議長だった人だが、40歳で急逝した。子供の文麿(元総理大臣)や秀麿(指揮者、作曲家)の親として知られているが、生前はアジア主義者として有名な人物だった。(4枚目は碑の裏側)
この一帯は、正式地名ではないが今でも「近衛町」と呼ばれて、高級マンションの名前に使われている。その近くには見ごたえがある建物も多い。ケヤキの木の突き当りにある瀟洒な建物は、今は「日立目白クラブ」と出ている。招待者しか入れないので、外から見るだけ。ここは旧学習院昭和寮で、昭和3年に建設された。東京都選定の歴史的建造物になっている。またすぐ近くにある「目白が丘教会」も見栄えする。1950年建築のバプテストの教会。遠藤新というフランク・ロイド・ライトの弟子の設計である。遠藤は自由学園明日館をライトと共同設計した他、旧甲子園ホテルなどを設計した人。
最後に「近衛町」あたりの高級マンションをいくつか。
この地域は、東京大空襲で大きな被害を受け、また道路建設で寸断された。今は東西に目白通り、新目白通りが通り、南北には山手通り(環状6号)が通っている。長年の間には世代交代が進み、広い邸宅を維持することが難しくなる。だけど、いまでもかなり広い家があるし、また再開発された場所も高級マンションや企業の寮などが多いようだ。そんな中で僕が見つけたかった家がある。
それは石橋湛山邸である。石橋湛山(1884~1973」は戦後に短期間総理大臣を務めた人物である。しかし、病気で2か月で退陣した。今ではむしろ戦前のリベラルな言論活動で記憶されている。「東洋経済新報」に拠り、大正から日米戦争前まで戦争反対、植民地放棄を訴え続けた。それも左翼思想や情緒的な反戦論ではなく、一貫して「経済合理主義」に基づいて軍部を批判した。そういう人がこのような新興の住宅街に居を構えたというのも興味深い。
さて、その石橋邸の場所だが、中落合二丁目の交差点からほど近いところにある。西側にある「坂上通り」を上がって何回か曲がると、割と大きな家が並ぶ一角がある。別に資料館などになっているわけではなく、現に石橋家が住んでいる住宅なので、それ以上細かいことは書かない。中も見られないが、数年前の東京新聞「政地訪問」という企画記事で取り上げられ、その時に湛山の使っていた部屋の写真が掲載されていた。通りから撮った写真を3枚ほど載せておく。
石橋邸の周りには大邸宅が今も多い。写真では壁しか映りそうもない家が。だから、そのあたりは通り過ぎ、さほど遠くない場所にある「延寿東流庭園」へ。区のガイドには「目白文化村の面影が残る」とあるけど、読み方もわからない。行ってみたら、すごく小さなお庭で、住んでいた住民が家を新宿区に寄贈して庭園として残した場所らしい。園内のある案内を見ると、島峰徹という人の家で、東京高等歯科医学校(今の東京医科歯科大学の前身)を創立し初代校長になった人だという。東流(とおる)は雅号で、「延寿」(えんじゅ)は菊のこと。徹の嗣子、東大名誉教授島峰徹郎の「目白文化村の面影を残したい」という遺志を汲み、夫人が寄贈したという話が書かれている。
この一帯には多くの文化人も住んでいたが、今に残すあとが少ない。作家舟橋聖一の家が学生寮になって目白駅近くにある、また歌人、美術史家の会津八一がこの一帯に住んでいた。今は坂の途中の壁に案内板が残るだけ。中落合の落合第一小の下あたり。下の写真の右の壁に案内がある。
ところで、堤康次郎がこの地を買い占める前は、近衛家、相馬家、早稲田大学などが土地を所有していたという。目白通りの北側の豊島区目白には、尾張徳川家の「徳川黎明会」があり、この一帯は華族の所有地だったのである。そのうち、近衛家の名残りは目白駅に近いところに残っている。目白駅から目白通りを少し歩き、目白3丁目で左折する。少し歩くと、道のど真ん中に大きなケヤキの木が見えてくる。これが「旧近衛邸車寄せのケヤキ」で、道をふさいでいるけど保存されたものである。近くには近衛篤麿(1863~1904)の記念碑が残っている。五摂家筆頭の近衛家に生まれ、3代目の貴族院議長だった人だが、40歳で急逝した。子供の文麿(元総理大臣)や秀麿(指揮者、作曲家)の親として知られているが、生前はアジア主義者として有名な人物だった。(4枚目は碑の裏側)
この一帯は、正式地名ではないが今でも「近衛町」と呼ばれて、高級マンションの名前に使われている。その近くには見ごたえがある建物も多い。ケヤキの木の突き当りにある瀟洒な建物は、今は「日立目白クラブ」と出ている。招待者しか入れないので、外から見るだけ。ここは旧学習院昭和寮で、昭和3年に建設された。東京都選定の歴史的建造物になっている。またすぐ近くにある「目白が丘教会」も見栄えする。1950年建築のバプテストの教会。遠藤新というフランク・ロイド・ライトの弟子の設計である。遠藤は自由学園明日館をライトと共同設計した他、旧甲子園ホテルなどを設計した人。
最後に「近衛町」あたりの高級マンションをいくつか。