ニュースの話に本の話、さらに季節が春を迎え散歩の記録と書きたいことがたまり続けているが、昨日まで3本見たサミュエル・フラー(1912~1997)の映画の話をまず最初に。サミュエル・フラーという人は、アメリカで低予算の戦争映画、西部劇、アクション映画などをたくさん作った映画監督である。それは「B級映画」と言われるような映画がほとんどだが、フランスで「カイエ・デュ・シネマ」に拠る若い批評家に「映画作家」として「発見」された。ゴダールの最高傑作「気狂いピエロ」(夏にデジタル修復版が公開される)に出演して「映画は戦場だ」と永遠に映画史に残る名セリフを残した。
今度長い自伝が翻訳されたのを機に、連続上映が行われた。また昨年のぴあフィルムフェスティバル(PFF)で特集上映が行われた。連続上映が渋谷のユーロスペースで行われた時には行きそびれたが、連休中に池袋の新文芸坐でレイトショーで上映された機会に、3つの映画を全部見た。これがやっぱりとても面白い。去年のPFFでも何本か見たけど、やっぱり面白かった。この面白さは何なのだろう。(なお、「自伝」は6千円もする分厚い本なので買ってない。)
昨日見たのは「チャイナ・ゲート」(1957)。これは映画のジャンルとしては、インドシナ戦争中の露骨な反共戦争映画である。中国からベトナムへ入る国境の町。そこに「レッド・チャイナ」から支援された武器を収めた倉庫がある。これを爆破する命令を受けた外国人部隊の話。まだアメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」以前の時代で、植民地の宗主国フランス軍がホー・チ・ミン率いる「ベトミン」と戦っている。この映画にあるように、またグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」に描かれているように、実は50年代からアメリカはこの戦争に深くコミットしていた。
そういう意味でも興味深いけど、もちろんこの映画の魅力は別のところにある。作戦を指揮するアメリカ人ブロックは、現地の案内人として混血のリア(「ラッキー・レッグズ」(幸運の脚)とあだ名される)を雇うが、二人は実は前に結婚していた過去があった。しかし、生まれた子どもが母の中国系の顔立ちを受け継いでいたために、ブロックは妻を捨てたのである。今回リアは息子をアメリカに送ることを条件に作戦に協力することにした。という「過去の因縁」を抱えつつ、ここで敵味方を超えて商売してきたリアの巧みな案内で彼らは兵器庫に近づいていく。中越国境がメコンデルタみたいでおかしいが。
その戦争映画的展開も結構演出が冴えているが、やはり目玉はリアを演じるアンジ―・ディキンソン。「リオ・ブラボー」に出ていた、あの女優。後にバート・バカラックと結婚した。(その後離婚。)なんで「混血」(フランス人の父と中国系の山岳少数民族の母らしい)なんだと思うが、実際「幸運の脚」を披露しまくり、しかも完全に中国系の男の子の母という役。一行の中には、アメリカ出身の黒人兵もいて、そのゴールディはなんとナット・キング・コールが演じている。僕は大好きで何枚もCDを持っているが、こんな映画に準主演していたとは。そしてヴィクター・ヤングの作った主題歌も歌っている。「チャイナ・ゲイト」と低音で歌う声が耳について離れない。
「戦争映画」、それも「反共」を掲げた安手の「ジャンル映画」なんだけど、実際の印象は人種問題をテーマにした心理サスペンスである。「アジア」と「人種差別」はフラーが長くこだわり続けるテーマ。「ホワイト・ドッグ」という黒人を襲うように躾けられた犬という過激な発想の映画を後に作る。この映画の前には、「東京暗黒街・竹の家」という日本を舞台にした変てこな映画も作った。(ラストで浅草松屋の屋上にあった屋上遊園地が出てくることは川本三郎氏が紹介して有名になった。)それは昨年のPFFで初めて見たが、全く変な映画だった。
「チャイナ・ゲート」だけで長くなってしまったが、最初に見た「裸のキッス」(1964)もすごい。都会で体を売っていた女がすべてを清算して田舎の町に降りる。一日だけ警官と付き合うが、その後病院で身体障害児のケアをする仕事を得る。そこで認められ、病院の経営者、この町そのものを作った一族の名門に見初められる。こうして幸福な玉の輿が訪れるかと思ったら…。この女性を演じるコンスタンス・タワーズという女優が素晴らしく、冒頭から目が離せない。テイストは明らかにB級の心理サスペンスなんだけど、演出が冴えている。完璧に映画に心をつかまれてしまう。
「ショック集団」(1963)になると、新聞記者による犯人探しという「ミステリー」というジャンル映画の枠を借りた、完全に独自なシュルリアリズム映画になっている。何しろ、事件は精神病院で起こり、そのため記者は自分も精神病を詐病して入院して真相を突き止めようというトンデモ映画である。3人の目撃者をめぐる超現実的な映像を散々展開している。(アジアの兵役経験のある患者には、鎌倉大仏の映像が出てくる。「東京暗黒街・竹の家」を撮影した時に自分で撮りためていた16ミリフィルムだという。)精神を病む黒人青年は、なんと自分がクー・クラックス・クランになって黒人を迫害する幻想を抱いている。ここでも「人種」という問題が出てくる。そして、やがて記者本人にも精神の破綻が訪れ、犯人を突き止めてピュリッツァー賞を得た時には人格が崩壊している。という展開はやはり「精神疾患」への誤解のようなものがうかがわれる。とはいえ、やはり「ジャンル映画」の枠を借りて突き抜けてしまうという、いかにもフラー映画らしい作品には違いない。
去年見た「ストリート・オブ・ノー・リターン」(1989)はフラー最後の作品で、公開当時見逃したのだが、やはり「メロドラマ」の枠を借りた男の復讐譚が見事に描かれている。暗黒街のボスに復讐するために、人種暴動の起こる街を駆けめぐるキース・キャラダイン。ボスにのどを切られて、人気歌手が声を出せなくなったという設定もすごい。フラーの場合、作られた映画はほぼ「ジャンル映画」と言ってよい。ごく一部の監督を除き、商業映画はまずペイするために、娯楽映画のさまざまなジャンルの一つとして企画される。時代劇、西部劇、メロドラマ、青春ロマンス等々。そして、特に昔は映画興行を維持するために、面白い映画を早撮りする監督に需要があった。大作がこけたり、製作延期になったりしたときに、観客を満足させる小品映画も無くてはならない。2本立てなら、一本は大スターが出る映画で、もう一本はB級スターが出る映画。
だけど、時にはそういう映画の中から、「ジャンル映画」を極めて突き抜けるような作品が出てくる。映画祭やベストテン、あるいはヒット・ランキングなんかではスルーされるけど、そういう映画を「発見」することは映画ファンの喜びである。日本映画だと、鈴木清順の映画「けんかえれじい」とか「刺青一代」なんか。あるいは中川信夫の「東海道四谷怪談」。若松孝二のピンク映画時代、「犯された白衣」「胎児が密漁する時」なんかもそうだろうか。清順の「東京流れ者」や「殺しの烙印」になると、ジャンル映画の自己パロディになる。ジャンル映画(あるいはジャンル小説、ジャンル漫画など)は、展開がパターン化しているから、ある程度極めると自己パロディをするか、「A級」になりたくなるんだろう。でも、サミュエル・フラーは一貫して「B級映画作家」だった。そこが凄い。実際、一度見始めると眠気を覚えない展開が続き、これが映画だという感じを覚える。
今度長い自伝が翻訳されたのを機に、連続上映が行われた。また昨年のぴあフィルムフェスティバル(PFF)で特集上映が行われた。連続上映が渋谷のユーロスペースで行われた時には行きそびれたが、連休中に池袋の新文芸坐でレイトショーで上映された機会に、3つの映画を全部見た。これがやっぱりとても面白い。去年のPFFでも何本か見たけど、やっぱり面白かった。この面白さは何なのだろう。(なお、「自伝」は6千円もする分厚い本なので買ってない。)
昨日見たのは「チャイナ・ゲート」(1957)。これは映画のジャンルとしては、インドシナ戦争中の露骨な反共戦争映画である。中国からベトナムへ入る国境の町。そこに「レッド・チャイナ」から支援された武器を収めた倉庫がある。これを爆破する命令を受けた外国人部隊の話。まだアメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」以前の時代で、植民地の宗主国フランス軍がホー・チ・ミン率いる「ベトミン」と戦っている。この映画にあるように、またグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」に描かれているように、実は50年代からアメリカはこの戦争に深くコミットしていた。
そういう意味でも興味深いけど、もちろんこの映画の魅力は別のところにある。作戦を指揮するアメリカ人ブロックは、現地の案内人として混血のリア(「ラッキー・レッグズ」(幸運の脚)とあだ名される)を雇うが、二人は実は前に結婚していた過去があった。しかし、生まれた子どもが母の中国系の顔立ちを受け継いでいたために、ブロックは妻を捨てたのである。今回リアは息子をアメリカに送ることを条件に作戦に協力することにした。という「過去の因縁」を抱えつつ、ここで敵味方を超えて商売してきたリアの巧みな案内で彼らは兵器庫に近づいていく。中越国境がメコンデルタみたいでおかしいが。
その戦争映画的展開も結構演出が冴えているが、やはり目玉はリアを演じるアンジ―・ディキンソン。「リオ・ブラボー」に出ていた、あの女優。後にバート・バカラックと結婚した。(その後離婚。)なんで「混血」(フランス人の父と中国系の山岳少数民族の母らしい)なんだと思うが、実際「幸運の脚」を披露しまくり、しかも完全に中国系の男の子の母という役。一行の中には、アメリカ出身の黒人兵もいて、そのゴールディはなんとナット・キング・コールが演じている。僕は大好きで何枚もCDを持っているが、こんな映画に準主演していたとは。そしてヴィクター・ヤングの作った主題歌も歌っている。「チャイナ・ゲイト」と低音で歌う声が耳について離れない。
「戦争映画」、それも「反共」を掲げた安手の「ジャンル映画」なんだけど、実際の印象は人種問題をテーマにした心理サスペンスである。「アジア」と「人種差別」はフラーが長くこだわり続けるテーマ。「ホワイト・ドッグ」という黒人を襲うように躾けられた犬という過激な発想の映画を後に作る。この映画の前には、「東京暗黒街・竹の家」という日本を舞台にした変てこな映画も作った。(ラストで浅草松屋の屋上にあった屋上遊園地が出てくることは川本三郎氏が紹介して有名になった。)それは昨年のPFFで初めて見たが、全く変な映画だった。
「チャイナ・ゲート」だけで長くなってしまったが、最初に見た「裸のキッス」(1964)もすごい。都会で体を売っていた女がすべてを清算して田舎の町に降りる。一日だけ警官と付き合うが、その後病院で身体障害児のケアをする仕事を得る。そこで認められ、病院の経営者、この町そのものを作った一族の名門に見初められる。こうして幸福な玉の輿が訪れるかと思ったら…。この女性を演じるコンスタンス・タワーズという女優が素晴らしく、冒頭から目が離せない。テイストは明らかにB級の心理サスペンスなんだけど、演出が冴えている。完璧に映画に心をつかまれてしまう。
「ショック集団」(1963)になると、新聞記者による犯人探しという「ミステリー」というジャンル映画の枠を借りた、完全に独自なシュルリアリズム映画になっている。何しろ、事件は精神病院で起こり、そのため記者は自分も精神病を詐病して入院して真相を突き止めようというトンデモ映画である。3人の目撃者をめぐる超現実的な映像を散々展開している。(アジアの兵役経験のある患者には、鎌倉大仏の映像が出てくる。「東京暗黒街・竹の家」を撮影した時に自分で撮りためていた16ミリフィルムだという。)精神を病む黒人青年は、なんと自分がクー・クラックス・クランになって黒人を迫害する幻想を抱いている。ここでも「人種」という問題が出てくる。そして、やがて記者本人にも精神の破綻が訪れ、犯人を突き止めてピュリッツァー賞を得た時には人格が崩壊している。という展開はやはり「精神疾患」への誤解のようなものがうかがわれる。とはいえ、やはり「ジャンル映画」の枠を借りて突き抜けてしまうという、いかにもフラー映画らしい作品には違いない。
去年見た「ストリート・オブ・ノー・リターン」(1989)はフラー最後の作品で、公開当時見逃したのだが、やはり「メロドラマ」の枠を借りた男の復讐譚が見事に描かれている。暗黒街のボスに復讐するために、人種暴動の起こる街を駆けめぐるキース・キャラダイン。ボスにのどを切られて、人気歌手が声を出せなくなったという設定もすごい。フラーの場合、作られた映画はほぼ「ジャンル映画」と言ってよい。ごく一部の監督を除き、商業映画はまずペイするために、娯楽映画のさまざまなジャンルの一つとして企画される。時代劇、西部劇、メロドラマ、青春ロマンス等々。そして、特に昔は映画興行を維持するために、面白い映画を早撮りする監督に需要があった。大作がこけたり、製作延期になったりしたときに、観客を満足させる小品映画も無くてはならない。2本立てなら、一本は大スターが出る映画で、もう一本はB級スターが出る映画。
だけど、時にはそういう映画の中から、「ジャンル映画」を極めて突き抜けるような作品が出てくる。映画祭やベストテン、あるいはヒット・ランキングなんかではスルーされるけど、そういう映画を「発見」することは映画ファンの喜びである。日本映画だと、鈴木清順の映画「けんかえれじい」とか「刺青一代」なんか。あるいは中川信夫の「東海道四谷怪談」。若松孝二のピンク映画時代、「犯された白衣」「胎児が密漁する時」なんかもそうだろうか。清順の「東京流れ者」や「殺しの烙印」になると、ジャンル映画の自己パロディになる。ジャンル映画(あるいはジャンル小説、ジャンル漫画など)は、展開がパターン化しているから、ある程度極めると自己パロディをするか、「A級」になりたくなるんだろう。でも、サミュエル・フラーは一貫して「B級映画作家」だった。そこが凄い。実際、一度見始めると眠気を覚えない展開が続き、これが映画だという感じを覚える。