本当はもっと「教育」や「学校」を論じるつもりだった。でも何を言っても仕方ないような情勢、そしていつ書いてもいいようなテーマということで、つい後回しになってしまう。今回もちょっと時間が経ってしまったのだが、4月の朝日新聞「論壇時評」を読んで、これは書いておかないといけないなと思ったのである。筆者は小熊英二氏(歴史社会学者)。(3月までは作家の高橋源一郎氏だった。)
僕は朝日の「論壇時評」はもう40年以上読んでいると思う。いろいろな人が書いてきたが、何と言っても見田宗介さんが印象深い。また高畠通敏さんも記憶にある。僕は小熊氏の本もかなり読んできたので、今回も期待している。だけど、その一回目、4月28日付「『うさぎ跳び』から卒業を」の冒頭部分には違和感があった。まず、冒頭部分を引用してみたい。(以下引用)
かつて、「うさぎ跳び」というトレーニングがあった。現在では、ほんとど行われていない。効果が薄いうえ、関節や筋肉を傷める可能性が高いからだ。
しかし日本では、それに類する見当違いの努力が、随所で行われている。そして、社会の活力を奪っている。
たとえば教育。大内裕和はこう指摘する(①)。日本の中学教員の労働時間は、OECD諸国で最も長い。しかし、教員が時間を取られているのは、部活動や行事である。そのため、長時間働いても、教育的効果が上がらない。まさに、「うさぎ跳び」に類する、見当違いの努力である。
以上が引用部分。①は注で、大内裕和、内田樹(対談)「『教育の病』から見えるブラック化した学校現場」(現代思想4月号)を指す。この「見当違いの努力」のたとえとしての「うさぎ跳び」というのは非常に判りやすい。日本には、あるいはどこの社会にも、数多くの「うさぎ跳び」が存在するだろう。
それはいいんだけど、以上の文章を普通に読むと、中学教員は部活や行事に時間を取られて、長時間働いてるのに教育効果が上がっていないと読める。教員は「授業が重要」なのに、部活や行事に時間を取られるから教育効果が上がらないという趣旨と読める。しかし、それは本当なのだろうか。いや、長時間労働を強いられていること、部活や行事に時間を取られていること、それ自体はまさに事実である。だけど、それは「教育的効果」がないのだろうかと思うのである。
それに、部活や行事に時間を取られるのは、かなり昔からずっとそうである。だけど、教育現場の疲弊感が特にいま語られるのはなぜだろうか。そこにこそ、僕はこの問題の本質があるように思う。
僕が思うに、日本の公立学校で学んだ多くの人にとって、学校の思い出は行事や部活なのではないだろうか。同級生との「初恋」とか、友人と行っていた塾とか、そっちの方が思い出という人も多いだろうが、対象を「学校」にしぼれば、授業はつまらなかったけど、行事や部活が楽しみだったという方が多いと思う。自分でも、生徒としても教師としても、学校の一番の思い出は授業ではない。そして、行事や部活を通してこそ、協力や努力といったものを学んだのではないだろうか。それが多くの人の思い出だと思うが、違うだろうか。それを「教育的効果がない」とは言えないだろう。
ところで、朝日新聞5月12日付紙面に、「教員悲鳴 忙しすぎる」という記事が掲載されている。北海道教育大、愛知教育大、東京学芸大、大阪学芸大の共同調査結果だという。それによると、教員の主な悩みとして、「授業準備の時間が足りない」が、小=94,5%、中=84.4%、高=77,8%となっている。また「部活動・クラブ活動の指導が負担」は、小=35.4%、中=69.5%、高=59.9%となっている。この調査を見れば、まさに(少なくとも中学教員は)部活が大変で、授業準備ができないという指摘は当たっているではないかと言われるかもしれない。
もちろん、僕も部活に時間を取られた時期もある。(五月の連休が毎日試合の引率では正直ウンザリしたことがあるのも事実である。)それに、授業の準備には限りがなく、もっと余裕があればいい授業を出来ていたかもしれないと毎日のように思ってもいた。だけど、いまの調査に対する僕の読み方は、「部活や行事に時間を取られて、教育効果が上がらない」というものではない。
「授業」そのもののありかたが、昔と比べて変わってきた。また、教員の評価や身分のありかたも昔と大きく変えられてきた。例えば、小学校に英語教育が導入された。その検証もないままに、今度は教科化されるという。先の調査で小学校教員の授業準備の大変さが際立っているのは、やはり英語教育が原因と言っていいのだろうと思う。また小中で「道徳の教科化」が進められている。学校全体で取り組まなければならない「総合的な学習の時間」は、(「ゆとり教育」から脱却すると明言されているのに)まだ存置されている。自分が専門的に勉強してきた分野以外のことで、授業をしていかないといけない。さらに、「デジタル教材」の開発、使用が行政から推奨されるようになってきた。それにも取り組まないといけないんだから、準備時間がいくらあっても足りないだろう。
そして昔と違って、教員同士が競わせられて、授業は校長が評価(見学?監視?)に来る。校長は行かないといけない。教員は自己申告書を提出し、校長が評価して給与に連動していく。生徒や保護者による「学校評価」も行わないといけない。(生徒の側が授業などについて評価するのである。)そして、「全国学力テスト」が定着し、学校ごとの結果も公表される。進学高校は大学進学指導に「数値目標」を作る。(例えば、東京の日比谷高校では、進路指導の数値目標が6項目あるが、その一番だけ挙げておくと「難関4国立大学及び国公立医学部医学科の現役合格者 60人以上」というのである。)そして、中学でも学区を超えた「学校選択制度」が導入される。大都市圏が中心かも知れないが、現在の教育はこのようながんじがらめの競争教育になっているのである。
だからこそ、教員は「授業準備の時間がない」と悲鳴を上げるし、本当だったら「生徒の連帯を作り出す」はずの行事などを厄介もの扱いしていくのである。そして、近年の特徴は、昔は教育行政を批判し、現場を応援したようなマスコミや学者たちも、なぜか教育行政を問わず、「授業」にしぼって議論をすることである。多分、考え方に多少の違いがあっても、教育官僚や政治家と、学者や記者などは「勉強が苦にならなかった」ことで共通するのだと思う。
さて、こうしてみると、「教育界のうさぎ跳び」とは何だろうか。
それは、小学校からの英語教育や道徳の教科化であり、全国学力テストであり、競争的な教員人事政策であり、教員免許更新制度であり…21世紀になって進められてきた教育政策の方ではないのか。学校現場はここ10年以上ずっとほとんど「日本劣化計画」としか思えないような政策に振り回されてきた。部活や行事指導の問題はもっと奥が深い問題なので、またにしたい。なぜ「授業」の改善がこれほど叫ばれるのか、大学入試の新方針とともに、今後考えていきたいと思う。
僕は朝日の「論壇時評」はもう40年以上読んでいると思う。いろいろな人が書いてきたが、何と言っても見田宗介さんが印象深い。また高畠通敏さんも記憶にある。僕は小熊氏の本もかなり読んできたので、今回も期待している。だけど、その一回目、4月28日付「『うさぎ跳び』から卒業を」の冒頭部分には違和感があった。まず、冒頭部分を引用してみたい。(以下引用)
かつて、「うさぎ跳び」というトレーニングがあった。現在では、ほんとど行われていない。効果が薄いうえ、関節や筋肉を傷める可能性が高いからだ。
しかし日本では、それに類する見当違いの努力が、随所で行われている。そして、社会の活力を奪っている。
たとえば教育。大内裕和はこう指摘する(①)。日本の中学教員の労働時間は、OECD諸国で最も長い。しかし、教員が時間を取られているのは、部活動や行事である。そのため、長時間働いても、教育的効果が上がらない。まさに、「うさぎ跳び」に類する、見当違いの努力である。
以上が引用部分。①は注で、大内裕和、内田樹(対談)「『教育の病』から見えるブラック化した学校現場」(現代思想4月号)を指す。この「見当違いの努力」のたとえとしての「うさぎ跳び」というのは非常に判りやすい。日本には、あるいはどこの社会にも、数多くの「うさぎ跳び」が存在するだろう。
それはいいんだけど、以上の文章を普通に読むと、中学教員は部活や行事に時間を取られて、長時間働いてるのに教育効果が上がっていないと読める。教員は「授業が重要」なのに、部活や行事に時間を取られるから教育効果が上がらないという趣旨と読める。しかし、それは本当なのだろうか。いや、長時間労働を強いられていること、部活や行事に時間を取られていること、それ自体はまさに事実である。だけど、それは「教育的効果」がないのだろうかと思うのである。
それに、部活や行事に時間を取られるのは、かなり昔からずっとそうである。だけど、教育現場の疲弊感が特にいま語られるのはなぜだろうか。そこにこそ、僕はこの問題の本質があるように思う。
僕が思うに、日本の公立学校で学んだ多くの人にとって、学校の思い出は行事や部活なのではないだろうか。同級生との「初恋」とか、友人と行っていた塾とか、そっちの方が思い出という人も多いだろうが、対象を「学校」にしぼれば、授業はつまらなかったけど、行事や部活が楽しみだったという方が多いと思う。自分でも、生徒としても教師としても、学校の一番の思い出は授業ではない。そして、行事や部活を通してこそ、協力や努力といったものを学んだのではないだろうか。それが多くの人の思い出だと思うが、違うだろうか。それを「教育的効果がない」とは言えないだろう。
ところで、朝日新聞5月12日付紙面に、「教員悲鳴 忙しすぎる」という記事が掲載されている。北海道教育大、愛知教育大、東京学芸大、大阪学芸大の共同調査結果だという。それによると、教員の主な悩みとして、「授業準備の時間が足りない」が、小=94,5%、中=84.4%、高=77,8%となっている。また「部活動・クラブ活動の指導が負担」は、小=35.4%、中=69.5%、高=59.9%となっている。この調査を見れば、まさに(少なくとも中学教員は)部活が大変で、授業準備ができないという指摘は当たっているではないかと言われるかもしれない。
もちろん、僕も部活に時間を取られた時期もある。(五月の連休が毎日試合の引率では正直ウンザリしたことがあるのも事実である。)それに、授業の準備には限りがなく、もっと余裕があればいい授業を出来ていたかもしれないと毎日のように思ってもいた。だけど、いまの調査に対する僕の読み方は、「部活や行事に時間を取られて、教育効果が上がらない」というものではない。
「授業」そのもののありかたが、昔と比べて変わってきた。また、教員の評価や身分のありかたも昔と大きく変えられてきた。例えば、小学校に英語教育が導入された。その検証もないままに、今度は教科化されるという。先の調査で小学校教員の授業準備の大変さが際立っているのは、やはり英語教育が原因と言っていいのだろうと思う。また小中で「道徳の教科化」が進められている。学校全体で取り組まなければならない「総合的な学習の時間」は、(「ゆとり教育」から脱却すると明言されているのに)まだ存置されている。自分が専門的に勉強してきた分野以外のことで、授業をしていかないといけない。さらに、「デジタル教材」の開発、使用が行政から推奨されるようになってきた。それにも取り組まないといけないんだから、準備時間がいくらあっても足りないだろう。
そして昔と違って、教員同士が競わせられて、授業は校長が評価(見学?監視?)に来る。校長は行かないといけない。教員は自己申告書を提出し、校長が評価して給与に連動していく。生徒や保護者による「学校評価」も行わないといけない。(生徒の側が授業などについて評価するのである。)そして、「全国学力テスト」が定着し、学校ごとの結果も公表される。進学高校は大学進学指導に「数値目標」を作る。(例えば、東京の日比谷高校では、進路指導の数値目標が6項目あるが、その一番だけ挙げておくと「難関4国立大学及び国公立医学部医学科の現役合格者 60人以上」というのである。)そして、中学でも学区を超えた「学校選択制度」が導入される。大都市圏が中心かも知れないが、現在の教育はこのようながんじがらめの競争教育になっているのである。
だからこそ、教員は「授業準備の時間がない」と悲鳴を上げるし、本当だったら「生徒の連帯を作り出す」はずの行事などを厄介もの扱いしていくのである。そして、近年の特徴は、昔は教育行政を批判し、現場を応援したようなマスコミや学者たちも、なぜか教育行政を問わず、「授業」にしぼって議論をすることである。多分、考え方に多少の違いがあっても、教育官僚や政治家と、学者や記者などは「勉強が苦にならなかった」ことで共通するのだと思う。
さて、こうしてみると、「教育界のうさぎ跳び」とは何だろうか。
それは、小学校からの英語教育や道徳の教科化であり、全国学力テストであり、競争的な教員人事政策であり、教員免許更新制度であり…21世紀になって進められてきた教育政策の方ではないのか。学校現場はここ10年以上ずっとほとんど「日本劣化計画」としか思えないような政策に振り回されてきた。部活や行事指導の問題はもっと奥が深い問題なので、またにしたい。なぜ「授業」の改善がこれほど叫ばれるのか、大学入試の新方針とともに、今後考えていきたいと思う。