尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

家庭訪問や遠足は不要なのか

2016年05月15日 23時02分49秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育に関する問題を続けて。朝日新聞5月10日付に、「家庭訪問や遠足いらないの?」と題する投書が掲載されている。投稿者は静岡県に住み、小学生の子どもがいる母親。その子供が通う小学校で、今年から家庭訪問や遠足がなくなったというのである。学校側の理由は「新年度を迎えた時期は、先生方が忙しく、家庭訪問の準備や遠足の下見に時間を取られると、子どもたちとじっくり話をする時間が取れなくなるからだそうだ」とある。学校側がそうした理由で説明しているのだろう。

 家庭訪問と遠足は違う問題だが、各学校で「行事の精選」が叫ばれているのは、多分日本中で共通していると思う。「授業確保」が求められ、授業も大きく変わる中で、学校の負担は非常に増大してきた。「行事」しか「とりあえず削減できるもの」がないのが実情だろう。だけど、小学校の家庭訪問や遠足は、確かにとても大きな意味を持ってきた行事だ。「子どもが主体であるべき学校において、大人の都合で物事が決まることに疑問を感じてしまう」と投稿者は指摘している。

 僕は小学校の事情はよく知らないし、静岡県の事情も判らない。だけど、この投書は現在の日本の学校のあり方を象徴しているように思われるので、ここで考えてみたい。学校、特に小学校は日本社会で長い歴史を持っている。そういうところでは、大体「恒例」で行事も決められることが多い。この変更は、どこで決まったのだろうか。どこかからの指示ではないようだから、校内で昨年来議論してきて、決められたのだろう。そこに見えるのは、「そこまでしないといけないほど、学校現場は追いつめられている」ということである。例年通りにする方が普通はずっと簡単だろう。

 学年当初の出来事として、非常に大きな意味を持つのは「全国学力テスト」である。小学校6年と中学3年で実施されている。4月半ばに行われるが、単に「学力を測る」だけでなく、事実上「学校の競争」の場になっている。静岡では知事の意向で結果の公表することを求められ、もめにもめたあげく「平均を超えた学校の校長名を発表する」となったはずである。これは現場に対する非常に強いプレッシャーで、各学校は「過去問」対策などに忙殺されるのではないかと推測できる。学年当初におちおち遠足を企画できるような状況ではなくなりつつあるのかもしれない。

 しかし、5月頃に実施される遠足だと、前の学年で企画し、下見(東京では「実踏」(じっとう)と呼ばれる)は春休みに行うことも多い。春休み自体がなくなりつつあるのかもしれないが。事故対策が大変になってきたこと、家庭の負担金を減らしたいことなどの理由が大きいのかもしれない。遠足自体も、子どもにとって昔ほど楽しい行事ではないのかもしれない。遊園地などは家族で行く方が楽しいし、勉強的な遠足では後で書く作文などが面倒。班を作って活動したりするのも嫌で、人間関係が面倒。友だち同士だけならいいけど、いい子にしてると、先生からクラスの中で孤立している子を仲間に入れてあげてと頼まれたりする。親がその日のためにと一生懸命豪華弁当を作ってくれる時代でもない。

 全体的に、教師も親も「面倒感」が高くなっているのだと思う。だが、僕は遠足は実施した方がいいと思う。子どもが皆楽しみにしているとは限らない。バスに弱い子供など、雨で中止になるのを望んでいたりする。(僕もそんな感じだった。)だけど、そういうことも含めて、教室だけでは判らない子どもの様子は、行事をやってみないと把握できない。担任が変わった場合などもあるわけで、「遠足の班作り」をやることでクラスの人間関係を見ることができる。担任にとって結構うっとうしいものだけど、PTAの役員選びと違い、まさに教員の仕事なんだからやるべきだろう。学校は一日で帰る遠足だけでなく、宿泊行事が必ずあるはず。遠足をやらずに宿泊行事を行う方が、僕は不安である。

 遠足などの行事は確かに大変。やり方を考える必要はあるだろう。毎年行く場所を決めて、学年ごとに引き継いでいく。それなら行く場所から議論せずに済み、下見もいらない。事前学習なども極力簡単にして、楽しむ(親睦を図る)ことがメインでいいのではないか。新学年になって、勉強も大変だけど、連休中に勉強してもどれだけ効果があるだろう。授業日数を曜日ごとに調べると、祝日が多い月曜が少ない。平均化を図るために、授業が多い曜日に、連休前後の季節もよく、新年度の疲れも出てきた頃に遠足を入れる意味はある。お互いを知りあう(教師も生徒も)ということで、どこかへ行く。やった方がいいような気がするけどなあ。

 一方、家庭訪問の方はどうか。その学校では、家庭訪問の代わりに「月1回の教育相談日」を設けるという。保護者との連絡、相談だけなら、学校の外へ行かずとも、保護者の方から学校に来てもらっても同じという発想か。だけど、真に問題を抱える家庭は保護者会には来ない。この「教育相談日」にも相談には来ないだろう。多分、それは判っていて、「授業確保を優先する」ということではないか。何しろ家庭訪問となると、一週間も午前中だけの短縮授業にしないといけない。

 さらに保護者の方からも「なくして欲しい」という要望があったのかもしれない。プライベートな空間に、学級担任といえども入って欲しくないという「ホンネ」はあるだろう。片付けなくちゃいけないし。オートロック式のマンションなども多くなり、生徒が不登校になって家庭訪問してもマンション自体の中へさえ入れないということも多くなった。母親が主婦だという家庭の方が少ないし、中には夜しか会えないという家もある。教師としては近い家をまとめて訪問するのがいいわけだけど、各家庭の希望を聞いていたら調整がつかないことが多い。東京では「学校選択制」を行っているから、そもそも学区外の生徒もかなりいるだろう。それでは訪問することも大変だ。

 僕も中学担任時代は毎年行っていたわけだが、確かに面倒なんだけど、家庭訪問も是非実施した方がいい。世間話をしてくるだけみたいなことも多いが、それでも「教師の研修」としては多分一番役に立つ。保護者会に来ない家とは、家庭訪問の機会しか親と話せない。家庭が抱える事情をかいま見る意味は大きい。教師という集団は、勉強が(まあ)好きで、大学へ行けるお金があった家庭の出身者が多い。もっと勉強ができて、もっと金持ちなら、教師をしてないかもしれないが、でも生徒の平均よりは学力も経済力もあるだろう。実際に社会のさまざまな職業の家を訪ねる機会は少なかったはずだ。地域のさまざまな家を訪ねると、「自己認識」「社会認識」に大きな変化があると思う。

 教師が地域を知る手段としても、家庭訪問の意義は大きい。特に小中は地域に密着している。東京もそうだし、静岡も大きな地震が予測されている地域ではないか。生徒が住んでいる地域を見ておくこと。また、いざとなれば「避難所」の経営に当たらなくてはいけないという立場としても、地域を知っておくことは大切だと思う。ということで、僕は授業以上の価値を遠足や家庭訪問に認めるのだけど、それは判っていて削減せざるを得ないという現状があるのか。そういう段階に追い込まれているのかもとさえ思った次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする