尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

紀尾井坂散歩

2017年04月06日 21時40分35秒 | 東京関東散歩
 冬が終わり桜が咲き始めると、ようやく街を散歩しようかという気持ちになってくる。ところが今年は3月後半がずっと寒くて桜がなかなか咲かない。東京の開花日だけは早かったけど、あれは靖国神社にあるとかいう標本木が早すぎるのである。どこも3月にはほとんど咲いてなくて、4月になって少し咲き始めてきた。4日、5日と暖かくようやく満開と言える感じになった。そこで四谷から紀尾井坂を歩いてみることにした。そういうところがあることは知っているけど、行ったことはなかった。
   
 JR四谷駅から上智大学方面に出る。今回は大学は見ていないけど、そこから外堀に沿った土手道になっていて、桜が咲き誇っている。上智大学生かと思われる学生グループがシートに座っているけど、案外人は少なくて歩きやすい。つい気が付かずに通り過ぎてしまいそうになるけど、右側を見ると土手下のJR線路の向こうに迎賓館が見えている。威容というか、異様な感じもするけど。
  (右写真はアップ)
 土手上の散歩道は案外短くて、下りたところが紀尾井坂のてっぺん。行く手にホテル・ニューオータニの大きな姿が見え、左手には紀尾井ホールがある。1995年に開設したクラシック・邦楽の専門ホールで、まだ一度も行ったことがない場所である。ホテル・ニューオータニの方も同じく一度も行ったことがない。東京にいて東京には泊まらないけど、これほど大きなホテルで結婚式をやったりした親戚もいない。紀尾井坂はほぼ半面がホテルの敷地に面している。けっこうちゃんとした坂道で、これほど急なまま残っているところも珍しい。東京の坂道は市電敷設で均されたところが多いけど。
  
 上の3枚目がホテル・ニューオータニだが、東京五輪をめざして建設され、1964年9月1日に開業したという。日本の高層建築の走りと言える歴史的建築物。今はこの後ろに建て増しされ非常に大きな建物になっている。道から歩道を歩いていくと、日本庭園がある。そこにも高そうな風情のある料理屋がある。また旧幕時代から続くカヤやイヌマキの木があって、千代田区の天然記念物に指定されている。そこらも面白いんだけど、今は省略して「紀尾井坂」の由来を。
   
 「紀尾井坂」というのは、江戸時代にここに「紀州藩」「尾張藩」「彦根藩(井伊家)」の屋敷があったことから付いた名前である。上の写真は、名前の由来順に記念碑を並べたもの。紀伊和歌山藩徳川家屋敷の碑は、坂を下りきった「東京ガーデンテラス紀尾井町」(旧赤坂プリンスホテル)の弁慶橋際に立っている。尾張名古屋藩徳川家屋敷の碑は、紀尾井ホールの隣にある。上智大学は尾張家屋敷跡に建てられた。そして、近江彦根藩井伊家屋敷は、ホテル・ニューオータニになってる場所で、道から少し入ったホテル歩道わきに碑がある。尾・井の碑は近いが、紀州碑が離れている。

 この紀尾井坂で日本史を変えた事件が起きている。「紀尾井坂の変」と呼ばれる。1878年(明治11年)5月14日、ここで大久保利通が襲われ絶命した。大久保の地位は「内務卿」だったけど、事実上明治新政府のトップと言っていい。前年の西南戦争で、薩摩藩で並び称された西郷隆盛はすでにない。長州藩の木戸孝允も前年に世を去っていた。大久保の横死で、ここに「維新の三傑」はすべて去った。
   
 紀尾井坂を下りて赤坂見附の方に曲がると、清水谷公園がある。そこに大久保利通の碑がある。「贈右大臣大久保公哀悼碑」とある巨大な碑で、1888年に建てられたもの。ちょっと虚を突かれるほど大きな碑で、さすがに歴史上の偉人だなと思うけど、ちょっと大きすぎる感じもした。この「清水谷公園」という場所は、昔よく新左翼系のデモの出発点になっていたから名前を聞くことが多かった。だいぶ公園の様子も変わっているそうで、今では集まる空間がない感じ。清水谷の説明碑があり、また公園入口に満開の桜の木があった。お昼時だったので、お弁当を食べている人がいっぱい。

 さて坂を下り切ると、昔はそこに赤坂プリンスホテルがあったということだけど、それも僕は知らない。2011年3月いっぱいで営業を停止し、たまたま同時期に起こった原発事故避難者の一時受け入れに使われたことは記憶に新しい。今は取り壊されて、紀尾井町ガーデンテラスになっている。そこに以前からあり、今も残されているのが、「赤坂プリンス クラシックハウス」。ビルを登っていくと一番上にある。これは東京の建物に関心がある人には有名な「旧李王家邸」である。
   
 それが上の写真の瀟洒な建物である。今もレストランやバーなどが営業している。「李王家邸」とは、つまり大韓帝国最後の皇太子、李垠の邸宅として1930年に建てられた。様式はチューダー・ゴシックで、細部にスパニッシュ・スタイルも見られる。と言ってもよく判らないけど、いろいろ見ていると「スパニッシュ」は何となくわかる気がする。当時李王家は皇族に準じる扱いを受けていたから宮内庁内匠寮が建てたものである。戦後、李王家もなくなり、西武が入手し赤坂プリンスホテルとなった。非常に見ごたえがある洋館で、複雑な歴史的経緯も含めて、東京を代表する洋館の一つだろう。(なぜか大きな白いトナカイの像があるのが不思議だけど。一番最初の写真をよく見ると写っている。)
コメント
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