「部活映画論」のまとめ。主に高校(時には中学)の部活動を描いた映画はかなりある。多くは原作のマンガ、小説があり、時には実話がもとになる。そういう映画にはどういう特徴があり、そこから日本の学校について何が判るか。昔の映画を中心に含めて、ちょっと考えてみたい。
まず、大きく二つに分けられる。一つは部活を中心にした青春娯楽映画で、もう一つは部活の活動そのものではなく、部活を通して「学校社会」を描く映画である。昨年の大みそかに再見して、ここにも書いた山下敦弘監督「リンダ リンダ リンダ」などは後者の代表。軽音楽部の中がもめてて、文化祭にも出られそうにない。そんなやる気なさげの日常と、それでもやりたい部員の日々が「地方の青春」をあぶりだしていく。部活そのものを描く映画ではないが、「文化祭映画」ではある。
部活を描くんだから、その映画には高校生ぐらいの俳優がたくさん出てくる。20代初めぐらいの俳優が出ることもあるけど、それはちょっときつい感じがする。アイドルグループがまとまって出演することも多い。マンガやラノベは作者も読者も若い層が中心だから、テーマに部活が扱われやすいのだろう。だけど、学校のシステムを知らずに書いてることが多いから、実際の学校とは違うことも多い。まあ、一種の青春ファンタジーなんだから、あまり目くじらを立てるほどのこともないと思うが。
学校なんだから「授業」があるはずである。みな留年せずに進級。卒業しているようだから、授業にも出ているはずだ。当然試験も受けている。本当は部活や恋愛以上に、試験が悩みの生徒も多いと思うけど、それはほとんど出てこない。同様に親もあまり出てこないことが多い。ケガをしたり、部活の人間関係に悩んだりするようなときに、初めて出てくることが多い。現実をすべて描いていると時間が足りなくなるから、特に娯楽映画の場合、青春もの以外でも「省略」が多くなる。
部活の種類は、最近は運動部より文化部が多い気がする。あるいは「珍しい」活動が取り上げられることが多い。矢口史靖の「ウォータ―ボーイズ」「スウィングガールズ」は、その珍しさを巧みなコメディに仕立てた作品で、部活映画というより「作家性」が評価された映画だろう。運動部、特に団体競技を扱う映画は昔はある程度あったと思うが、最近は少ないと思う。2016年の「青空エール」は、野球部と吹奏楽部を合わせて取り上げているが。サッカーでは(6人だった時期の)SMAP総出演の「シュート!」(1994)がある。(連休中に神保町シアターでレイトショー。)
50年代、60年代のテレビ普及以前の時代には、スポーツ映画がかなり作られていた。長嶋茂雄主演の「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(1964)や「若ノ花物語 土俵の鬼」(1956)のような映画である。テレビがなければ、大画面で人気スポーツを見たいだろう。今はネットで動画をすぐみられるし、スポーツの技量も上がっているから俳優が演じることもできない。テレビなどで「密着ドキュメント」をいっぱいやってるから、それらをネットで見ればいいわけだろう。
「部活映画」は一種の「バックステージもの」である。つまり「舞台裏」である。高校野球などは全試合がテレビの地上波で中継されているから、わざわざ映画で試合を見る意味はない。意味があるなら、裏で指導者との関係、ポジション争い、ケガや進路の悩みなんかをじっくり描く場合だろう。だから、運動部の場合でも、試合に至る「舞台裏」ものになる。部活映画の「バックステージもの」の最高峰は、1990年のベストワン作品、中原俊の「櫻の園」だろう。学園の創立記念日に毎年演劇部はチェーホフの「桜の園」を上演する。その日、演劇部に何が起こったか。
(「櫻の園」1990年版)
吉田秋生のマンガが原作だが、ここでは「桜の園」の上演にはほとんど意味がない。毎年の恒例行事だし、有名な戯曲だから、舞台そのものを見せる意味はない。上演を前にタバコが見つかるという、むしろ「生活指導」をめぐる物語と言ってもいい。それに対し、平田オリザ原作、木広克之監督「幕が上がる」はまさに演劇部をめぐる部活映画になっている。ただ、そうなると「部活」そのものと部活外の事情がないまぜになることによる「作品性」が問われてくる。文章で描かれた原作を、実際に生身に人間が演じなくて行けない。アイドル映画でもあり、部活映画でもあるところが難しい。
「劇中劇」がそんなに素晴らしいなら、われわれも劇中劇だけ見ればいいのではないか。部活の裏でどんなことが起こっていたかは、大会での評価には関係ない。一方、裏のドラマが面白いなら、そっちだけでもいい。そこらへんが部活映画の難しいところで、両者がともに進行しながら最終盤にクライマックスがやってくるという風にうまく行くことはなかなかできないだろう。
そうなると「ダンス部」系の活動は、一番うまく行く可能性が高い。音楽部系は「アフレコ」でうまい演奏に変えることができる。いくらアイドル俳優が頑張っても、大会レベルの演奏や合唱をするのは難しい。実際に「ハルチカ」は他の高校の演奏が使われている。だけど、「チア☆ダン」では配役された俳優たちが実際に踊っている。それも確かにうまくシンクロナイズされている。そこが本物の青春っぽいわけである。50分近い演劇部の出し物に比べてダンス、伝統芸能系は出し物の時間が短い。
ところで、部活映画で見えない問題がある。一つは大会の運営である。大会出場校は交代で受付などの実務を担っているはずだ。大会でも審判の役割が回ってくる部活もあるだろう。そういう面はまず出てこないで、大会にただ出ているだけみたいなのは、どうなんだろうか。もう一つは「集団主義」である。部活映画を見ている限り、それは前提そのものだから、あまり感じない。部活も学校の一部で、日本の学校に根強い集団主義を持っている。だが、勝利のためには「友情」を乗り越える必要も出てきて、「集団性」の二律背反になることがある。それは「チア☆ダン」のケースである。
部活でも、より個人性の強い活動もある。そういう活動をもっと扱っていくとどういう映画になるだろう。「写真甲子園」というのがあるが、それを映画化しようという企画が進んでいる。それはどんな映画になるだろう。陸上競技でも走高跳の選手を扱う「チルソクの夏」(2004、ベストテン9位)は見てない人が多いかもしれない。これは下関を舞台に、韓国のプサンとの陸上競技大会に出た女子選手と韓国の男子選手の交流を描いている。下関出身の佐々部清監督らしい企画だけど、このように個人競技を扱えばテーマを深める可能性が出てくる例だと思う。
高校生を扱う映画では、部活でなくても「部活性」を帯びてくる。「ビリギャル」はある種「受験勉強部」の活動というような内容で、本人のやる気と指導者、家族のあり方など物語の構造は「チア☆ダン」とほぼ同じである。「セトウツミ」であってさえ、「帰宅部」の映画とでも言えるような特性を持つ。そこに個人性と集団性の狭間で生きていくしかない人間のありようを見て取れる。
(「セトウツミ」)
あれこれ書いてきたけど、青春のノスタルジーでもなく、集団主義の強調でもなく、「新しい自分の発見」につながるようなもの。「部活映画」にいま望まれるのはそんなものだと思う。「でんげい」で実際に描かれているのは、そうした「自分の発見」のようなものだった。ドラマでもまだまだ新しいものを作れるだろう。誰しもが経験した「学校」という装置は、これからも日本社会を映し出す鏡になる。授業だけでは輝けない生徒のもう一つの顔。それを表現する試みとして「部活映画」の可能性があると思う。
まず、大きく二つに分けられる。一つは部活を中心にした青春娯楽映画で、もう一つは部活の活動そのものではなく、部活を通して「学校社会」を描く映画である。昨年の大みそかに再見して、ここにも書いた山下敦弘監督「リンダ リンダ リンダ」などは後者の代表。軽音楽部の中がもめてて、文化祭にも出られそうにない。そんなやる気なさげの日常と、それでもやりたい部員の日々が「地方の青春」をあぶりだしていく。部活そのものを描く映画ではないが、「文化祭映画」ではある。
部活を描くんだから、その映画には高校生ぐらいの俳優がたくさん出てくる。20代初めぐらいの俳優が出ることもあるけど、それはちょっときつい感じがする。アイドルグループがまとまって出演することも多い。マンガやラノベは作者も読者も若い層が中心だから、テーマに部活が扱われやすいのだろう。だけど、学校のシステムを知らずに書いてることが多いから、実際の学校とは違うことも多い。まあ、一種の青春ファンタジーなんだから、あまり目くじらを立てるほどのこともないと思うが。
学校なんだから「授業」があるはずである。みな留年せずに進級。卒業しているようだから、授業にも出ているはずだ。当然試験も受けている。本当は部活や恋愛以上に、試験が悩みの生徒も多いと思うけど、それはほとんど出てこない。同様に親もあまり出てこないことが多い。ケガをしたり、部活の人間関係に悩んだりするようなときに、初めて出てくることが多い。現実をすべて描いていると時間が足りなくなるから、特に娯楽映画の場合、青春もの以外でも「省略」が多くなる。
部活の種類は、最近は運動部より文化部が多い気がする。あるいは「珍しい」活動が取り上げられることが多い。矢口史靖の「ウォータ―ボーイズ」「スウィングガールズ」は、その珍しさを巧みなコメディに仕立てた作品で、部活映画というより「作家性」が評価された映画だろう。運動部、特に団体競技を扱う映画は昔はある程度あったと思うが、最近は少ないと思う。2016年の「青空エール」は、野球部と吹奏楽部を合わせて取り上げているが。サッカーでは(6人だった時期の)SMAP総出演の「シュート!」(1994)がある。(連休中に神保町シアターでレイトショー。)
50年代、60年代のテレビ普及以前の時代には、スポーツ映画がかなり作られていた。長嶋茂雄主演の「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(1964)や「若ノ花物語 土俵の鬼」(1956)のような映画である。テレビがなければ、大画面で人気スポーツを見たいだろう。今はネットで動画をすぐみられるし、スポーツの技量も上がっているから俳優が演じることもできない。テレビなどで「密着ドキュメント」をいっぱいやってるから、それらをネットで見ればいいわけだろう。
「部活映画」は一種の「バックステージもの」である。つまり「舞台裏」である。高校野球などは全試合がテレビの地上波で中継されているから、わざわざ映画で試合を見る意味はない。意味があるなら、裏で指導者との関係、ポジション争い、ケガや進路の悩みなんかをじっくり描く場合だろう。だから、運動部の場合でも、試合に至る「舞台裏」ものになる。部活映画の「バックステージもの」の最高峰は、1990年のベストワン作品、中原俊の「櫻の園」だろう。学園の創立記念日に毎年演劇部はチェーホフの「桜の園」を上演する。その日、演劇部に何が起こったか。

吉田秋生のマンガが原作だが、ここでは「桜の園」の上演にはほとんど意味がない。毎年の恒例行事だし、有名な戯曲だから、舞台そのものを見せる意味はない。上演を前にタバコが見つかるという、むしろ「生活指導」をめぐる物語と言ってもいい。それに対し、平田オリザ原作、木広克之監督「幕が上がる」はまさに演劇部をめぐる部活映画になっている。ただ、そうなると「部活」そのものと部活外の事情がないまぜになることによる「作品性」が問われてくる。文章で描かれた原作を、実際に生身に人間が演じなくて行けない。アイドル映画でもあり、部活映画でもあるところが難しい。
「劇中劇」がそんなに素晴らしいなら、われわれも劇中劇だけ見ればいいのではないか。部活の裏でどんなことが起こっていたかは、大会での評価には関係ない。一方、裏のドラマが面白いなら、そっちだけでもいい。そこらへんが部活映画の難しいところで、両者がともに進行しながら最終盤にクライマックスがやってくるという風にうまく行くことはなかなかできないだろう。
そうなると「ダンス部」系の活動は、一番うまく行く可能性が高い。音楽部系は「アフレコ」でうまい演奏に変えることができる。いくらアイドル俳優が頑張っても、大会レベルの演奏や合唱をするのは難しい。実際に「ハルチカ」は他の高校の演奏が使われている。だけど、「チア☆ダン」では配役された俳優たちが実際に踊っている。それも確かにうまくシンクロナイズされている。そこが本物の青春っぽいわけである。50分近い演劇部の出し物に比べてダンス、伝統芸能系は出し物の時間が短い。
ところで、部活映画で見えない問題がある。一つは大会の運営である。大会出場校は交代で受付などの実務を担っているはずだ。大会でも審判の役割が回ってくる部活もあるだろう。そういう面はまず出てこないで、大会にただ出ているだけみたいなのは、どうなんだろうか。もう一つは「集団主義」である。部活映画を見ている限り、それは前提そのものだから、あまり感じない。部活も学校の一部で、日本の学校に根強い集団主義を持っている。だが、勝利のためには「友情」を乗り越える必要も出てきて、「集団性」の二律背反になることがある。それは「チア☆ダン」のケースである。
部活でも、より個人性の強い活動もある。そういう活動をもっと扱っていくとどういう映画になるだろう。「写真甲子園」というのがあるが、それを映画化しようという企画が進んでいる。それはどんな映画になるだろう。陸上競技でも走高跳の選手を扱う「チルソクの夏」(2004、ベストテン9位)は見てない人が多いかもしれない。これは下関を舞台に、韓国のプサンとの陸上競技大会に出た女子選手と韓国の男子選手の交流を描いている。下関出身の佐々部清監督らしい企画だけど、このように個人競技を扱えばテーマを深める可能性が出てくる例だと思う。
高校生を扱う映画では、部活でなくても「部活性」を帯びてくる。「ビリギャル」はある種「受験勉強部」の活動というような内容で、本人のやる気と指導者、家族のあり方など物語の構造は「チア☆ダン」とほぼ同じである。「セトウツミ」であってさえ、「帰宅部」の映画とでも言えるような特性を持つ。そこに個人性と集団性の狭間で生きていくしかない人間のありようを見て取れる。

あれこれ書いてきたけど、青春のノスタルジーでもなく、集団主義の強調でもなく、「新しい自分の発見」につながるようなもの。「部活映画」にいま望まれるのはそんなものだと思う。「でんげい」で実際に描かれているのは、そうした「自分の発見」のようなものだった。ドラマでもまだまだ新しいものを作れるだろう。誰しもが経験した「学校」という装置は、これからも日本社会を映し出す鏡になる。授業だけでは輝けない生徒のもう一つの顔。それを表現する試みとして「部活映画」の可能性があると思う。