晴れていたら絶好のお花見日和の週末だけど、あいにく関東は土日とも雨もようの予想である。あんまり散歩に向かないんだけど、鎌倉へ行ってきた。というのも、「旧華頂宮邸」と「旧川喜多邸別邸」が特別公開されるからだ。毎年春秋に二日ほど公開されるので、まあ秋に行ってもいいわけだけど、行く気になった時に行かないと機を逸するものだから行くことにした。
鎌倉駅から金沢八景駅行バスに乗って、浄妙寺前で降りる。道を渡って報国寺方向へ歩いて数分で、「旧華頂宮邸」がある。歩いても35分ぐらいとあるけど、道が判ってないからバスで行った。月火を除き庭園だけは公開されているようだけど、家の内部は特別公開だけ。最初に中を見て、それから庭へ下りるんだけど、全景は庭から見た方が判りやすい。最初に庭からの写真を。
ところで、「華頂宮」(かちょうのみや)なんて言っても、誰だそれ、課長の宮さんかという感じだろう。そんな皇族がいたのか。現代史にも全然出てこない。それも道理で、大体「旧華頂宮邸」という呼び方は、ちょっと正しくない。もちろん「華頂宮」という皇族はあったわけだけど、ほとんど活動がなかった。1868年に伏見宮邦家親王の12子、博経親王が創設したのが初代。この人は1870年に米国へ留学し、海軍軍人となった。1873年に帰国したが、1876年に26歳で亡くなった。博経親王の子は臣籍降下するはずが、幼い身を惜しんで明治天皇の特旨をもって存続できた。だけど、2代博厚親王は1873年に8歳で亡くなってしまった。悲運の皇族なのである。
そこで元の伏見宮家から当主貞愛親王の第一子(だけど、庶子)の博恭親王が華頂宮家を継いだ。しかし、伏見宮家の嫡子が病弱だったため、1904年に博恭親王は伏見宮家に戻った。この伏見宮博恭親王が、1932年に海軍軍令部長になった人。昭和史に関心のある人には知られた名前である。(陸軍が閑院宮を参謀総長にしたので、海軍も対抗したわけである。もちろん皇族はお飾りで、実務上のトップは次長が務めていた。)博恭親王が伏見宮家に戻った後、その第2子博忠王が2歳で華頂宮家を継いで、長じて海軍軍人になったが、1924年に22歳で亡くなってしまった。
華頂宮第4代博忠王は妻子がなかったので、これで終わり。華頂宮家の祭祀は、博忠王の弟(博恭王の3男)伏見宮博信王が継ぐことになり、臣籍降下して華頂侯爵家を起こした。この邸宅が作られたのは、1929年。だからここは正確に言えば「旧華頂侯爵邸」である。一度も宮邸だったことはないはずだけど、まあそれは細かい話。華頂侯爵家が住んだのは数年で、持ち主はたびたび変わったという。現在は鎌倉市所有で、国登録有形文化財となっている。
華頂宮家の由来を詳しく書いてしまった。まあ知らないことは多いんだなあということである。インターネットで調べられてしまうから書いたけど、近代史の片隅で起こったことだ。洋館を見る楽しみとしては、かなり小ぶりなもので、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)や旧前田侯爵邸に比べるとそれほど大きくない。当主の地位が違うということなんだろう。中の写真を上に載せたが、まあどこの洋館でも似ている。様式の説明は自分でも判らないから省略。庭から表門側に回って表の写真を撮って帰る。
旧華頂宮邸のすぐそばに「報国寺」がある。1334年創建と伝えられる臨済宗の禅寺である。鎌倉のお寺は行ってないところが多く、ここも今回初めて知った。「竹の庭」が有名だという。鎌倉のガイド本には必ず出ている。見るには200円の拝観料がいるけど、これは壮観だった。竹ばかりのド迫力に心奪われて何枚も写真を撮ってしまったけど、後で見ると皆同じようなものばかり。
まあ4枚に留めておくけど、これは何枚載せても見た感じは伝わらない。道には人がいるし、大体立ち止まって写真を撮っている。竹だけ撮っても同じような感じなんだけど、竹が高いし密集しているから迫力が凄い。そのさまを何と表現するべきか。歩いて行くとぐるっと回って、石庭がある。向こうには崖が見えている。そこを周ってお寺に戻ると桜が満開である。その後、釈迦堂切通しや川喜多邸別邸へ行ったけど、その話は映画の話になるので別に書くことにしたい。
鎌倉駅から金沢八景駅行バスに乗って、浄妙寺前で降りる。道を渡って報国寺方向へ歩いて数分で、「旧華頂宮邸」がある。歩いても35分ぐらいとあるけど、道が判ってないからバスで行った。月火を除き庭園だけは公開されているようだけど、家の内部は特別公開だけ。最初に中を見て、それから庭へ下りるんだけど、全景は庭から見た方が判りやすい。最初に庭からの写真を。
ところで、「華頂宮」(かちょうのみや)なんて言っても、誰だそれ、課長の宮さんかという感じだろう。そんな皇族がいたのか。現代史にも全然出てこない。それも道理で、大体「旧華頂宮邸」という呼び方は、ちょっと正しくない。もちろん「華頂宮」という皇族はあったわけだけど、ほとんど活動がなかった。1868年に伏見宮邦家親王の12子、博経親王が創設したのが初代。この人は1870年に米国へ留学し、海軍軍人となった。1873年に帰国したが、1876年に26歳で亡くなった。博経親王の子は臣籍降下するはずが、幼い身を惜しんで明治天皇の特旨をもって存続できた。だけど、2代博厚親王は1873年に8歳で亡くなってしまった。悲運の皇族なのである。
そこで元の伏見宮家から当主貞愛親王の第一子(だけど、庶子)の博恭親王が華頂宮家を継いだ。しかし、伏見宮家の嫡子が病弱だったため、1904年に博恭親王は伏見宮家に戻った。この伏見宮博恭親王が、1932年に海軍軍令部長になった人。昭和史に関心のある人には知られた名前である。(陸軍が閑院宮を参謀総長にしたので、海軍も対抗したわけである。もちろん皇族はお飾りで、実務上のトップは次長が務めていた。)博恭親王が伏見宮家に戻った後、その第2子博忠王が2歳で華頂宮家を継いで、長じて海軍軍人になったが、1924年に22歳で亡くなってしまった。
華頂宮第4代博忠王は妻子がなかったので、これで終わり。華頂宮家の祭祀は、博忠王の弟(博恭王の3男)伏見宮博信王が継ぐことになり、臣籍降下して華頂侯爵家を起こした。この邸宅が作られたのは、1929年。だからここは正確に言えば「旧華頂侯爵邸」である。一度も宮邸だったことはないはずだけど、まあそれは細かい話。華頂侯爵家が住んだのは数年で、持ち主はたびたび変わったという。現在は鎌倉市所有で、国登録有形文化財となっている。
華頂宮家の由来を詳しく書いてしまった。まあ知らないことは多いんだなあということである。インターネットで調べられてしまうから書いたけど、近代史の片隅で起こったことだ。洋館を見る楽しみとしては、かなり小ぶりなもので、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)や旧前田侯爵邸に比べるとそれほど大きくない。当主の地位が違うということなんだろう。中の写真を上に載せたが、まあどこの洋館でも似ている。様式の説明は自分でも判らないから省略。庭から表門側に回って表の写真を撮って帰る。
旧華頂宮邸のすぐそばに「報国寺」がある。1334年創建と伝えられる臨済宗の禅寺である。鎌倉のお寺は行ってないところが多く、ここも今回初めて知った。「竹の庭」が有名だという。鎌倉のガイド本には必ず出ている。見るには200円の拝観料がいるけど、これは壮観だった。竹ばかりのド迫力に心奪われて何枚も写真を撮ってしまったけど、後で見ると皆同じようなものばかり。
まあ4枚に留めておくけど、これは何枚載せても見た感じは伝わらない。道には人がいるし、大体立ち止まって写真を撮っている。竹だけ撮っても同じような感じなんだけど、竹が高いし密集しているから迫力が凄い。そのさまを何と表現するべきか。歩いて行くとぐるっと回って、石庭がある。向こうには崖が見えている。そこを周ってお寺に戻ると桜が満開である。その後、釈迦堂切通しや川喜多邸別邸へ行ったけど、その話は映画の話になるので別に書くことにしたい。