関東大震災時の虐殺事件を書く4回目(最後)。朝鮮人虐殺事件を書くけど、それは「あったか、なかったか」を書くためではない。そんなことは明白すぎて書く意味がない。歴史学的観点からは、問題は「デマはなぜ生まれ、どのように広がっていったか」に絞られるだろう。
関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に発生した。もちろんそれを予知していた人はいない。プレートテクトニクス理論が確立した現在でも、東日本大震災の発生は不意打ちだった。熊本の地震も同じ。関東大震災では皇族も犠牲になった。当主ではないが、閑院宮の4女や東久邇宮の次男が亡くなった。いずれも小田原や藤沢などに避暑に来ていて、別荘が崩落したのである。震災は権力側にも不意打ちだった。朝鮮人が予知できたわけがない。事前に判ってない限り、毒も爆弾も用意できない。
常識で考えれば、劣悪な環境に置かれた朝鮮人労働者の方が、震災で家屋が崩壊して生き延びるだけで大変だったと想像できる。日本の植民地だった朝鮮だが、日本と自由に往来できたわけではない。だが、困窮した人々は日本へ流入した。(南部の人は日本へ、北部の人は中国の間島=現在の延辺朝鮮族自治州へ。)朝鮮人は荒川放水路の工事など様々な下層労働をして、バラバラに居住していた。集団で「暴動」を起こせるわけがないし、故郷を食い詰めて日本に来たのだから、独立運動家でもない。だから、虐殺事件があちこちで起こったわけである。
東京東部を見てみると、本所区(墨田区南部)と深川区(江東区西部)一帯はほとんど焼けた。東部から逃げるとなると、千葉か茨城に向かうことになる。どう行っても、川がある。都心から順に、隅田川(大川)、荒川(放水路)、中川、新中川、江戸川となる。今、都心から千葉、茨城に車で行く時、高速を使わず下を行くと、京葉道路か水戸街道になる。環状道路の明治通りが、京葉道路と交差するのが亀戸、水戸街道と交差するのが東向島である。(明治通りは震災当時はないが、交通の基本は変わらない。)
避難する朝鮮人を大量に「捕獲」したのが亀戸署と寺島署だったのは、そういう交通事情による。(現在、亀戸署は城東署、寺島署は向島署。)荒川放水路の掘削現場や下町の零細工場地帯のスラムにいた朝鮮人が、千葉、茨城方面に向かう時に必ず通る橋に軍が展開した。だから四ツ木橋や小松川橋際で虐殺が起きたのである。四ツ木橋(墨田区と葛飾区の間)で、軍による大量の虐殺があったという証言を地元の老人の聞き取りで明らかにしたのは、絹田幸恵だった。僕の母校である足立区立伊興小の先生で、地元の教材を求めて荒川放水路建設の話を聞いて回っていた。(その聞き取りは『荒川放水路物語』という名著に結実した。)
(墨田区八広にある追悼碑)
絹田先生は聞き取りで聞いた虐殺の話を放っておけなくなり、堤防内を発掘し遺骨を掘り出そうと考えた。1982年、当時立教大学教授の山田昭次氏に代表を依頼し、試掘を実施した。遺骨の発掘はならなかったが、そのグループが多くの聞き取りを行った。『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992)にまとまっているが、9月1日当日の夜から、群集による朝鮮人虐殺が始まったという証言がある。また警察も朝鮮人を捕らえて虐殺した。荒川土手や寺島署にたくさんの朝鮮人がいたところへ戒厳軍が到着し、旧四ツ木橋に機関銃をすえて、大量の虐殺を開始したという証言が得られた。この軍隊は近衛師団習志野騎兵連隊の機関銃部隊である。
その後、政府は朝鮮人、中国人をまとめて、習志野俘虜収容所へ送ることに転換した。かつてロシア人、ドイツ人の捕虜を収容した施設で、この時は空いていたから、そこに「保護」の名目で押し込んだ。軍はスパイを入れ、朝鮮独立運動家らしき者を探り、怪しいと思われた者を虐殺した。付近の「村の自警団」に下げ渡し、村で「処理」させたケースもある。この事実は20年前に千葉のグループが発掘し衝撃を与えた。そこまでしたのである。
「朝鮮人暴動」のデマがなぜ生じたのだろうか? はっきり言えるのは、2日に流言を広めたのは、明らかに警察と軍隊だった。警察が触れ回ったから信じた、という震災後の証言が無数にある。軍が率先して虐殺したので、民衆も信じたのである。しかし、その段階で広めているのは、警察や軍の中間管理職、下っ端である。上から命じられたのか、自分もデマを信じ込んだのか、根っから朝鮮人を差別していたのか、そのあたりが判らない。9月1日当日に、上層部から意図的に流された陰謀か、それとも民衆の差別意識が生んだ自然発生的デマなのか。
「富士山が噴火した」というデマがあったことも判っている。富士山噴火を権力側が意図的に流すとは思えない。自然発生的デマはあったのである。自警団の虐殺を見ると、民衆の差別意識は否定できず、民衆からの自然発生もあり得る。一方、軍の展開地域に沿ってデマが拡大している側面も指摘されている。「デマ」そのものが権力側の陰謀という説も否定できない。
この問題は最終的には「戒厳令がなぜ出されたか」になる。戒厳令は、そもそも戦時に軍が行政を行う事である。緊急勅令で「行政戒厳」を布告したことは3回ある。最初が1905年の日比谷焼き討ち事件、最後が1936年の二・二六事件。戦時ではないが、準戦時的大事件である。しかし、震災は災害であり戒厳令を出す理由にならない。倒壊家屋や火災の救援なら戒厳令はいらない。実際、軍は震災後すぐに宮城や各宮家の安否確認に駆け回っている。
(横網町公園の追悼碑)
ところで、関東大震災当日の総理大臣を知っているだろうか? ほとんど知らないのではないか。震災当日は首相がいなかったのである。1921年に「平民宰相」原敬が暗殺され、高橋是清が後を継ぐが、短命。1922年、海軍大将加藤友三郎が首相になるが、1923年8月25日に病死して、内田康哉外相が臨時首相となっていた。2日午前に戒厳令を出したのは内田臨時内閣である。実は8月28日に後継として海軍の山本権兵衛が指名されていた。組閣が遅れていたが、2日午後に山本内閣が成立した。なぜ、後継内閣成立を待たなかったか。
そもそも戒厳令の発動要件を満たさないので、形式は議会閉会中の緊急勅令となるが、枢密院議員が安否不明で、枢密院が開かれていない。つまり違法な戒厳令なのである。加藤前内閣の水野錬太郎内相、赤池濃警視総監は、朝鮮総督府に勤務して三一独立運動弾圧に関わった。それが朝鮮人暴動の「妄想的警戒心」を生んだという説もある。後任内相は、大物後藤新平だった。震災前に山本内閣が成立していたら、後藤新平内相はどうしていたろう? 災害救援も国内の治安維持も地方との連絡もすべて内務省の所管である。後藤内相は、軍の口出しを嫌って戒厳令はなかったかもしれない。
戒厳令により動員された軍は、死体や倒壊家屋の片付けに来たのではない。戒厳出動だから、敵をやっつけるつもりで来た。それはいろいろ証言があり、(例えば戦後に中国との平和を訴えた反戦軍人遠藤三郎の日記)、朝鮮人暴動を信じ込んでいるのである。軍が兵士に対して、「これはデマだけど」と説明するわけがない。兵は上官の命令に従って、虐殺に努めたのである。軍、警察が殺人をしているのだから、民衆が国家公認の「天下晴れての殺人」と思い込んだのも無理はない。政府は後にいくつかの事件で自警団を裁判にかけたが、おざなりのものだった。軍、警察の関わりを裁かない以上、当然だ。
「民衆の差別意識からデマがおこり自警団による虐殺があった」という理解では不十分なのである。軍や警察が組織的に関わらなければ、これほどの規模の虐殺事件にはならない。世界の類似事件との比較も大切だ。第一次世界大戦時のオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺は、時代も内容も似ている。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)や、インドネシアの「9.30事件」後の虐殺(記録映画「アクト・オブ・キリング」で追及された)、ルワンダ、ブルンジの虐殺、ボスニアの虐殺なども考えないといけない。それと同時に、今も当時の事件を調査せず、国家責任を認めない日本政府も問わないといけないだろう。「軍隊」というものは恐ろしいものだ。
関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に発生した。もちろんそれを予知していた人はいない。プレートテクトニクス理論が確立した現在でも、東日本大震災の発生は不意打ちだった。熊本の地震も同じ。関東大震災では皇族も犠牲になった。当主ではないが、閑院宮の4女や東久邇宮の次男が亡くなった。いずれも小田原や藤沢などに避暑に来ていて、別荘が崩落したのである。震災は権力側にも不意打ちだった。朝鮮人が予知できたわけがない。事前に判ってない限り、毒も爆弾も用意できない。
常識で考えれば、劣悪な環境に置かれた朝鮮人労働者の方が、震災で家屋が崩壊して生き延びるだけで大変だったと想像できる。日本の植民地だった朝鮮だが、日本と自由に往来できたわけではない。だが、困窮した人々は日本へ流入した。(南部の人は日本へ、北部の人は中国の間島=現在の延辺朝鮮族自治州へ。)朝鮮人は荒川放水路の工事など様々な下層労働をして、バラバラに居住していた。集団で「暴動」を起こせるわけがないし、故郷を食い詰めて日本に来たのだから、独立運動家でもない。だから、虐殺事件があちこちで起こったわけである。
東京東部を見てみると、本所区(墨田区南部)と深川区(江東区西部)一帯はほとんど焼けた。東部から逃げるとなると、千葉か茨城に向かうことになる。どう行っても、川がある。都心から順に、隅田川(大川)、荒川(放水路)、中川、新中川、江戸川となる。今、都心から千葉、茨城に車で行く時、高速を使わず下を行くと、京葉道路か水戸街道になる。環状道路の明治通りが、京葉道路と交差するのが亀戸、水戸街道と交差するのが東向島である。(明治通りは震災当時はないが、交通の基本は変わらない。)
避難する朝鮮人を大量に「捕獲」したのが亀戸署と寺島署だったのは、そういう交通事情による。(現在、亀戸署は城東署、寺島署は向島署。)荒川放水路の掘削現場や下町の零細工場地帯のスラムにいた朝鮮人が、千葉、茨城方面に向かう時に必ず通る橋に軍が展開した。だから四ツ木橋や小松川橋際で虐殺が起きたのである。四ツ木橋(墨田区と葛飾区の間)で、軍による大量の虐殺があったという証言を地元の老人の聞き取りで明らかにしたのは、絹田幸恵だった。僕の母校である足立区立伊興小の先生で、地元の教材を求めて荒川放水路建設の話を聞いて回っていた。(その聞き取りは『荒川放水路物語』という名著に結実した。)
(墨田区八広にある追悼碑)
絹田先生は聞き取りで聞いた虐殺の話を放っておけなくなり、堤防内を発掘し遺骨を掘り出そうと考えた。1982年、当時立教大学教授の山田昭次氏に代表を依頼し、試掘を実施した。遺骨の発掘はならなかったが、そのグループが多くの聞き取りを行った。『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992)にまとまっているが、9月1日当日の夜から、群集による朝鮮人虐殺が始まったという証言がある。また警察も朝鮮人を捕らえて虐殺した。荒川土手や寺島署にたくさんの朝鮮人がいたところへ戒厳軍が到着し、旧四ツ木橋に機関銃をすえて、大量の虐殺を開始したという証言が得られた。この軍隊は近衛師団習志野騎兵連隊の機関銃部隊である。
その後、政府は朝鮮人、中国人をまとめて、習志野俘虜収容所へ送ることに転換した。かつてロシア人、ドイツ人の捕虜を収容した施設で、この時は空いていたから、そこに「保護」の名目で押し込んだ。軍はスパイを入れ、朝鮮独立運動家らしき者を探り、怪しいと思われた者を虐殺した。付近の「村の自警団」に下げ渡し、村で「処理」させたケースもある。この事実は20年前に千葉のグループが発掘し衝撃を与えた。そこまでしたのである。
「朝鮮人暴動」のデマがなぜ生じたのだろうか? はっきり言えるのは、2日に流言を広めたのは、明らかに警察と軍隊だった。警察が触れ回ったから信じた、という震災後の証言が無数にある。軍が率先して虐殺したので、民衆も信じたのである。しかし、その段階で広めているのは、警察や軍の中間管理職、下っ端である。上から命じられたのか、自分もデマを信じ込んだのか、根っから朝鮮人を差別していたのか、そのあたりが判らない。9月1日当日に、上層部から意図的に流された陰謀か、それとも民衆の差別意識が生んだ自然発生的デマなのか。
「富士山が噴火した」というデマがあったことも判っている。富士山噴火を権力側が意図的に流すとは思えない。自然発生的デマはあったのである。自警団の虐殺を見ると、民衆の差別意識は否定できず、民衆からの自然発生もあり得る。一方、軍の展開地域に沿ってデマが拡大している側面も指摘されている。「デマ」そのものが権力側の陰謀という説も否定できない。
この問題は最終的には「戒厳令がなぜ出されたか」になる。戒厳令は、そもそも戦時に軍が行政を行う事である。緊急勅令で「行政戒厳」を布告したことは3回ある。最初が1905年の日比谷焼き討ち事件、最後が1936年の二・二六事件。戦時ではないが、準戦時的大事件である。しかし、震災は災害であり戒厳令を出す理由にならない。倒壊家屋や火災の救援なら戒厳令はいらない。実際、軍は震災後すぐに宮城や各宮家の安否確認に駆け回っている。
(横網町公園の追悼碑)
ところで、関東大震災当日の総理大臣を知っているだろうか? ほとんど知らないのではないか。震災当日は首相がいなかったのである。1921年に「平民宰相」原敬が暗殺され、高橋是清が後を継ぐが、短命。1922年、海軍大将加藤友三郎が首相になるが、1923年8月25日に病死して、内田康哉外相が臨時首相となっていた。2日午前に戒厳令を出したのは内田臨時内閣である。実は8月28日に後継として海軍の山本権兵衛が指名されていた。組閣が遅れていたが、2日午後に山本内閣が成立した。なぜ、後継内閣成立を待たなかったか。
そもそも戒厳令の発動要件を満たさないので、形式は議会閉会中の緊急勅令となるが、枢密院議員が安否不明で、枢密院が開かれていない。つまり違法な戒厳令なのである。加藤前内閣の水野錬太郎内相、赤池濃警視総監は、朝鮮総督府に勤務して三一独立運動弾圧に関わった。それが朝鮮人暴動の「妄想的警戒心」を生んだという説もある。後任内相は、大物後藤新平だった。震災前に山本内閣が成立していたら、後藤新平内相はどうしていたろう? 災害救援も国内の治安維持も地方との連絡もすべて内務省の所管である。後藤内相は、軍の口出しを嫌って戒厳令はなかったかもしれない。
戒厳令により動員された軍は、死体や倒壊家屋の片付けに来たのではない。戒厳出動だから、敵をやっつけるつもりで来た。それはいろいろ証言があり、(例えば戦後に中国との平和を訴えた反戦軍人遠藤三郎の日記)、朝鮮人暴動を信じ込んでいるのである。軍が兵士に対して、「これはデマだけど」と説明するわけがない。兵は上官の命令に従って、虐殺に努めたのである。軍、警察が殺人をしているのだから、民衆が国家公認の「天下晴れての殺人」と思い込んだのも無理はない。政府は後にいくつかの事件で自警団を裁判にかけたが、おざなりのものだった。軍、警察の関わりを裁かない以上、当然だ。
「民衆の差別意識からデマがおこり自警団による虐殺があった」という理解では不十分なのである。軍や警察が組織的に関わらなければ、これほどの規模の虐殺事件にはならない。世界の類似事件との比較も大切だ。第一次世界大戦時のオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺は、時代も内容も似ている。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)や、インドネシアの「9.30事件」後の虐殺(記録映画「アクト・オブ・キリング」で追及された)、ルワンダ、ブルンジの虐殺、ボスニアの虐殺なども考えないといけない。それと同時に、今も当時の事件を調査せず、国家責任を認めない日本政府も問わないといけないだろう。「軍隊」というものは恐ろしいものだ。