関東大震災時の虐殺事件を考える3回目。福田村事件、王希天と中国人虐殺事件に続いて、亀戸事件。これは知られてない(と僕が思う)順番である。亀戸事件に関しては、かつて「亀戸散歩」の中で取り上げたことがある。(「亀戸事件と寺社めぐりー亀戸散歩②」)
亀戸事件とは、当時の東京府南葛飾郡亀戸町付近の労働運動家、社会主義者10人が亀戸警察署で虐殺された事件である。虐殺したのは、警察ではなく、近衛師団習志野騎兵連隊だった。遠くからきた軍隊に犠牲者の顔が判別できたはずがなく、亀戸警察の側で「指名虐殺」させたことは間違いない。研究が遅れて、一体何人殺されたのかもはっきりしなかったが、今は平澤計七(純労働者組合)、川合義虎(南葛労働会)ら10名が定説とされる。浄心寺(亀戸4丁目17-11)にある犠牲者追悼の碑には中筋宇八の名がない。9名しか刻銘されていない。
(犠牲者追悼碑)
平澤、川合の傾向はかなり違うが、日本史専攻者には名が知られている。今は他の犠牲者全員の名は書かないが、まだ出生地も誕生日も不明な人がいる。亀戸は秋葉原から千葉方面へ総武線で4駅目。駅の北側にあった亀戸警察も今はない。今はどこにもある「ちょっとした繁華街」だが、当時は大工業地帯で東洋モスリンなどの大会社があった。
当時の亀戸はまだ東京府南葛飾郡だった。「南葛」地域は最も戦闘的な労働運動の先端地になっていた。1923年のメーデーでは、南葛労働者と朝鮮人労働者との「連帯」も芽生えつつあった。「革命的労働運動」の「南葛魂」とまで言われたのである。川合義虎はまだ22歳ながら、日本共産青年同盟、つまりは後の「民青」の初代委員長となった人物だったのである。
亀戸警察は、数多く(数百人)の朝鮮人を収容して虐殺した。労働運動家も虐殺し、日本人自警団員数名も拉致して虐殺した。(この日本人虐殺の事情はよく判らない。)そういう事件が実際に起きたのだが、「震災の混乱」で、「朝鮮人と社会主義者」の暴動という「デマ」が飛び自警団による事件が起こった、「デマに惑わされてはいけない」という理解では明らかに不十分だ。川合たちの事件は、ねらいをつけた「公然たる国家テロ」と言うべきである。
前年の1922年に、日本共産党の結成が発覚して公判中だった。堺利彦、徳田球一、野坂参三ら日本の社会主義、共産主義史上の有名人は、震災時は市ヶ谷刑務所に拘束されていた。彼らは囚人大会を開き家族や家財が心配だから一時釈放せよと運動した。ここにも戒厳軍がやってきて身柄の引渡しを要求したが、刑務所長は要求に応じなかった。結果的に被告たちの生命が救われたのである。同じ事件で病気保釈中だった山川均も知人の家を渡り歩き、警察の手を逃れている。吉野作造など社会主義者以外でも狙われたらしい記録がある。
現実に起こった虐殺事件は大杉栄らと亀戸事件だけだった。震災が権力にとっても不意打ちだったからだ。歴史の可能性としては、もっと多数の社会主義者らの虐殺が起こっても不思議ではなかった。もっとも「天災を機に、戒厳令を敷き、一挙に社会主義者を抹殺する」というマニュアルが出来ていたと決めつけると言いすぎだろう。だが「ひとたび事(社会主義革命)が起こったら、皇室を守るため軍がカウンター・クーデターを起こす」という発想はあったと思う。すでに1922年にイタリアのムッソリーニは権力を奪取していた時代である。
震災時の虐殺事件では、大杉栄、伊藤野枝、および甥の橘宗一少年を甘粕憲兵大尉らが殺害した事件が一番知られているだろう。その事件については沢山の本があるのでここでは触れない。一般向けでは瀬戸内晴美(寂聴)の『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』や鎌田慧『自由への疾走』が判りやすい。いずれも岩波現代文庫に入っている。大杉栄と伊藤野枝という「素材」が抜群に面白い。亀戸事件では、加藤文三『亀戸事件』が最もまとまっている。
震災関係の虐殺が明るみに出たのは、僕の大好きな奇人弁護士、山崎今朝弥(やまざき・けさや)の尽力が大きい。山崎の『地震・憲兵・火事・巡査』は岩波文庫に入っている。大杉事件に関する「他二人及び大杉君の事」は、いつも「大杉他二人殺害」と書かれたのに対する、山崎らしい皮肉だ。(2013年9月に書いた書評「山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』」参照。)
山崎今朝弥の、地震・憲兵・火事・巡査という言葉は、実に含蓄が深い。ある時代まで、軍隊や思想警察の恐ろしさは、戦争を経験した日本国民にとって「自明」のことだった。だから、僕も「民衆の戦争責任」などに関心を持ってきたんだけど、最近は若い世代に向けては「軍や警察がいばってた時代の恐ろしさ」を、きちんと伝えて行かなければいけないと思っている。
同時代的には、1927年の中国、蒋介石の上海クーデター後の共産党虐殺やイタリアのファシスト党の権力奪取があった。さらに遥か後には、1970年代のチリやアルゼンチンの軍事政権で起きた左翼運動家の大虐殺、あるいは1965年のインドネシアの「9・30事件」後の共産党大虐殺事件などと共通の問題性がある。今の日本でも、震災をきっかけに警察が警戒していた組織を「予防検束」する可能性はありうると考えていた方がいいのではないか。
亀戸事件とは、当時の東京府南葛飾郡亀戸町付近の労働運動家、社会主義者10人が亀戸警察署で虐殺された事件である。虐殺したのは、警察ではなく、近衛師団習志野騎兵連隊だった。遠くからきた軍隊に犠牲者の顔が判別できたはずがなく、亀戸警察の側で「指名虐殺」させたことは間違いない。研究が遅れて、一体何人殺されたのかもはっきりしなかったが、今は平澤計七(純労働者組合)、川合義虎(南葛労働会)ら10名が定説とされる。浄心寺(亀戸4丁目17-11)にある犠牲者追悼の碑には中筋宇八の名がない。9名しか刻銘されていない。
(犠牲者追悼碑)
平澤、川合の傾向はかなり違うが、日本史専攻者には名が知られている。今は他の犠牲者全員の名は書かないが、まだ出生地も誕生日も不明な人がいる。亀戸は秋葉原から千葉方面へ総武線で4駅目。駅の北側にあった亀戸警察も今はない。今はどこにもある「ちょっとした繁華街」だが、当時は大工業地帯で東洋モスリンなどの大会社があった。
当時の亀戸はまだ東京府南葛飾郡だった。「南葛」地域は最も戦闘的な労働運動の先端地になっていた。1923年のメーデーでは、南葛労働者と朝鮮人労働者との「連帯」も芽生えつつあった。「革命的労働運動」の「南葛魂」とまで言われたのである。川合義虎はまだ22歳ながら、日本共産青年同盟、つまりは後の「民青」の初代委員長となった人物だったのである。
亀戸警察は、数多く(数百人)の朝鮮人を収容して虐殺した。労働運動家も虐殺し、日本人自警団員数名も拉致して虐殺した。(この日本人虐殺の事情はよく判らない。)そういう事件が実際に起きたのだが、「震災の混乱」で、「朝鮮人と社会主義者」の暴動という「デマ」が飛び自警団による事件が起こった、「デマに惑わされてはいけない」という理解では明らかに不十分だ。川合たちの事件は、ねらいをつけた「公然たる国家テロ」と言うべきである。
前年の1922年に、日本共産党の結成が発覚して公判中だった。堺利彦、徳田球一、野坂参三ら日本の社会主義、共産主義史上の有名人は、震災時は市ヶ谷刑務所に拘束されていた。彼らは囚人大会を開き家族や家財が心配だから一時釈放せよと運動した。ここにも戒厳軍がやってきて身柄の引渡しを要求したが、刑務所長は要求に応じなかった。結果的に被告たちの生命が救われたのである。同じ事件で病気保釈中だった山川均も知人の家を渡り歩き、警察の手を逃れている。吉野作造など社会主義者以外でも狙われたらしい記録がある。
現実に起こった虐殺事件は大杉栄らと亀戸事件だけだった。震災が権力にとっても不意打ちだったからだ。歴史の可能性としては、もっと多数の社会主義者らの虐殺が起こっても不思議ではなかった。もっとも「天災を機に、戒厳令を敷き、一挙に社会主義者を抹殺する」というマニュアルが出来ていたと決めつけると言いすぎだろう。だが「ひとたび事(社会主義革命)が起こったら、皇室を守るため軍がカウンター・クーデターを起こす」という発想はあったと思う。すでに1922年にイタリアのムッソリーニは権力を奪取していた時代である。
震災時の虐殺事件では、大杉栄、伊藤野枝、および甥の橘宗一少年を甘粕憲兵大尉らが殺害した事件が一番知られているだろう。その事件については沢山の本があるのでここでは触れない。一般向けでは瀬戸内晴美(寂聴)の『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』や鎌田慧『自由への疾走』が判りやすい。いずれも岩波現代文庫に入っている。大杉栄と伊藤野枝という「素材」が抜群に面白い。亀戸事件では、加藤文三『亀戸事件』が最もまとまっている。
震災関係の虐殺が明るみに出たのは、僕の大好きな奇人弁護士、山崎今朝弥(やまざき・けさや)の尽力が大きい。山崎の『地震・憲兵・火事・巡査』は岩波文庫に入っている。大杉事件に関する「他二人及び大杉君の事」は、いつも「大杉他二人殺害」と書かれたのに対する、山崎らしい皮肉だ。(2013年9月に書いた書評「山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』」参照。)
山崎今朝弥の、地震・憲兵・火事・巡査という言葉は、実に含蓄が深い。ある時代まで、軍隊や思想警察の恐ろしさは、戦争を経験した日本国民にとって「自明」のことだった。だから、僕も「民衆の戦争責任」などに関心を持ってきたんだけど、最近は若い世代に向けては「軍や警察がいばってた時代の恐ろしさ」を、きちんと伝えて行かなければいけないと思っている。
同時代的には、1927年の中国、蒋介石の上海クーデター後の共産党虐殺やイタリアのファシスト党の権力奪取があった。さらに遥か後には、1970年代のチリやアルゼンチンの軍事政権で起きた左翼運動家の大虐殺、あるいは1965年のインドネシアの「9・30事件」後の共産党大虐殺事件などと共通の問題性がある。今の日本でも、震災をきっかけに警察が警戒していた組織を「予防検束」する可能性はありうると考えていた方がいいのではないか。