尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ワン・ボイス」政党でいいのか-「希望の党」に希望はあるか③

2017年09月29日 23時20分24秒 |  〃  (選挙)
 続けてどんどん書きたい。小池氏が言うには「選挙で仲間として戦えるかどうか、ワンボイスで戦えるかどうか。そこは重要な点だ」ということだ。この「ボイス」の対象は、「憲法観や安全保障政策の主張」だという話。じゃあ、原発政策や消費税なら党内に「アナザー・ボイス」があっても構わないのだろうか。そう言うと、憲法や安全保障政策は大事だろう、それが一致しない人が、そもそも同じ党を作る意味はあるのかと言われるかもしれない。

 僕も同じ内閣の中で憲法観が違うと言うんだったら問題だと思う。「閣内不一致」では政策を推進させられない。だけど、世の中に完全に同じ考えの人など、そうはいない。細かいことを言い出したら「一人一党」になってしまう。日本でも、世界でも、同じ政党と言えど、ずいぶん違う考えの人が一緒になっていたのではないか。それこそが「政党のダイナミックス」を生んできたのではないだろうか。

 30年ぐらい前の日本政治では、自民党にも社会党にも相当の幅があったと思う。自民党は一応改憲を掲げていたが、護憲を主張する人もいたし、外交や安保政策にも様々なスタンスの違いがあった。社会党も同じで、西欧の社民主義に近い人もいれば、マルクス主義に基づく革命を指向するグループもいた。そういう多様性が良かったというわけでもない。当時もそんなにバラバラでいいのかと言われていたと思うが、現実に多くの声が自社両党内から聞こえてきたものだ。

 しかし、当時も「ワンボイス」政党は存在した。共産党公明党である。「革命政党」(だったはず)の共産党は「民主集中制」で、党内で議論はしてもいったん決まれば一致して行動すると言っていた。確かに時々「除名」される人がいたから、党内で様々な対立はあったわけだが、反対派は存在することができない感じを受けた。公明党も宗教団体の創価学会を基盤にしているから、普通の意味での政治団体とは違っていて、党内で議論するより、上部団体の政治担当部署に見えていた。

 政治的立場は違うものの共産党と公明党は政界内で「孤立」していたが、最近はかなり違っているだろう。公明党は自民党と連立を組んで、もう20年近くなる。その前には93年の細川内閣に参加し、大臣も出した。共産党も他の野党との選挙共闘をするようになり、昔とだいぶ違っている。公明、共産とも、そういう路線をどう評価するかはいろんな立場があるだろうが、ただ共通しているのは「党内議論」が見えない。党内にも派閥などはないことになっていて、路線対立などないかの感じだ。

 でもどうなんだろう? 公明党内には「9条改正を掲げる安倍政権とずっと連立を組んでいてよいのか」という党内議論はないのだろうか。なければおかしいのではないだろうか。共産党も同様で、野党共闘路線や理論面の「柔軟路線」などに、党内で異論は出ないのか。本来は「革命政党」なんだから、喧々諤々の議論がないとおかしいのではないか。あるいは、それだったらいっそ「党名変更すべきだ」という党員はいないのか。そういう議論が外部に出てこない。

 このように考えると、僕は「ワンボイス政党」を評価する小池氏の考え方が判らないのである。小選挙区制に選挙制度が変わってから、自民党のワンボイス化が進行してきた。特に2005年の郵政解散以後、総裁の意向に従うのが正しいかのように思い込んでいる自民党員が多いんじゃないか。怖いのである。党内で異論を唱えれば、公認を失うこともあると思い知ったから。だから、安倍政権下でどんな強行的な政策が進められ、あるいはムチャな答弁をしても誰も反対しないようになってしまった。

 野党は強大な与党に対抗しなければいけない。「ワンボイス」では国民の声をすくう力が弱くなる。国民の安倍政権への考え方は多様だし、違和感を持つところも違うだろう。最大野党が「ワンボイス」では強大与党に対抗できなくなる。民主党が政権交代に成功したのも、党内では「鳩山、菅、小沢」のトロイカ体制を作り、さらに左には社民党、右には国民新党との連立政権という「多様な声を集める」ことに成功したからではないだろうか。

 もっともその後党内で様々な声が分裂の推進力になってしまった。小池氏がかつて所属した新進党も、党内がバラバラになって解体してしまった。そのような体験から、党内がバラバラでは勝てないと小池氏は思っているのかもしれない。だけど、政権取りには「連合戦線」を作ることが絶対条件である。安倍政権を上回るためには、「希望の党」にはあんな人もいる、こんな人もいるという姿を見せないといけないはずだ。相手の方が強いんだから、多くの人の力がいる。

 だが、小池氏が都議選当時代表を務めていた「都民ファーストの会」では、都議選以後誰もマスコミの取材に応じていない。小池氏は代表を辞任し、野田、荒木とすでに代表も3人目。その理由も判らないし、代表選のようなものもない。都議会では知事が素晴らしいというようなヨイショ質問しかしていない。どうなってるんだ。「ワンボイス」どころか「ノーボイス」である。市場移転問題では、決めた理由は記録に残さず、知事の専権、それを称して「AI」とまで言った。そういう人だから、クローンのような議員しかいらないのかもしれない。こんなんじゃ勝てない。都議選での勝利体験に寄りかかっているようではだめだと思う。それを直言できる人がいるのかどうか判らないけど。
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安保法制見直しは必須だー「希望の党」に希望はあるか②

2017年09月29日 21時06分46秒 |  〃  (選挙)
 菅官房長官は民進党と希望の党の候補者調整を「たった一夜にして、政策の協議がまったくない中でいつのまにか一つの政党になった。まさに選挙目当ての数合わせが進んでいる」と発言している。まさにその通りなんだけど、そのように突然の動きが起こったのは、国会の討論もなく突然に国会を解散するという「暴挙」を自分たちがやったからだ。安倍内閣が引き起こした出来事なのに、相手方だけを非難するというのはおかしなことだ。

 とは言うものの、確かに「選挙目当て」というしかない事態が進行しているのも間違いない。民進党を先に離党し希望の党立ち上げに参加した細野豪志氏は「新党の下では安全保障関連法に基づく集団的自衛権の行使を容認する考え」を表明している。希望の党の「新党では現実的に対応できる」とも言っている。これは新党の綱領の4にある「平和主義のもと、現実的な外交・安全保障政策を展開する」の「現実的」の意味内容なのだろうか。そうだとしたら、全くおかしい。

 安倍内閣の下で2015年に成立した「安保法制」によって、「集団的自衛権」が限定的に認められる事となった。それを認めることが「現実的」かどうかの問題以前に、集団的自衛権を憲法上行使できるのかという大問題があった。「できる」とするために、内閣法制局の人事に介入し、強引に解釈の変更を押し通した。そのやり方の強引さ、憲法無視の姿勢に多くの批判が集まった。当時の民主党も野党の中心として、反対の論陣を張っていたではないか。

 まあ、細野氏や前原氏、あるいは長島昭久氏や松原仁氏などはもともと民主党内の右派、防衛タカ派で知られていた。「安倍政権の進め方」への批判という一点で、党内の大勢に従って反対したものの、内心では中身には反対していなかったんだろう。そうじゃなければ、ここで突然「希望の党」に従って「集団的自衛権賛成」にならないだろう。でも、それでいいのか。

 いまの日本の安全保障環境をどう考えるか。とりあえず「北朝鮮情勢」が緊迫の度合いを強めていることは確かだろう。だからと言って、憲法改正を待たずして「解釈変更」で何でもできるというやり方は、認められるのか?「北朝鮮情勢」そのものも、冷静に分析してみる必要がある。日本が軍事的に「貢献」できることなど限られていて、戦争に巻き込まれる可能性を増大させるだけではないのか。「現実的」というなら、米軍追随的な現状こそ「現実的」に見直す必要がある。

 小池氏は当時は自民党議員で、安保法制に賛成した立場である。今さら見直すとは言えないかもしれない。だが、民進党議員は違う。当時は違憲論を主張し、国会内外で活動していた人がいっぱいいたではないか。憲法解釈に関して、これほど短期間に立場を変えるようでは、他の問題でも信用に関わるのではないか。安倍政権下でなされた多くの「悪法」の中でも、安保法制は違憲性が際立っている。これをなかったことにできるという人が、安倍政権打倒を言って何の意味があるか?

 もしかして選挙で多数を取ったとしても、「安倍なき安倍政治」が出現してしまうだけだ。国民はそういうものを求めているのか? 違憲性を払しょくできない安保法制を見直さない限り、憲法改正などを口にしても信用できない。「安倍政治を終わらせる」とは、中身だけでなく、手法においても、強引に進められた政策を見直すものでなければならない。安保法制を見直さないことを前提にする「希望の党」では、どこに「希望」があるんだろうか? 僕には理解できない。
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