大学入試のあり方が大きく変わる。その問題は折々に触れたこともあるけど、ここで何回か改めて考えてみたい。「北朝鮮問題」もまだ書きたいことがあるし、教育問題だったら「部活動のあり方」をいよいよ本格的に書かないといけないと思っている。しかし、その前にちょっと大学入試に関して。
細かい話をする前に、一番大きなことを書いておきたい。以前(2015.1.18)「究極の『大学入試全廃論』」という「夢想」のような「暴論」のようなものを書いたことがある。その時は自分でも「究極」と思っていたんだけど、だんだんマジメに大学入試をやめたらどうかという考えが強くなった。
ただし、その時に書いたのは「極論」である。例えば「東大に入りたい者は、ただ入学を希望すれば全員入れるようにする」というものだ。だけど、教室のキャパシティは一定の限度がある。必修の語学などを履修しようと思うと、希望が殺到する。その時は担当教員の責任で「受講生の選抜」を行えばいいというものである。だから学力がない者が東大に入っても、1単位も取れずに年月が過ぎ去っていくだけである。単位が取れないというか、そもそも授業に出られない。
今までの感覚だと、そんなバカな、入学したのに授業が取れないなんてということになる。今まではそんなことはありえない。一部の超有名人気ゼミなんかは別にして、必修の語学や体育なんかは全員が履修できるようになっていたはずだ。だけど、頭を切り替えて、完全に学生の自己責任と考える。「自己責任論」は今まで否定していたのではないかと言われるかもしれないけど、翌年にまた別の大学に無試験で入学できるんだから、それでいいだろう。
というようなことを書いたんだけど、もう少し実現可能にした方がいいと思ってきた。そのためには「4年制大学を前期、後期に分ける」というアイディアを持っている。そのことは次回に書くけど、今回書くのは「外部テストを参考にする」「高校卒業論文を大学入試の選抜に使う」ということである。つまり、「無試験化」ではあるが「一定の選抜」は避けられないだろうということだ。
いま、「高等教育の無償化」という議論が盛んに行われている。それは大事なことだけど、財源の問題もある。だが、とりあえずそれは何とかなったとして、「無償化」それだけでいいのだろうか。無償化、つまり大学の授業料がタダになるということで、普通に考えれば「多くの若者が高等教育を受けられるようになる。」そうなんだけど、実はそれだけではない。タダになれば、有名大学の難感度が今以上に高くなる。お金の問題で大都市を避けていた人も都会の難関校を目指すから。
今後「新テスト」が実施されるようになると、記述式問題を取り入れたり、英語で「書く、話す」能力を問うようになるということだ。それだけ考えると、「試験としては改善される」ように思う。だけど、「より良い試験方法」を求めても、それに対する「対策」が進んでしまう。特に英語の「書く、話す」能力などは自分ひとりで努力するだけではなかなか向上しない。受験対策にお金を掛けられる富裕層の子どもが圧倒的に有利になる。「教育の階層化」がますます進む。
記憶力を試すだけみたいな暗記問題は評判が悪い。だけど、そういう問題は誰でも時間をかけて努力すれば向上が見込める。だから、そういうテストの方が「教育の階層化を緩和する効果」があるとも言えるだろう。じゃあ、暗記テストで大学入試をすればいいかというと、それはそう思わない。高校以下の教育も、大学入試にならって「暗記力」化してしまい、多くの生徒がやる気を失う。
じゃあ、どうすればいいのか。思い切って「従来の意味での大学入試」をやめてしまえばいい。しかし、現実には「英語力」の学力格差は大きいだろう。高校の授業でいい成績を取っていても、学校間の学力差が大きいからそのままでは使えない。入学後の英語授業に付いていくためにはある程度の「英語力審査」は欠かせないのではないか。しかし、それは一点の差をつけるものではなく、「その大学が求める英語力の基準」を示すものでいい。外部テストを使うのもありだとは思うが、地方、特に離島の生徒が受験しにくい。学校で行う「到達度テスト」などは必要かと思う。
一方、英語以外に関しては、「論文」だけでいいんじゃないか。僕は高校でも「卒業論文」を必修にすればいいと思う。高校のカリキュラムを変えて、「総合学習」を「卒業論文」に変更する。それを12月までに書くことにし、1月に高校で審査し卒業が認定されたら、2月以後に大学での入学審査を行う。これは時間をかけて行えばよく、大学の新学期は5月の連休後でいいではないか。
もし大学入試というものが、これほど大きく変わったなら、高校以下の学校のあり方も大きく変わる。自分で考え、自分で学ぶ意欲を持つ生徒を育成することができるだろうか。日本の高校は、順位付けをなくしてしまって進路指導ができるか。教師の力量がそこで試される。塾や予備校も、大きく変わりつつも「大学選定助言機能」を持つ学校以外の機関はむしろ必要とされるだろう。
細かい話をする前に、一番大きなことを書いておきたい。以前(2015.1.18)「究極の『大学入試全廃論』」という「夢想」のような「暴論」のようなものを書いたことがある。その時は自分でも「究極」と思っていたんだけど、だんだんマジメに大学入試をやめたらどうかという考えが強くなった。
ただし、その時に書いたのは「極論」である。例えば「東大に入りたい者は、ただ入学を希望すれば全員入れるようにする」というものだ。だけど、教室のキャパシティは一定の限度がある。必修の語学などを履修しようと思うと、希望が殺到する。その時は担当教員の責任で「受講生の選抜」を行えばいいというものである。だから学力がない者が東大に入っても、1単位も取れずに年月が過ぎ去っていくだけである。単位が取れないというか、そもそも授業に出られない。
今までの感覚だと、そんなバカな、入学したのに授業が取れないなんてということになる。今まではそんなことはありえない。一部の超有名人気ゼミなんかは別にして、必修の語学や体育なんかは全員が履修できるようになっていたはずだ。だけど、頭を切り替えて、完全に学生の自己責任と考える。「自己責任論」は今まで否定していたのではないかと言われるかもしれないけど、翌年にまた別の大学に無試験で入学できるんだから、それでいいだろう。
というようなことを書いたんだけど、もう少し実現可能にした方がいいと思ってきた。そのためには「4年制大学を前期、後期に分ける」というアイディアを持っている。そのことは次回に書くけど、今回書くのは「外部テストを参考にする」「高校卒業論文を大学入試の選抜に使う」ということである。つまり、「無試験化」ではあるが「一定の選抜」は避けられないだろうということだ。
いま、「高等教育の無償化」という議論が盛んに行われている。それは大事なことだけど、財源の問題もある。だが、とりあえずそれは何とかなったとして、「無償化」それだけでいいのだろうか。無償化、つまり大学の授業料がタダになるということで、普通に考えれば「多くの若者が高等教育を受けられるようになる。」そうなんだけど、実はそれだけではない。タダになれば、有名大学の難感度が今以上に高くなる。お金の問題で大都市を避けていた人も都会の難関校を目指すから。
今後「新テスト」が実施されるようになると、記述式問題を取り入れたり、英語で「書く、話す」能力を問うようになるということだ。それだけ考えると、「試験としては改善される」ように思う。だけど、「より良い試験方法」を求めても、それに対する「対策」が進んでしまう。特に英語の「書く、話す」能力などは自分ひとりで努力するだけではなかなか向上しない。受験対策にお金を掛けられる富裕層の子どもが圧倒的に有利になる。「教育の階層化」がますます進む。
記憶力を試すだけみたいな暗記問題は評判が悪い。だけど、そういう問題は誰でも時間をかけて努力すれば向上が見込める。だから、そういうテストの方が「教育の階層化を緩和する効果」があるとも言えるだろう。じゃあ、暗記テストで大学入試をすればいいかというと、それはそう思わない。高校以下の教育も、大学入試にならって「暗記力」化してしまい、多くの生徒がやる気を失う。
じゃあ、どうすればいいのか。思い切って「従来の意味での大学入試」をやめてしまえばいい。しかし、現実には「英語力」の学力格差は大きいだろう。高校の授業でいい成績を取っていても、学校間の学力差が大きいからそのままでは使えない。入学後の英語授業に付いていくためにはある程度の「英語力審査」は欠かせないのではないか。しかし、それは一点の差をつけるものではなく、「その大学が求める英語力の基準」を示すものでいい。外部テストを使うのもありだとは思うが、地方、特に離島の生徒が受験しにくい。学校で行う「到達度テスト」などは必要かと思う。
一方、英語以外に関しては、「論文」だけでいいんじゃないか。僕は高校でも「卒業論文」を必修にすればいいと思う。高校のカリキュラムを変えて、「総合学習」を「卒業論文」に変更する。それを12月までに書くことにし、1月に高校で審査し卒業が認定されたら、2月以後に大学での入学審査を行う。これは時間をかけて行えばよく、大学の新学期は5月の連休後でいいではないか。
もし大学入試というものが、これほど大きく変わったなら、高校以下の学校のあり方も大きく変わる。自分で考え、自分で学ぶ意欲を持つ生徒を育成することができるだろうか。日本の高校は、順位付けをなくしてしまって進路指導ができるか。教師の力量がそこで試される。塾や予備校も、大きく変わりつつも「大学選定助言機能」を持つ学校以外の機関はむしろ必要とされるだろう。