是枝裕和(これえだ・ひろかず 1962~)監督・脚本の新作「三度目の殺人」。題名通り、殺人事件とその後の裁判を描き、それを通して「人間存在の不可思議」に目を凝らしている。今年屈指の力作だと思うが、なんかザラザラと残り続けるものもあり、大傑作と太鼓判を押せるかとためらう部分も…というような映画体験だ。拘置所での弁護士(福山雅治)と被告人(役所広司)の面会シーンが何回もあるが、すごい緊迫感。それだけでも見る価値がある。役所広司はやはり素晴らしい。
冒頭で役所広司(あとで三角高司という名前と判る)が誰かの頭を殴りつけている。寅さんシリーズのように、冒頭シーンは夢だというお約束の映画もあるけど、普通のリアリズム映画がほとんどの是枝作品だから、三角高司の「犯人性」は疑えないはずである。続いて、弁護士の重盛(福山雅治)が他の弁護士とともに三角の面会に行く。修習同期の摂津(吉田鋼太郎)が担当していたが、三角の供述がコロコロ変わるので、対応が難しいということで、重盛に手助けを頼んだのである。重盛は若いイソ弁の川島(満島真之介)を連れ、三人で面会に赴くわけである。
というあたりから、画面にはずっと強い緊迫感が漂い続け、一瞬も気が抜けない。だんだん判ってくるけれど、三角は過去にも殺人事件を起こしていて、その時の裁判長が重盛の父親(橋爪功)だった。北海道の留萌(るもい)の事件で、被害者二人の放火殺人だというから、死刑でもおかしくない。というか、多くの場合は死刑だろう。その時死刑にしていたら、今回の事件はなかったと裁判記録を持って上京した父親は言う。無期懲役で仮釈放中の強盗殺人ならば、今回は死刑不可避だろう。
ところで、被害者は誰かというと、被告を雇っていた食品会社の社長だという。三角はそこを解雇されたばかりだった。弁護士として検察に対抗するとすれば、「強盗殺人」を単なる「殺人」と「窃盗」にするしかないだろうと重盛は主張する。確かに社長の財布が狙いだったかには疑問もあった。刑事事件の弁護士は、検察主張のあらを探して少しでも被告人の刑を軽くするのが仕事。重盛はそう割り切っていて、三角にもそのような主張を法廷で通すのように求める。
こうして話は法廷へ移るかと思うと、二転三転、何が「真実」なのかという展開になっていく。週刊誌は「社長の妻に頼まれた保険金殺人」と書き立てる。その証拠と言えなくもない「謎のメール」も残っていた。一方、現場の河川敷へ行くと、そこに若い女性がいる。被害者の家を訪ねると、その女性は被害者の娘、山中咲江(広瀬すず)と判る。彼女の登場で、事件は全く新しい様相を見せるが…。
法廷ドラマだから、これ以上はここでは書かない。是枝監督はどんな題材を作っても安定した技量を発揮する段階になっている。最高傑作「誰も知らない」(2004)以後で見ると、「歩いても歩いても」(2008)、「そして父になる」(2013)、「海街diary」(2015)などがある。デビュー作「幻の光」(1995)には見られたぎこちなさはどこにもない。となると、後は好き嫌いや映画内の世界観の評価になる。
「空気人形」(2009)はファンであるぺ・ドゥナが出ている以外、どうにも面白くない。一方、「奇跡」(2011)は話は小さいけれど、気持ちいい出来栄え。前作「海よりもまだ深く」(2016)は実によく出来ているんだけど、阿部寛のだめ男ぶりがあそこまで徹底してると、どうにも見るのが辛くなってくる。福山雅治が出た「そして父になる」も映画の出来は確かに素晴らしいけど、じゃあ何なんだ的な気持ちも起きてしまって、僕はブログには書けなかった。傑作でもそういうことがある。
今回は弁護士の仕事を割り切って考えている重盛が、次第に事件の奥深さにのめり込むところが見どころだ。裁判は「一種のゲーム」であるのは間違いない。原告、被告双方の「証拠」をどう評価するべきかをめぐる「ゲーム」である。だが、「証拠」と言っても裁判官が「証拠採用」して初めて「証拠」になるわけで、客観的なすべての事実が法廷に出てくるわけではない。多くの冤罪事件では、「検察官が手元に無罪の証拠を隠し持っていた」というケースさえある。
それに「事実」をいくら積み上げても、それが「真実」になるかというとそこは判らない。「神の目」で見るようなことは人間にはできない。この映画では、ほぼすべてが重盛弁護士の行動を描写している。まあそれは福山雅治のスター性でもあるだろうけど。ところが、冒頭シーンや途中に出てくる「被害者家族の会話」のような、重盛が知るはずもないシーンがある。それなら、監督が「神」になって、すべてを観客に見せるタイプの映画かというと、それが違う。
どうもそのあたりが、この映画に残るザラザラ感、どう評価するべきか迷うところなのかもしれない。当初は被告人・三角が何を考えているのか判らず、実に不気味である。そして、「判らない」という点に関しては、最後の最後までよく判らない。だけど、「不気味さ」は次第に薄れてくる気がする。被害者家族の事情、ひたすら重刑を求める検察官、事件処理を急ぐ裁判官などを見ていくとも、同じく「不気味」というしかない気もしてくる。人間存在そのものが不気味なのか?
刑余者を雇用する「篤志家」と思われていた被害者の社長も、違う側面を持っていたようだ。だけど、殺していいのか。昔の事件も「動機」がよく判らなかったという。その事件で死刑だったら、その方が良かったのか。人間は変わり得るか。それともすべては運命なのか。三角は「刑務所内と違って、外は『見て見ぬふり』をしなくちゃいけないから辛い」と言う。この人は現世では生きがたい性を持っていたのだろう。この事件をめぐってどんどん深く考えるべきことが出てくる。そこが面白い。だけど、重いテーマではある。「重いから、面白い」。そして思う、この題名の意味は何だろう?
冒頭で役所広司(あとで三角高司という名前と判る)が誰かの頭を殴りつけている。寅さんシリーズのように、冒頭シーンは夢だというお約束の映画もあるけど、普通のリアリズム映画がほとんどの是枝作品だから、三角高司の「犯人性」は疑えないはずである。続いて、弁護士の重盛(福山雅治)が他の弁護士とともに三角の面会に行く。修習同期の摂津(吉田鋼太郎)が担当していたが、三角の供述がコロコロ変わるので、対応が難しいということで、重盛に手助けを頼んだのである。重盛は若いイソ弁の川島(満島真之介)を連れ、三人で面会に赴くわけである。
というあたりから、画面にはずっと強い緊迫感が漂い続け、一瞬も気が抜けない。だんだん判ってくるけれど、三角は過去にも殺人事件を起こしていて、その時の裁判長が重盛の父親(橋爪功)だった。北海道の留萌(るもい)の事件で、被害者二人の放火殺人だというから、死刑でもおかしくない。というか、多くの場合は死刑だろう。その時死刑にしていたら、今回の事件はなかったと裁判記録を持って上京した父親は言う。無期懲役で仮釈放中の強盗殺人ならば、今回は死刑不可避だろう。
ところで、被害者は誰かというと、被告を雇っていた食品会社の社長だという。三角はそこを解雇されたばかりだった。弁護士として検察に対抗するとすれば、「強盗殺人」を単なる「殺人」と「窃盗」にするしかないだろうと重盛は主張する。確かに社長の財布が狙いだったかには疑問もあった。刑事事件の弁護士は、検察主張のあらを探して少しでも被告人の刑を軽くするのが仕事。重盛はそう割り切っていて、三角にもそのような主張を法廷で通すのように求める。
こうして話は法廷へ移るかと思うと、二転三転、何が「真実」なのかという展開になっていく。週刊誌は「社長の妻に頼まれた保険金殺人」と書き立てる。その証拠と言えなくもない「謎のメール」も残っていた。一方、現場の河川敷へ行くと、そこに若い女性がいる。被害者の家を訪ねると、その女性は被害者の娘、山中咲江(広瀬すず)と判る。彼女の登場で、事件は全く新しい様相を見せるが…。
法廷ドラマだから、これ以上はここでは書かない。是枝監督はどんな題材を作っても安定した技量を発揮する段階になっている。最高傑作「誰も知らない」(2004)以後で見ると、「歩いても歩いても」(2008)、「そして父になる」(2013)、「海街diary」(2015)などがある。デビュー作「幻の光」(1995)には見られたぎこちなさはどこにもない。となると、後は好き嫌いや映画内の世界観の評価になる。
「空気人形」(2009)はファンであるぺ・ドゥナが出ている以外、どうにも面白くない。一方、「奇跡」(2011)は話は小さいけれど、気持ちいい出来栄え。前作「海よりもまだ深く」(2016)は実によく出来ているんだけど、阿部寛のだめ男ぶりがあそこまで徹底してると、どうにも見るのが辛くなってくる。福山雅治が出た「そして父になる」も映画の出来は確かに素晴らしいけど、じゃあ何なんだ的な気持ちも起きてしまって、僕はブログには書けなかった。傑作でもそういうことがある。
今回は弁護士の仕事を割り切って考えている重盛が、次第に事件の奥深さにのめり込むところが見どころだ。裁判は「一種のゲーム」であるのは間違いない。原告、被告双方の「証拠」をどう評価するべきかをめぐる「ゲーム」である。だが、「証拠」と言っても裁判官が「証拠採用」して初めて「証拠」になるわけで、客観的なすべての事実が法廷に出てくるわけではない。多くの冤罪事件では、「検察官が手元に無罪の証拠を隠し持っていた」というケースさえある。
それに「事実」をいくら積み上げても、それが「真実」になるかというとそこは判らない。「神の目」で見るようなことは人間にはできない。この映画では、ほぼすべてが重盛弁護士の行動を描写している。まあそれは福山雅治のスター性でもあるだろうけど。ところが、冒頭シーンや途中に出てくる「被害者家族の会話」のような、重盛が知るはずもないシーンがある。それなら、監督が「神」になって、すべてを観客に見せるタイプの映画かというと、それが違う。
どうもそのあたりが、この映画に残るザラザラ感、どう評価するべきか迷うところなのかもしれない。当初は被告人・三角が何を考えているのか判らず、実に不気味である。そして、「判らない」という点に関しては、最後の最後までよく判らない。だけど、「不気味さ」は次第に薄れてくる気がする。被害者家族の事情、ひたすら重刑を求める検察官、事件処理を急ぐ裁判官などを見ていくとも、同じく「不気味」というしかない気もしてくる。人間存在そのものが不気味なのか?
刑余者を雇用する「篤志家」と思われていた被害者の社長も、違う側面を持っていたようだ。だけど、殺していいのか。昔の事件も「動機」がよく判らなかったという。その事件で死刑だったら、その方が良かったのか。人間は変わり得るか。それともすべては運命なのか。三角は「刑務所内と違って、外は『見て見ぬふり』をしなくちゃいけないから辛い」と言う。この人は現世では生きがたい性を持っていたのだろう。この事件をめぐってどんどん深く考えるべきことが出てくる。そこが面白い。だけど、重いテーマではある。「重いから、面白い」。そして思う、この題名の意味は何だろう?