2021年3月の訃報の続きがある。李鶴来(イ・ハンネ)が3月28日に亡くなった。96歳だった。「在日韓国人元BC級戦犯」である。元戦犯に対する謝罪と補償を求める「同進会」を結成し、長く活動を続けた。その活動は今も実らずに継続して運動が続いている。1925年に全羅南道で生まれた。1942年、17歳の時に捕虜監視員としてタイに渡って「泰緬鉄道」建設現場に配属された。敗戦後に連合国から「捕虜虐待」の戦争犯罪者とされ、シンガポールの戦犯法廷で死刑判決を受けた。8ヶ月後に20年に減刑され、1951年に東京に移送され、56年まで拘束された。
(李鶴来)
この間1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で、朝鮮・台湾などの旧植民地出身者は「日本国籍を離脱した」とされた。その結果、日本の元軍人・軍属に支給された恩給・遺族年金が支給されなかった。李らは差別的な扱いに屈せず、出所後の生活保障を求めたのである。生きるためにタクシー会社を設立しながら運動を続けたが、結局日本政府は「日韓条約で解決済み」として認めていない。「特別給付金」を支給する法案があるが未成立のままである。
李鶴来の人生は国家間の狭間で苦しんだ一生だった。韓国では「戦犯」は長く「親日」ととらえられ、救済の対象と考えられなかった。名誉回復されたのは21世になってからだった。そもそも10代の少年に「戦争犯罪」があるわけがない。日本軍の上官の命令に逆らえるはずがない。「泰緬(たいめん)鉄道」(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)では国際法に違反した捕虜虐待があったことは間違いないが、その責任は末端の監視員ではなく命令者が負うべきものだ。そのようなB級戦犯そのものの問題もあるが、日本政府の対応は理解出来ない。
李鶴来が大日本帝国と雇用関係にあったことは間違いない。その法的な関係は、大日本帝国を引き継ぐ日本国政府に継続するはずだ。国家間の「請求権」は国家間の協定で決められるが、個人との雇用関係の過去は消えない。イギリスやフランス、イタリア、ドイツなどでも植民地出身の軍人・軍属がたくさんいたが、独立したから補償しないなんて国はない。旧軍と雇用関係があったものは年金が出ている。何故ということを問う必要もない「当然の法理」だと思うけれど。「日本国」の持っている排外性と冷酷さを感じざるを得ない。
大石又七が3月7日に死去した。87歳。「第五福竜丸」の被爆者として、反核の証言を続けた。静岡県に生まれ、中学を中退して漁師となった。1954年3月1日に、当時アメリカの信託統治領だったマーシャル諸島のビキニ環礁で行われた水爆「ブラボー」実験で「死の灰」を浴びる被害を受けた。アメリカ軍の装幀を超えた爆発となり、想定を超えた大きな被害を出したのである。(ロンゲラップ環礁では2万人が被爆し、爆発実験があった島は消滅した。)160キロ離れた場所にいた第五福竜丸船員23名も被爆し、大石も1年2ヶ月の入院を余儀なくされた。
(大石又七、第五福竜丸を背にして)
故郷での無理解を避け、1955年に東京に出て2010年までクリーニング店を営んでいた。被爆については長く語らなかったが、多くの仲間がガンなどで死亡する中で、1983年に都内で中学生向けに初めて証言を行った。その後積極的に活動を続け、マーシャル諸島や国連本部も訪れた。核兵器廃絶に止まらず、放射線被害という意味で原発事故も同じだと語っている。第五福竜丸船員として、ただ一人証言活動を続けた人だった。
沖縄県名護市にある国立ハンセン病療養所「愛楽園」自治会長、金城雅春(きんじょう・まさはる)が8日死去。67歳。ハンセン病国賠訴訟の愛楽園原告団長を務めた。石垣島で小中学校を出て、高校在学中に発病し1980年に入園した。23年間自治会長を務め、ハンセン病の啓発活動にも積極的に活動した。

この間1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で、朝鮮・台湾などの旧植民地出身者は「日本国籍を離脱した」とされた。その結果、日本の元軍人・軍属に支給された恩給・遺族年金が支給されなかった。李らは差別的な扱いに屈せず、出所後の生活保障を求めたのである。生きるためにタクシー会社を設立しながら運動を続けたが、結局日本政府は「日韓条約で解決済み」として認めていない。「特別給付金」を支給する法案があるが未成立のままである。
李鶴来の人生は国家間の狭間で苦しんだ一生だった。韓国では「戦犯」は長く「親日」ととらえられ、救済の対象と考えられなかった。名誉回復されたのは21世になってからだった。そもそも10代の少年に「戦争犯罪」があるわけがない。日本軍の上官の命令に逆らえるはずがない。「泰緬(たいめん)鉄道」(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)では国際法に違反した捕虜虐待があったことは間違いないが、その責任は末端の監視員ではなく命令者が負うべきものだ。そのようなB級戦犯そのものの問題もあるが、日本政府の対応は理解出来ない。
李鶴来が大日本帝国と雇用関係にあったことは間違いない。その法的な関係は、大日本帝国を引き継ぐ日本国政府に継続するはずだ。国家間の「請求権」は国家間の協定で決められるが、個人との雇用関係の過去は消えない。イギリスやフランス、イタリア、ドイツなどでも植民地出身の軍人・軍属がたくさんいたが、独立したから補償しないなんて国はない。旧軍と雇用関係があったものは年金が出ている。何故ということを問う必要もない「当然の法理」だと思うけれど。「日本国」の持っている排外性と冷酷さを感じざるを得ない。
大石又七が3月7日に死去した。87歳。「第五福竜丸」の被爆者として、反核の証言を続けた。静岡県に生まれ、中学を中退して漁師となった。1954年3月1日に、当時アメリカの信託統治領だったマーシャル諸島のビキニ環礁で行われた水爆「ブラボー」実験で「死の灰」を浴びる被害を受けた。アメリカ軍の装幀を超えた爆発となり、想定を超えた大きな被害を出したのである。(ロンゲラップ環礁では2万人が被爆し、爆発実験があった島は消滅した。)160キロ離れた場所にいた第五福竜丸船員23名も被爆し、大石も1年2ヶ月の入院を余儀なくされた。

故郷での無理解を避け、1955年に東京に出て2010年までクリーニング店を営んでいた。被爆については長く語らなかったが、多くの仲間がガンなどで死亡する中で、1983年に都内で中学生向けに初めて証言を行った。その後積極的に活動を続け、マーシャル諸島や国連本部も訪れた。核兵器廃絶に止まらず、放射線被害という意味で原発事故も同じだと語っている。第五福竜丸船員として、ただ一人証言活動を続けた人だった。
沖縄県名護市にある国立ハンセン病療養所「愛楽園」自治会長、金城雅春(きんじょう・まさはる)が8日死去。67歳。ハンセン病国賠訴訟の愛楽園原告団長を務めた。石垣島で小中学校を出て、高校在学中に発病し1980年に入園した。23年間自治会長を務め、ハンセン病の啓発活動にも積極的に活動した。