「僕が跳びはねる理由」(The Reason I Jump)という映画が公開されている。題名を聞いて判る人は原作を知っている人だろう。これは13歳の日本人少年東田直樹が書いた「自閉症の僕が跳びはねる理由」(角川文庫)にインスパイアされて作られたドキュメンタリー映画である。文部科学省特別選定(青年、成人、家庭向き)など様々なお役所が推薦しているが、全く客がいない。日曜に見たのに、午後の回がガラガラだった。まあ、確かに普通の意味で「面白い」映画ではない。でも発達障害、特に「自閉症」を知り学ぶためには必須の映画だ。
原作を英訳して世界に広めたのは、デイヴィッド・ミッチェル(1969~)という人だ。僕も知らなかったけれど、この人は世界的なベストセラー作家で、「ナンバー9ドリーム」、「クラウドアトラス」(映画化)、「出島の千の秋」など邦訳も多い。最後の作品は江戸時代の長崎が舞台である。英国出身の著者は日本で英語講師を長く経験し、日本語も堪能。夫人は日本人で、二人の子どものうち一人が自閉症だった。そのため我が子を理解するために読んで、翻訳もした。
(デイヴィッド・ミッチェル)
デイヴィッド・ミッチェルは映画にも出ている。翻訳された「The Reason I Jump: One Boy's Voice from the Silence of Autism」が評判を呼び、自閉症の子を持つプロデューサーが注目した。そして記録映画を作ってきたジェリー・ロスウェルを監督に迎え、世界各国でロケをしてこの映画が作られた。インドやアフリカ(シエラレオネ)などの状況はあまりにもひどい。アフリカでは親も子も「悪魔に取り憑かれている」と今でも避けられる。イギリスや日本ではそこまで排斥はされないかもしれないが、多くの人に理解されず学校でいじめられることも多い。そんな「自閉症」の子どもたちの心をこれほど描き出した映画はないだろう。
「心」などないと思われていた彼らも、文字盤を与えられると雄弁に語り出す。時間もかかるし、世界の見え方とらえ方も異なっているけれど。英語は文字数が少ないので、文字盤を指で指す「やさしい英語」の有用性は高い。「みんなは物を見るときまずは全体を見てから部分を見ていると思う。僕の場合はまず部分が飛び込んでくる。」というのは非常に象徴的だ。「みんなの記憶はたぶん線のように続いている。でも僕の記憶は点の集まり。その全部がバラバラでつながらない。」「みんなはすごいスピードで話す。頭で考えた言葉が口から出るまでがほんの一瞬だ。不思議でたまらない。僕には知らない外国語で会話するような毎日なのに。」
映画だって「見る者が判りやすいように描く」のが「普通」だ。「全体」を映し出して、それがどこだか示した後に主人公にズームアップするなど。しかし「自閉症」の場合は、まず「部分」に反応してしまう。この映画でも、全体が何だか判らないうちにクローズアップが続いたりする。だから判りにくい感じもあるのだが、それもこの映画の特徴である。「お勉強」的な関心がないと辛いかもしれない。でも非常に興味深い映画だ。やはり映画ファンというより、自閉症を学びたいという親や教育、福祉などの関係者向きかと思う。
学校現場では「発達障害」の研修が遅れている。僕も不登校生徒向けの学校に勤務して初めて知ったことが多い。そう言えば昔接した生徒にもいたなあとさかのぼって納得したことも多い。最近読んだ「教員という仕事」(朝日新書)でも、発達障害の研修を望む声が聞かれた。まだまだ遅れているのである。映画でいえば「レインマン」のダスティン・ホフマンが典型的な自閉症だ。その他、「学習障害」「多動性障害」について理解をすることは教育、福祉関係者に必須だ。
原作を英訳して世界に広めたのは、デイヴィッド・ミッチェル(1969~)という人だ。僕も知らなかったけれど、この人は世界的なベストセラー作家で、「ナンバー9ドリーム」、「クラウドアトラス」(映画化)、「出島の千の秋」など邦訳も多い。最後の作品は江戸時代の長崎が舞台である。英国出身の著者は日本で英語講師を長く経験し、日本語も堪能。夫人は日本人で、二人の子どものうち一人が自閉症だった。そのため我が子を理解するために読んで、翻訳もした。
(デイヴィッド・ミッチェル)
デイヴィッド・ミッチェルは映画にも出ている。翻訳された「The Reason I Jump: One Boy's Voice from the Silence of Autism」が評判を呼び、自閉症の子を持つプロデューサーが注目した。そして記録映画を作ってきたジェリー・ロスウェルを監督に迎え、世界各国でロケをしてこの映画が作られた。インドやアフリカ(シエラレオネ)などの状況はあまりにもひどい。アフリカでは親も子も「悪魔に取り憑かれている」と今でも避けられる。イギリスや日本ではそこまで排斥はされないかもしれないが、多くの人に理解されず学校でいじめられることも多い。そんな「自閉症」の子どもたちの心をこれほど描き出した映画はないだろう。
「心」などないと思われていた彼らも、文字盤を与えられると雄弁に語り出す。時間もかかるし、世界の見え方とらえ方も異なっているけれど。英語は文字数が少ないので、文字盤を指で指す「やさしい英語」の有用性は高い。「みんなは物を見るときまずは全体を見てから部分を見ていると思う。僕の場合はまず部分が飛び込んでくる。」というのは非常に象徴的だ。「みんなの記憶はたぶん線のように続いている。でも僕の記憶は点の集まり。その全部がバラバラでつながらない。」「みんなはすごいスピードで話す。頭で考えた言葉が口から出るまでがほんの一瞬だ。不思議でたまらない。僕には知らない外国語で会話するような毎日なのに。」
映画だって「見る者が判りやすいように描く」のが「普通」だ。「全体」を映し出して、それがどこだか示した後に主人公にズームアップするなど。しかし「自閉症」の場合は、まず「部分」に反応してしまう。この映画でも、全体が何だか判らないうちにクローズアップが続いたりする。だから判りにくい感じもあるのだが、それもこの映画の特徴である。「お勉強」的な関心がないと辛いかもしれない。でも非常に興味深い映画だ。やはり映画ファンというより、自閉症を学びたいという親や教育、福祉などの関係者向きかと思う。
学校現場では「発達障害」の研修が遅れている。僕も不登校生徒向けの学校に勤務して初めて知ったことが多い。そう言えば昔接した生徒にもいたなあとさかのぼって納得したことも多い。最近読んだ「教員という仕事」(朝日新書)でも、発達障害の研修を望む声が聞かれた。まだまだ遅れているのである。映画でいえば「レインマン」のダスティン・ホフマンが典型的な自閉症だ。その他、「学習障害」「多動性障害」について理解をすることは教育、福祉関係者に必須だ。