東京新聞日曜の「時代を読む」というコラムに、宇野重規氏が「官僚の変化に潜むもの」という文を書いている。(2020年4月25日)宇野氏は東大教授の政治学者で、というよりも例の学術会議会員任命拒否問題の人という方が今は通りがいいかもしれない。提出法案にミスが相次いだという話から始まって、「正誤表にまで間違いがあったというから、もはや笑い話にもならない。何か異常な事態が政府の中で起きているのではないか。」と述べる。
そして国家公務員の志願者数の減少を取り上げる。「2021年度の採用試験で、中央省庁の幹部候補となる総合職の申込者は前年度と比べて14.5%も減少した。総合職試験を導入して以降で最少であり、しかも減少は5年続きで、減少率も過去最大である。」20代の総合職の自己都合退職(19年度)も13年度に比べて4倍になっているという。
(総合職志願者の減少傾向)
そのことには菅内閣の国家公務員制度担当である河野太郎国務相も問題意識を持っているようだ。霞ヶ関の長時間労働を何とかしないと語っている。しかし、与党側から言い出すときは、大抵は野党の質問通告が遅いとかいう話が出て来る。しかし、宇野氏の問題意識は全然違う点に向かう。現在の若手や中堅の官僚は「多くは非常に真面目で、職務にもきわめて忠実」だという。過去には「自分は国の国を動かしている」という国士タイプが多かったが、今は「上からの指示待ちタイプが増えた」というのである。
「官僚のハードワーク自体は新しい話ではない。」「何か構造的な問題が起きているはずである。」それを以下のように論じていく。90年代の政治改革の結果、「政治の優位」の名の下、政治家による官僚への統制が強化された。その目的は、国民の民意を受けた政策の実現であり、政策決定過程の透明化のはずだった。ところがいつか、政治家が人事権をてこに官僚支配を強化し、結果として「政治家の優位」が自己目的化したように思えてならない。
「政治の優位」と「政治家の優位」は「似て非なるもの」だという。そして結論的に「大切なのは『官僚が奉仕するのは国民』という原則の確認である。」と述べている。ここで書かれていることは非常に大切だと思う。中央省庁の官僚たちが辞めたり、志願者が減っているのは、単に長時間労働のためではないのである。「国家国民のために働く」はずの公務員が、「政権の権力維持のために働かされる」。そのために「忖度」したり「記憶喪失」になる。そんな姿を見せられたら志願者が減るのも当然だろう。
ここで中央官僚の問題を取り上げたのは、最近教員採用試験の志願者も減っていると報道されているからだ。問題の性質は全く同じではないかと思う。単に長時間労働が敬遠されたということだけではないだろう。中央省庁のキャリア官僚に合格できる人は、民間企業や大学等の研究職でも活躍できる人材が多いはずだ。公務員になる以上、民間ほどの経済的待遇は望めない。それでも希望する人がいるのは、それが「公務」だということが魅力なのである。
(教員採用試験の志願者減少傾向)
上のグラフで明らかなように、教員採用試験の志願者減少も続いている。これは採用数の問題もあるが、それだけではないだろう。この問題については、過去に「教員の「なり手不足」問題」(2019.10.14)という記事を書いている。内容が重複するところがあるが、大事なことだから再び書いておきたい。マスコミでこの問題が報じられるときは、大体は「学校はブラック企業」といった報じられ方が多い。(ところで「ブラック企業」という表現に代わる言葉をそろそろ考えるべきだろう。「白黒」だけではなく、「紅白」も問題だ。)
自分が都立高校に通っていたときは、教師を見てこの職場なら働いてみたいと思わせるものがあった。そのようなものは、学校に勤め始めた初期の頃にはかなり残っていた。しかし、次第になくなっていった。単に勤務時間が長いということではなく、職の尊厳を奪うような政策がどんどん進められた。それでは面白くないだろうし、辞める人も増え、なりたい人も減る。それは当然だろう。しかし、それは「結果として」起こったことではない。
自民党政権の公務員政策が「成功」したということなのである。「公務員」の「公」性を剥ぎ取り、政策の「手駒」にするというのが目的そのものだった。総務省で起こったようなことが、学校でも起きていて、「人事権」をてこに文科省や教育委員会の教育政策に不適合な教員は不遇な異動を受けていく。そんなことが20年も続くと、若い世代では当たり前になってしまい、抗議するというメンタリティも奪われる。中央省庁の官僚や学校の教員なら、それなりの職場である。ただ言われるままに「過労死」するまで働くなどあり得ないはずなのだが、現にそんなことが起こっている。
そして国家公務員の志願者数の減少を取り上げる。「2021年度の採用試験で、中央省庁の幹部候補となる総合職の申込者は前年度と比べて14.5%も減少した。総合職試験を導入して以降で最少であり、しかも減少は5年続きで、減少率も過去最大である。」20代の総合職の自己都合退職(19年度)も13年度に比べて4倍になっているという。
(総合職志願者の減少傾向)
そのことには菅内閣の国家公務員制度担当である河野太郎国務相も問題意識を持っているようだ。霞ヶ関の長時間労働を何とかしないと語っている。しかし、与党側から言い出すときは、大抵は野党の質問通告が遅いとかいう話が出て来る。しかし、宇野氏の問題意識は全然違う点に向かう。現在の若手や中堅の官僚は「多くは非常に真面目で、職務にもきわめて忠実」だという。過去には「自分は国の国を動かしている」という国士タイプが多かったが、今は「上からの指示待ちタイプが増えた」というのである。
「官僚のハードワーク自体は新しい話ではない。」「何か構造的な問題が起きているはずである。」それを以下のように論じていく。90年代の政治改革の結果、「政治の優位」の名の下、政治家による官僚への統制が強化された。その目的は、国民の民意を受けた政策の実現であり、政策決定過程の透明化のはずだった。ところがいつか、政治家が人事権をてこに官僚支配を強化し、結果として「政治家の優位」が自己目的化したように思えてならない。
「政治の優位」と「政治家の優位」は「似て非なるもの」だという。そして結論的に「大切なのは『官僚が奉仕するのは国民』という原則の確認である。」と述べている。ここで書かれていることは非常に大切だと思う。中央省庁の官僚たちが辞めたり、志願者が減っているのは、単に長時間労働のためではないのである。「国家国民のために働く」はずの公務員が、「政権の権力維持のために働かされる」。そのために「忖度」したり「記憶喪失」になる。そんな姿を見せられたら志願者が減るのも当然だろう。
ここで中央官僚の問題を取り上げたのは、最近教員採用試験の志願者も減っていると報道されているからだ。問題の性質は全く同じではないかと思う。単に長時間労働が敬遠されたということだけではないだろう。中央省庁のキャリア官僚に合格できる人は、民間企業や大学等の研究職でも活躍できる人材が多いはずだ。公務員になる以上、民間ほどの経済的待遇は望めない。それでも希望する人がいるのは、それが「公務」だということが魅力なのである。
(教員採用試験の志願者減少傾向)
上のグラフで明らかなように、教員採用試験の志願者減少も続いている。これは採用数の問題もあるが、それだけではないだろう。この問題については、過去に「教員の「なり手不足」問題」(2019.10.14)という記事を書いている。内容が重複するところがあるが、大事なことだから再び書いておきたい。マスコミでこの問題が報じられるときは、大体は「学校はブラック企業」といった報じられ方が多い。(ところで「ブラック企業」という表現に代わる言葉をそろそろ考えるべきだろう。「白黒」だけではなく、「紅白」も問題だ。)
自分が都立高校に通っていたときは、教師を見てこの職場なら働いてみたいと思わせるものがあった。そのようなものは、学校に勤め始めた初期の頃にはかなり残っていた。しかし、次第になくなっていった。単に勤務時間が長いということではなく、職の尊厳を奪うような政策がどんどん進められた。それでは面白くないだろうし、辞める人も増え、なりたい人も減る。それは当然だろう。しかし、それは「結果として」起こったことではない。
自民党政権の公務員政策が「成功」したということなのである。「公務員」の「公」性を剥ぎ取り、政策の「手駒」にするというのが目的そのものだった。総務省で起こったようなことが、学校でも起きていて、「人事権」をてこに文科省や教育委員会の教育政策に不適合な教員は不遇な異動を受けていく。そんなことが20年も続くと、若い世代では当たり前になってしまい、抗議するというメンタリティも奪われる。中央省庁の官僚や学校の教員なら、それなりの職場である。ただ言われるままに「過労死」するまで働くなどあり得ないはずなのだが、現にそんなことが起こっている。