朝刊を見たら、劇作家の清水邦夫の訃報が載っていた。2021年4月15日死去、84歳。死因は老衰と報道されている。妻の松本典子は2014年3月に死去している。妻に先立たれて7年というのは、長生きしたというべきかもしれない。昨夜からパソコン、スマホ、テレビなどでニュースを見ていたが、清水邦夫の訃報には気付かなかった。やはり新聞という媒体は必要なのである。
(清水邦夫)
東京新聞から引用すると、「若者の苦悩やいら立ちを詩的なせりふで描いて人気を集めた劇作家」とある。「早稲田大在学中に書いた戯曲「署名人」で注目され、劇作の道へ進んだ。一九六〇年代後半から七〇年代初めにかけて、東京・新宿の映画館を拠点に演出家蜷川幸雄さんとのコンビで活動。「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」など、若者の政治的挫折に伴う心情を描いた作品を発表し、全共闘世代の熱狂的な支持を得た。」
まあそういうことになるけれど、「署名人」から「真情あふるる軽薄さ」の間がある。まず卒業後は1965年にフリーとなるまで岩波映画に所属した。岩波出身の映画監督、羽仁進の「充たされた生活」(1962)「彼女と彼」(1963)の脚本を手掛けている。ドキュメンタリー的な手法も使って、現代日本を鋭く切り取った意欲作だ。先の話を書いておくと、脚本では黒木和雄監督の傑作「竜馬暗殺」の共同脚本(田辺泰志と)の素晴らしい独創性も忘れられない。
戯曲では1969年3月に俳優座で上演された「狂人なおもて往生をとぐ」がある。僕は劇評を新聞で読んで、とても面白そうだと感じた。中学生の時だから、実際に見に行ったりはしない。それでも劇評を読んでいたのである。だから1970年1月に出た戯曲集を買っている(中央公論社)。表題作はすぐに読んで、とても面白かった。まだ題名が歎異抄のパロディだとも判らない頃だ。「六全協から中ソ論争。そして七〇年へ。政治の季節を生きる真情あふるる若者たちの魂の受難を描いて、充足することのない戦後世代に青春を表象する代表作三篇」と帯にある。
(「狂人なおもて往生をとぐ」)
同書には「署名人」と「真情あふるる軽薄さ」が収録されている。後者の「真情あふるる軽薄さ」こそ、映画館新宿文化で行われた清水邦夫+蜷川幸雄の「アートシアター演劇公演」だった。演出蜷川幸雄、出演岡田英次、石橋蓮司、蟹江敬三など。映画上映終了後の午後10時から行われた公演だから、もちろん僕が行けるわけない。1969年9月10日から22日に上演され大評判となった。終幕に機動隊役が乱入する演出に騒然となったという。
(葛井欽志郞「遺書」)
新宿文化の伝説的支配人だった葛井欽志郞の「遺書」という本がある(河出書房、2008)。これは60年代末から70年代にかけての映画、演劇界の興味深い話が詰まった実に面白いインタビュー集である。この本を読むと、蜷川幸雄が企画を持ち込んだ時の話が出ている。その前から演劇公演を時々行っていたが、寺山修司や三島由紀夫、別役実、エドワード・オルビー、ベケットなどの魅力的なラインナップになっている。
清水・蜷川コンビの作品は「想い出の日本一萬年」(1970.9.10~26)、「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」(1971.10.6~19)、「ぼくらが非情の大河をくだる時」(1972.10.6~21)、「泣かないのか、泣かないのか、一九七三年のために」(1973.10.12~27)と毎年秋に5年続いて伝説となった。今上演日などは、先の「遺書」にあるリストに基づいて書いている。ここには映画や演劇の全記録が載っている。ちなみに料金も出ていて、最初は400円、600円が2年、700円が2回だった。
(「想い出の日本一萬年」)
「ぼくらが非情の大河をくだる時」は劇作家の登竜門である岸田國士戯曲賞を1974年に受賞した。70年代に入ってから、唐十郎、佐藤信、井上ひさしがすでに受賞していて、遅すぎた受賞だろう。「熱海殺人事件」のつかこうへいと同時受賞だった。僕は受賞作が載った雑誌「新劇」を買って読んだ記憶がある。すでに新しい演劇ブームを起こしていた「熱海殺人事件」ではなく、僕は敗北の抒情を冷え冷えと描き出す「ぼくらが非情の大河をくだる時」に強く惹かれた。
(「ぼくらが非情の大河をくだる時」)
帯を引用すると「愛もなく夢もなく、希望もなく……〈闘い〉に敗れ挫折した青春の魂はどこへいく。夜の街角へ、公衆便所の暗闇へ、虚空の彼方へ、冷えきった若者たちの新宿への愛と別離を、幻想と残酷のリズムに描く。」僕はもともとそういう世界が好きなのである。この作品世界が70年前後の「革命」の挫折を受けているのは言うまでもない。しかし、世界全体がこの先どうなるんだろうという時代だった。73年の「オイルショック」を受け、日本では「破滅論」ブームが起きた。そんな時に書かれた「泣かないのか、泣かないのか、一九七三年のために」は、大学受験を控えた僕の気分そのものを表わしている感じがしたものだ。
その前に1971年に「あらかじめ失われた恋人たちよ」という映画を作っている。清水邦夫、田原総一郎の共同脚本、共同監督ということになっている。東京12チャンネル〈テレビ東京〉のディレクターだった田原を監督に起用した理由は、先の葛井「遺書」で触れられている。清水、田原どちらにもただ一本の映画監督である。北陸の海岸を男二人、女一人でさすらう。一人の男は唖で加納典明。もう一人は石橋蓮司だが、女は新人の桃井かおりが抜てきされた。この奇跡のようなキャストで描かれた白黒映画で、何といっていいのか判らないけれど魅力的だった。記録的な不入りだったそうだが、僕は翌年に文芸地下で見た。数年前に再見して、成功作とは言えないが魅力はあると思った。「メリー・ジェーン」の曲を知った映画。
1978年に「木冬社」を作って、旺盛な執筆活動を開始する。「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(1982)、「タンゴ、冬の終わりに」(1984)などが代表作とされる。また1977年の「楽屋」(1977)は累計上演回数日本一とウィキペディアに出ている。しかし、僕は読んでる割には見ていない。80年代は仕事で忙しく、小説や映画でも落としているものが多い。映画は後から見られるが、演劇では再演があっても時代感覚がズレることが多い。蜷川とのコンビも80年代に復活したが、ほとんど見ていない。若い頃に読んだ抒情的な劇世界が僕にとっての清水邦夫。井上ひさし、別役実に続き、清水邦夫も亡くなり、一つの時代が終わった感じがする。

東京新聞から引用すると、「若者の苦悩やいら立ちを詩的なせりふで描いて人気を集めた劇作家」とある。「早稲田大在学中に書いた戯曲「署名人」で注目され、劇作の道へ進んだ。一九六〇年代後半から七〇年代初めにかけて、東京・新宿の映画館を拠点に演出家蜷川幸雄さんとのコンビで活動。「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」など、若者の政治的挫折に伴う心情を描いた作品を発表し、全共闘世代の熱狂的な支持を得た。」
まあそういうことになるけれど、「署名人」から「真情あふるる軽薄さ」の間がある。まず卒業後は1965年にフリーとなるまで岩波映画に所属した。岩波出身の映画監督、羽仁進の「充たされた生活」(1962)「彼女と彼」(1963)の脚本を手掛けている。ドキュメンタリー的な手法も使って、現代日本を鋭く切り取った意欲作だ。先の話を書いておくと、脚本では黒木和雄監督の傑作「竜馬暗殺」の共同脚本(田辺泰志と)の素晴らしい独創性も忘れられない。
戯曲では1969年3月に俳優座で上演された「狂人なおもて往生をとぐ」がある。僕は劇評を新聞で読んで、とても面白そうだと感じた。中学生の時だから、実際に見に行ったりはしない。それでも劇評を読んでいたのである。だから1970年1月に出た戯曲集を買っている(中央公論社)。表題作はすぐに読んで、とても面白かった。まだ題名が歎異抄のパロディだとも判らない頃だ。「六全協から中ソ論争。そして七〇年へ。政治の季節を生きる真情あふるる若者たちの魂の受難を描いて、充足することのない戦後世代に青春を表象する代表作三篇」と帯にある。

同書には「署名人」と「真情あふるる軽薄さ」が収録されている。後者の「真情あふるる軽薄さ」こそ、映画館新宿文化で行われた清水邦夫+蜷川幸雄の「アートシアター演劇公演」だった。演出蜷川幸雄、出演岡田英次、石橋蓮司、蟹江敬三など。映画上映終了後の午後10時から行われた公演だから、もちろん僕が行けるわけない。1969年9月10日から22日に上演され大評判となった。終幕に機動隊役が乱入する演出に騒然となったという。

新宿文化の伝説的支配人だった葛井欽志郞の「遺書」という本がある(河出書房、2008)。これは60年代末から70年代にかけての映画、演劇界の興味深い話が詰まった実に面白いインタビュー集である。この本を読むと、蜷川幸雄が企画を持ち込んだ時の話が出ている。その前から演劇公演を時々行っていたが、寺山修司や三島由紀夫、別役実、エドワード・オルビー、ベケットなどの魅力的なラインナップになっている。
清水・蜷川コンビの作品は「想い出の日本一萬年」(1970.9.10~26)、「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」(1971.10.6~19)、「ぼくらが非情の大河をくだる時」(1972.10.6~21)、「泣かないのか、泣かないのか、一九七三年のために」(1973.10.12~27)と毎年秋に5年続いて伝説となった。今上演日などは、先の「遺書」にあるリストに基づいて書いている。ここには映画や演劇の全記録が載っている。ちなみに料金も出ていて、最初は400円、600円が2年、700円が2回だった。

「ぼくらが非情の大河をくだる時」は劇作家の登竜門である岸田國士戯曲賞を1974年に受賞した。70年代に入ってから、唐十郎、佐藤信、井上ひさしがすでに受賞していて、遅すぎた受賞だろう。「熱海殺人事件」のつかこうへいと同時受賞だった。僕は受賞作が載った雑誌「新劇」を買って読んだ記憶がある。すでに新しい演劇ブームを起こしていた「熱海殺人事件」ではなく、僕は敗北の抒情を冷え冷えと描き出す「ぼくらが非情の大河をくだる時」に強く惹かれた。

帯を引用すると「愛もなく夢もなく、希望もなく……〈闘い〉に敗れ挫折した青春の魂はどこへいく。夜の街角へ、公衆便所の暗闇へ、虚空の彼方へ、冷えきった若者たちの新宿への愛と別離を、幻想と残酷のリズムに描く。」僕はもともとそういう世界が好きなのである。この作品世界が70年前後の「革命」の挫折を受けているのは言うまでもない。しかし、世界全体がこの先どうなるんだろうという時代だった。73年の「オイルショック」を受け、日本では「破滅論」ブームが起きた。そんな時に書かれた「泣かないのか、泣かないのか、一九七三年のために」は、大学受験を控えた僕の気分そのものを表わしている感じがしたものだ。
その前に1971年に「あらかじめ失われた恋人たちよ」という映画を作っている。清水邦夫、田原総一郎の共同脚本、共同監督ということになっている。東京12チャンネル〈テレビ東京〉のディレクターだった田原を監督に起用した理由は、先の葛井「遺書」で触れられている。清水、田原どちらにもただ一本の映画監督である。北陸の海岸を男二人、女一人でさすらう。一人の男は唖で加納典明。もう一人は石橋蓮司だが、女は新人の桃井かおりが抜てきされた。この奇跡のようなキャストで描かれた白黒映画で、何といっていいのか判らないけれど魅力的だった。記録的な不入りだったそうだが、僕は翌年に文芸地下で見た。数年前に再見して、成功作とは言えないが魅力はあると思った。「メリー・ジェーン」の曲を知った映画。
1978年に「木冬社」を作って、旺盛な執筆活動を開始する。「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(1982)、「タンゴ、冬の終わりに」(1984)などが代表作とされる。また1977年の「楽屋」(1977)は累計上演回数日本一とウィキペディアに出ている。しかし、僕は読んでる割には見ていない。80年代は仕事で忙しく、小説や映画でも落としているものが多い。映画は後から見られるが、演劇では再演があっても時代感覚がズレることが多い。蜷川とのコンビも80年代に復活したが、ほとんど見ていない。若い頃に読んだ抒情的な劇世界が僕にとっての清水邦夫。井上ひさし、別役実に続き、清水邦夫も亡くなり、一つの時代が終わった感じがする。