東京新聞4月1日別刷りの「教員異動特集」を今年も一応見たけれど、ほとんど知っている名前がない。考えてみれば当たり前のことだが、自分より年長の教員はもう誰ひとりいないのである。もちろん年下の教員は残っているわけだが、先輩教員がいなければ知ってる人が半減する。
10年経って一番思っていることは「10歳年を取った」ということだ。当たり前のことだけど、それが実感である。もっとも「15歳から25歳になる」方が変化は大きかった。ある程度年長になると、大きく変わることは少なくなるが、まとめて時間を振り返れば変化を実感するのである。
ある時期から、自分は「定年退職後に嘱託で残ることはないんじゃないか」と思うようになっていた。それでも長らく定年まで勤めることは前提にしていた。それが21世紀になる頃から、1年、2年早く辞めたいなと思うようになってきた。文科省や都教委に付き合っていられないという気持ちが強くなったのである。生活が立つなら早く辞めたい教員は多いだろう。
それがもっと早く辞めることになったのは、「教員免許更新制」という愚策が本当に実行されたことにある。今になって「教員のなり手が少ない」などと教育行政も危機を持っているようだが、今までの教育行政の行き着いた結果なのだから、何を今さら言ってるんだと思う。当時は「教員免許制度の抜本的改正」を掲げる民主党政権だった。免許更新制度を成立させた自民党政権だけでなく、今になっても「うっかり失効」の絶えない更新制をそのままにしてしまった民主党政権の無定見もひどかった。まあ、この愚策については改めて別の機会に書きたいと思う。
僕は更新講習を受けなかったので、そのままでは失効になる。当時法律的な救済措置が可能かどうか検討したのだが、公務員が法律に基づいてなされる措置を差し止めることは不可能ということだった。時々報道で見る「地位保全の仮処分」というのは、民間どうしの争いの場合にしか求められない。ということで予定より早く退職するしかなくなってしまった。
ところが、その後退職目前に東日本大震災が起きた。その結果、退職直後にボランティアに行くことになったが、更新制の実働と大震災がズレていたら僕ももう少し教員をしていたのかもしれない。まあ、そんなことを言っても仕方ないことだが。僕は若い頃から「退職したらやりたいこと」が幾つもあった。そして、そういうことを覚えていたのは最初のうち1,2年のことで、今はもう何をやりたかったのか自分でもはっきりしない。
若い頃から関心を持っていた研究テーマをまとめること、自分の同期や卒業生の動向を訪ねて自分の同時代を確認すること、山登りを再開すること、今まで見てきた映画を見直して自分なりの映画史の見通しを付けること、ハンセン病や死刑廃止、教科書問題など関心を持ってきた運動に関わることなどなど。そんなことをやりたいと思っていたと思う。しかし、教員であるうちはいろんな人に会いたいと思っていたのに、辞めて判ったのは自分は特に誰とも会いたくないのである。
いろいろな生徒や同僚と分け隔てなく付き合っていたと思うけど、思い出してみれば僕の本質はもっと「ヘンクツ」なものだったのである。自分なりの人前に出ることをトレーニングしてきて、最後の頃は保護者会で挨拶するなんて全然平気になっていた。生徒の前でしゃべることが当たり前になって何年も過ごして来たので、自分が本質的には「人間嫌い」だったことを忘れていた。
最近引退を表明した横綱鶴竜は「何かから解放された」と言った。自分が辞めて思ったことも同じで、非常に大きな「解放感」を感じたのである。その証拠に、僕は長いこと冬場に「静電気」に悩まされてきた。乾燥してくると、いろんなところに触るとビリビリするのである。それが退職後は全然無くなった。自分なりに「内圧」のようなものがあったんだと思う。
退職直後は「辞めない方が良かったのでは」と時々言われたのだが、辞めたときの解放感の大きさは他の人には伝えにくいなと思う。そうなってしまうと、今からあちこち出掛けて市民運動やボランティアをする元気が湧かない。結局「若隠居」した感じかなと思う。やりきれずに残っていることが多くて、出来ることなら一つ二つやりきってみたいとも思うが、ノンビリ暮らせるならそれでもいいかとも思う。まあ時々は温泉に行ったりしたいけれど。
とは言うものの「教師であったこと」は一生消えないと思う。学校の夢をよく見る。自分が生徒の時もあるけれど、圧倒的に教師であることが多い。そして「何かの目的」を抱えながら、例えば「文化祭でクラスに行く」つもりで歩いているのだが、一向に行き着かない。障害が次々と起こって、校舎が崩壊していたりしてどこにも行けない。まあ夢というものはそういうものだ。しかし、どんな仕事をしていた人でも、職場でうまく行かない夢を見続けるんじゃないだろうか。そうやって、また一日一日年齢を重ねていくのである。
10年経って一番思っていることは「10歳年を取った」ということだ。当たり前のことだけど、それが実感である。もっとも「15歳から25歳になる」方が変化は大きかった。ある程度年長になると、大きく変わることは少なくなるが、まとめて時間を振り返れば変化を実感するのである。
ある時期から、自分は「定年退職後に嘱託で残ることはないんじゃないか」と思うようになっていた。それでも長らく定年まで勤めることは前提にしていた。それが21世紀になる頃から、1年、2年早く辞めたいなと思うようになってきた。文科省や都教委に付き合っていられないという気持ちが強くなったのである。生活が立つなら早く辞めたい教員は多いだろう。
それがもっと早く辞めることになったのは、「教員免許更新制」という愚策が本当に実行されたことにある。今になって「教員のなり手が少ない」などと教育行政も危機を持っているようだが、今までの教育行政の行き着いた結果なのだから、何を今さら言ってるんだと思う。当時は「教員免許制度の抜本的改正」を掲げる民主党政権だった。免許更新制度を成立させた自民党政権だけでなく、今になっても「うっかり失効」の絶えない更新制をそのままにしてしまった民主党政権の無定見もひどかった。まあ、この愚策については改めて別の機会に書きたいと思う。
僕は更新講習を受けなかったので、そのままでは失効になる。当時法律的な救済措置が可能かどうか検討したのだが、公務員が法律に基づいてなされる措置を差し止めることは不可能ということだった。時々報道で見る「地位保全の仮処分」というのは、民間どうしの争いの場合にしか求められない。ということで予定より早く退職するしかなくなってしまった。
ところが、その後退職目前に東日本大震災が起きた。その結果、退職直後にボランティアに行くことになったが、更新制の実働と大震災がズレていたら僕ももう少し教員をしていたのかもしれない。まあ、そんなことを言っても仕方ないことだが。僕は若い頃から「退職したらやりたいこと」が幾つもあった。そして、そういうことを覚えていたのは最初のうち1,2年のことで、今はもう何をやりたかったのか自分でもはっきりしない。
若い頃から関心を持っていた研究テーマをまとめること、自分の同期や卒業生の動向を訪ねて自分の同時代を確認すること、山登りを再開すること、今まで見てきた映画を見直して自分なりの映画史の見通しを付けること、ハンセン病や死刑廃止、教科書問題など関心を持ってきた運動に関わることなどなど。そんなことをやりたいと思っていたと思う。しかし、教員であるうちはいろんな人に会いたいと思っていたのに、辞めて判ったのは自分は特に誰とも会いたくないのである。
いろいろな生徒や同僚と分け隔てなく付き合っていたと思うけど、思い出してみれば僕の本質はもっと「ヘンクツ」なものだったのである。自分なりの人前に出ることをトレーニングしてきて、最後の頃は保護者会で挨拶するなんて全然平気になっていた。生徒の前でしゃべることが当たり前になって何年も過ごして来たので、自分が本質的には「人間嫌い」だったことを忘れていた。
最近引退を表明した横綱鶴竜は「何かから解放された」と言った。自分が辞めて思ったことも同じで、非常に大きな「解放感」を感じたのである。その証拠に、僕は長いこと冬場に「静電気」に悩まされてきた。乾燥してくると、いろんなところに触るとビリビリするのである。それが退職後は全然無くなった。自分なりに「内圧」のようなものがあったんだと思う。
退職直後は「辞めない方が良かったのでは」と時々言われたのだが、辞めたときの解放感の大きさは他の人には伝えにくいなと思う。そうなってしまうと、今からあちこち出掛けて市民運動やボランティアをする元気が湧かない。結局「若隠居」した感じかなと思う。やりきれずに残っていることが多くて、出来ることなら一つ二つやりきってみたいとも思うが、ノンビリ暮らせるならそれでもいいかとも思う。まあ時々は温泉に行ったりしたいけれど。
とは言うものの「教師であったこと」は一生消えないと思う。学校の夢をよく見る。自分が生徒の時もあるけれど、圧倒的に教師であることが多い。そして「何かの目的」を抱えながら、例えば「文化祭でクラスに行く」つもりで歩いているのだが、一向に行き着かない。障害が次々と起こって、校舎が崩壊していたりしてどこにも行けない。まあ夢というものはそういうものだ。しかし、どんな仕事をしていた人でも、職場でうまく行かない夢を見続けるんじゃないだろうか。そうやって、また一日一日年齢を重ねていくのである。