『教育と愛国』という記録映画をやっている。2017年に大阪のMBS 毎日放送で放送されたテレビのドキュメンタリーに追加取材を加えて映画版にしたものである。テレビ版「映像'17 教育と愛国 ~教科書でいま何が起きているのか~」はギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞したというが、全然知らなかった。東京で放送されたのかどうかも知らないが、毎日放送でも深夜枠でしか放送されないらしい。この映画は教育現場を取材しながら、教科書が政権寄りに変えられていった様子をていねいに取材してまとめている。とても判りやすく、かつ興味深く作られていて、内容的にはほぼ知ってる話なのに全然退屈しない。

作ったのは斉加尚代(さいか・ひさよ)という毎日放送のドキュメンタリー担当ディレクター。今まで気付かなかったが、橋下徹元大阪市長と「バトル」したり、沖縄の地元紙に取材した「なぜペンをとるのかー沖縄の新聞記者たち」とか基地反対運動のデマを追求した「沖縄 さまよう木霊 基地反対運動の素顔」などを作った「有名人」である。その結果、ネット上で「反日」などとバッシングされると、今度はそのバッシングする人の実態に迫った「バッシングーその発信源の背後に何が」というドキュメンタリーまで作るという覚悟と度胸にビックリである。その沖縄や「バッシング」の取材をまとめた『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』という本が集英社新書4月新刊で出ている。これがまた超絶的に面白く、勇気の出る本だった。
(『何が記者を殺すのか』)
今度の映画では冒頭に、元日本書籍の編集者池田剛という人が出て来る。日書は昔は相当に大きい教科書会社だったが、つぶれてしまった。この映画にも出て来る吉田裕氏(一橋大学名誉教授)が教科書執筆メンバーに参加した教科書には「慰安婦」など旧軍の加害に関して詳しく取り上げた。ちょうど「新しい教科書をつくる会」の執筆した教科書が登場した時で、日書版も批判されて採択数が激減してしまった。その結果、日本書籍という会社自体が存続出来なくなって、池田さんも失業して妻子と別れて暮らしている。そういう結果になったことに自責の念を抱き、吉田氏もまた以後は誘われても教科書は執筆していないという。
(斉加尚代監督)
日本書籍という会社は知っていたし、その教科書も見ているはず。しかし、「つくる会」教科書(扶桑社)を採択してはならないという運動をしながら、扶桑社じゃなければいいやと他社の採択結果はほとんど気にしなかった。その間、確かに扶桑社(育鵬社)を採択する地区はあまりなかったのだが、一方で戦争記述に詳しいような教科書も「両成敗」のような感じでシェアを落としてしまったのである。映画は池田氏の感慨を追いながら、その後さらに教科書が政権によって、どんどん変えられていく様子が描かれる。特に第一次安倍政権で「教育基本法」が変えられ、第二次安倍政権の復活で「具現化」されていく。
この映画では、その「つくる会」の伊藤隆氏(東大名誉教授)にも2回取材している。ここが非常に興味深いのだが、「歴史に何を学ぶのか」と問われて、「歴史に学ぶものはない」と断言する。しかし、ご本人は「左翼ではない」「反日ではない」ものを求めている。自分だけは歴史に「価値」を持ち込んでおいて、他の人には歴史には何も学ぶものがないと決めつける。だから「歴史」がつまらなくなるのである。二度目の取材で「なんで日本は戦争に負けたのか」と問われて、「それは弱かったからでしょ」などと答えている。中国大陸を侵略したまま、米英と戦争を始めたことを「弱かった」と表現するのか。

他に気付いたことを挙げると、「両論併記のダブルスタンダード」である。南京虐殺の被害者数などで、文科省の検定では「通説がない」と言って、両論併記的な記述を強いてきた。しかし、最後の方に出て来る安倍元首相は「自衛隊を違憲だと書いているような教科書を子どもたちに渡せない」などと演説していた。「自衛隊違憲論」の学者が一人でもいる限り、両論併記せよという対応をしなければダブルスタンダードというものだ。それにしても、この間の「教育改革」は安倍元首相および支え続けた「大阪維新」のもたらしたものだということがよく判る映画だった。
この『教育と愛国』も本になっていて、『教育と愛国――誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店、2019)が出ているが、そっちは読んでない。毎日放送は「プレバト」を作っているぐらいしか知らなかったが、大変立派な仕事をしていることを知った。しかし、斉加氏の新書によれば、なかなか社内でも大変なようである。僕はこの映画を火曜日に見ようと思ったら、ヒューマントラストシネマ有楽町がまさかの満席だった。どういう人が見に来ているのかよく判らないが、確かに求めている観客もいるのである。今日はシネリーブル池袋で見たが、午前が大雨だったからか空いていた。テアトル系ではちょっと前に大川隆法が作った『愛国女子』なる映画も上映していた。間違って似たような映画を求めてきた観客がいないかと心配。

作ったのは斉加尚代(さいか・ひさよ)という毎日放送のドキュメンタリー担当ディレクター。今まで気付かなかったが、橋下徹元大阪市長と「バトル」したり、沖縄の地元紙に取材した「なぜペンをとるのかー沖縄の新聞記者たち」とか基地反対運動のデマを追求した「沖縄 さまよう木霊 基地反対運動の素顔」などを作った「有名人」である。その結果、ネット上で「反日」などとバッシングされると、今度はそのバッシングする人の実態に迫った「バッシングーその発信源の背後に何が」というドキュメンタリーまで作るという覚悟と度胸にビックリである。その沖縄や「バッシング」の取材をまとめた『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』という本が集英社新書4月新刊で出ている。これがまた超絶的に面白く、勇気の出る本だった。

今度の映画では冒頭に、元日本書籍の編集者池田剛という人が出て来る。日書は昔は相当に大きい教科書会社だったが、つぶれてしまった。この映画にも出て来る吉田裕氏(一橋大学名誉教授)が教科書執筆メンバーに参加した教科書には「慰安婦」など旧軍の加害に関して詳しく取り上げた。ちょうど「新しい教科書をつくる会」の執筆した教科書が登場した時で、日書版も批判されて採択数が激減してしまった。その結果、日本書籍という会社自体が存続出来なくなって、池田さんも失業して妻子と別れて暮らしている。そういう結果になったことに自責の念を抱き、吉田氏もまた以後は誘われても教科書は執筆していないという。

日本書籍という会社は知っていたし、その教科書も見ているはず。しかし、「つくる会」教科書(扶桑社)を採択してはならないという運動をしながら、扶桑社じゃなければいいやと他社の採択結果はほとんど気にしなかった。その間、確かに扶桑社(育鵬社)を採択する地区はあまりなかったのだが、一方で戦争記述に詳しいような教科書も「両成敗」のような感じでシェアを落としてしまったのである。映画は池田氏の感慨を追いながら、その後さらに教科書が政権によって、どんどん変えられていく様子が描かれる。特に第一次安倍政権で「教育基本法」が変えられ、第二次安倍政権の復活で「具現化」されていく。
この映画では、その「つくる会」の伊藤隆氏(東大名誉教授)にも2回取材している。ここが非常に興味深いのだが、「歴史に何を学ぶのか」と問われて、「歴史に学ぶものはない」と断言する。しかし、ご本人は「左翼ではない」「反日ではない」ものを求めている。自分だけは歴史に「価値」を持ち込んでおいて、他の人には歴史には何も学ぶものがないと決めつける。だから「歴史」がつまらなくなるのである。二度目の取材で「なんで日本は戦争に負けたのか」と問われて、「それは弱かったからでしょ」などと答えている。中国大陸を侵略したまま、米英と戦争を始めたことを「弱かった」と表現するのか。

他に気付いたことを挙げると、「両論併記のダブルスタンダード」である。南京虐殺の被害者数などで、文科省の検定では「通説がない」と言って、両論併記的な記述を強いてきた。しかし、最後の方に出て来る安倍元首相は「自衛隊を違憲だと書いているような教科書を子どもたちに渡せない」などと演説していた。「自衛隊違憲論」の学者が一人でもいる限り、両論併記せよという対応をしなければダブルスタンダードというものだ。それにしても、この間の「教育改革」は安倍元首相および支え続けた「大阪維新」のもたらしたものだということがよく判る映画だった。
この『教育と愛国』も本になっていて、『教育と愛国――誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店、2019)が出ているが、そっちは読んでない。毎日放送は「プレバト」を作っているぐらいしか知らなかったが、大変立派な仕事をしていることを知った。しかし、斉加氏の新書によれば、なかなか社内でも大変なようである。僕はこの映画を火曜日に見ようと思ったら、ヒューマントラストシネマ有楽町がまさかの満席だった。どういう人が見に来ているのかよく判らないが、確かに求めている観客もいるのである。今日はシネリーブル池袋で見たが、午前が大雨だったからか空いていた。テアトル系ではちょっと前に大川隆法が作った『愛国女子』なる映画も上映していた。間違って似たような映画を求めてきた観客がいないかと心配。