尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『山内上杉氏と扇谷上杉氏』ー「対決の東国史」を読む②

2022年05月26日 22時55分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 『足利氏と新田氏』に続き、「対決の東国史」シリーズ2回目として『山内上杉氏と扇谷上杉氏』(木下聡著、吉川弘文館、2022)を読んだ。読み方は「やまのうち」と「おうぎがやつ」である。どっちも鎌倉の地名だが、上杉氏には他にもいろいろあることを今回読んで驚いた。上杉と言えば、誰もが知るのは越後の戦国大名、上杉謙信だろう。その一族は山形県米沢の大名として幕末まで続くが、もとをたどれば関東の上杉氏から越後の長尾氏に名跡が譲られたということは歴史ファンにはよく知られている。

 その上杉氏の関東時代は複雑すぎて、なかなか理解出来ない。この本を読めばスッキリ判るかと言えば、ますます判らなくなったとも言える。何しろ争乱が多すぎて混乱するのである。同じ上杉氏どうしで何度も争い、また協調する。「山内」と「扇谷」は、「山内」が本流で、「扇谷」は一門中の№2の家系になる。より強大な「古河公方」や「小田原北条氏」が出て来ると共闘するが、少し落ち着くと上杉どうしで争う。それが判りにくい。どうせ関東は後北条氏が制覇し、さらにその後豊臣秀吉に滅ぼされ、結局徳川家康の領地になるというラストを知っているから、その前の細かい歴史をスルーしてしまいがちだ。

 前にも書いたけど、関東地方の歴史ファンは案外地元の歴史を知らない。本能寺の変の真相とか、関ヶ原の戦いの細かい経過なら熱く語れるのに、関東で起きた「結城合戦」とか「長尾景春の乱」なんかほとんど知らない。「中央政治史」ばかり教科書に載っているんだから、それも当然だろう。それで良いのかと思って、関東の戦国時代について2018年に4回ほど書いた。
戦国は関東から始まった?-戦国時代の関東①」(2018.4.17)
伊勢宗瑞を知ってるか-戦国時代の関東②」(2018.4.18)
北条vs上杉55年戦争-戦国時代の関東③」(2018.4.19)
小弓公方と上総武田氏-戦国時代の関東④」(2018.4.22)

 上杉氏については、その3回目の「北条vs上杉55年戦争」でも書いたけれど、その北条との戦争の前からずっと上杉氏は関東の戦乱に関わってきたわけである。前回と重複するところもあるが、改めて書いておくと、上杉氏はもと京都の下級公家である。藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流とされ、鎌倉時代初期に(源氏の系譜が途絶えた後で)宗尊親王が将軍に任官するとき、上杉重房が付き従って鎌倉へやってきた。そのまま関東に土着して武士化して、丹波国上杉荘(現京都府綾部市)を領地として「上杉」を名乗った。幕府内で重んじられていた足利氏に近づき、重房の孫にあたる清子は足利尊氏の母となった。
(上杉氏系図)
 室町幕府で重んじられて、清子の兄、上杉憲房は上野(こうずけ、現群馬県)の守護、その子憲顕は上野、越後、武蔵の守護となった。さらに鎌倉に関東地方を支配する「鎌倉府」が出来ると、その№2である「関東管領」(かんとうかんれい)に上杉氏が就任した。この関東管領には基本的には本家(後の山内上杉氏)が就任したが、場合によっては上杉氏の分家筋が就任したこともある。犬懸(いぬがけ)上杉氏の上杉氏憲(禅秀)はその一人だが、鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉府の長)の足利持氏と対立して解任され、1416年に足利禅秀の乱を起こして犬懸家は没落した。

 代わりに扇谷上杉氏が勢力を延ばして行くが、管領には山内上杉氏が就任している。しかし、鎌倉公方は室町将軍にライバル心旺盛で、中央と連絡して補佐するのが役目の関東管領とは対立がちだった。1438年には持氏と管領上杉憲実(のりざね=足利学校や金沢文庫の復興で知られる)の対立が激しくなり、憲実は領国の上野に逃れた。持氏は追討軍を送り、憲実は幕府中央に救援を求め、永享(えいきょう)の乱が起こった。持氏は敗北して自害するが、1447年に持氏の遺児、成氏が鎌倉府再興を許されて鎌倉公方となった。しかし、再び管領と対立するようになり、1454年には成氏が管領上杉憲忠(憲実の子)を殺害したことから関東を二分する大乱となった。それが享徳(きょうとく)の乱である。
(1458年頃の関東地方支配者地図)
 この時、成氏は鎌倉確保を諦め、古河(こが=現茨城県)に脱出した。以後、鎌倉に戻ることなく、「古河公方」と呼ばれた。今まで鎌倉に戻れなかったことから評価が低かったが、この本で見る限り両上杉氏と妥協したり対立したりしながら、何とか生き延びていく。扇谷上杉氏が滅び(1546年)、山内上杉氏が越後の長尾景虎(謙信)に上杉姓を譲った(1561年)後まで、古河公方は存続したんだから、再評価の必要がある。享徳の乱では上杉氏は一体となって強敵古河公方と戦った。しかし、和平後に山内上杉氏の家宰(実質的な№2)だった長尾氏の一族、長尾景春が反乱を起こす(1476~1480)。この「長尾景春の乱」を何とか鎮圧出来たのは、扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌が全力で戦い大活躍したからだった。
(太田道灌)
 太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)は江戸城の築城者として、この時代の武将の中では今も知られている。でも、どんな人だかよく知らない人が多いだろう。享徳の乱や長尾景春の乱における道灌の活躍ぶりは実に見事だった。しかし、そのため本来は山内上杉氏の領地だった武蔵国にも扇谷系の勢力が増大する。それを忌避する山内系の反発も強く、また主君である上杉定正も部下なのに強くなりすぎた道灌への警戒が強くなった。そのため、1486年に定正の屋敷に招かれたところで謀殺されてしまった。一方、かつての敵である長尾景春は乱後も生き延び、敵の敵は味方とばかり古河公方に逃げ込んだり、伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟したりしながら、1517年に71歳で今川氏に亡命中に亡くなった。この「戦国ターミネーター」ぶりもすごい。

 長くなったので、もう止めることにするが、結局は本の帯に書いてあるように、「協調と敵対のループ…忍び寄る小田原北条氏」ということになる。実は享徳の乱終結後に、両上杉氏が争った「長享(ちょうきょう)の乱」(1487~1505)が起こる。「山内上杉氏と扇谷上杉氏」という「対決の東国史」からすれば、本来そこがメインである。けれど経過があまりに面倒くさいから書かない。結局上杉氏どうしで争っている間に、北条氏が伸びてくる。そして再び協調して、1546年に河越城の戦いが起きる。今までの長い対立は何だったかという感じで、山内・扇谷・古河公方連合軍が北条氏と対決して敗れた。ここで扇谷上杉氏は当主が戦死して滅亡した。山内上杉氏はもう少し残るけれど、結局上杉謙信に譲って隠居する。以後の謙信対北条氏は別の話。
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