吉川弘文館から「対決の東国史」というシリーズが出始めた。関東地方の歴史なんか、今まで一般書も少なかったんだけど、今やブームみたいにいっぱい出ている。吉川弘文館からは「動乱の東国史」というシリーズも10年ほど前に出ている。戦国時代に関しては、「列島の戦国史」というシリーズも出ているんだから、歴史好きの裾野は広い。行きたい舞台や寄席があったんだけど、大規模書点で「対決の東国史」を見たら、どうしても買いたくなってしまった。今回は何とか2冊に止めたが、また買っちゃいそう。
まずは「足利氏と新田氏」である。解説は要らないと思うが、念のため簡単に書いておくと、1333年に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まる。倒幕に際して、大きな功績があったのが足利尊氏(あしかが・たかうじ)と新田義貞(にった・よしさだ)だった。しかし、建武の新政は行き詰まり、足利尊氏は独自に旗揚げして、やがて征夷大将軍となって室町幕府を開く。一方、新田義貞はあくまでも後醍醐天皇方に立ち、両者は死闘を繰り広げた。南朝と北朝に分裂した天皇家、尊氏と弟の直義との対立など、もっと複雑だったわけだが、まずは「足利vs新田」と言えば、南北朝時代を思い出す。
南北朝の内乱を描いた戦記物と言えば「太平記」だ。「平家物語」は原文で読んだけれど、「太平記」は長いから原文は読んでない。でも小さいときに家にあった子ども向けの文学全集に入っていたので、ずいぶん愛読したものだ。今の若い人はほとんど知らないだろう、楠木正成の千早城の戦いとか、児島高徳なんて名前までよく覚えている。そこで疑問に思ったのは、鎌倉幕府の京都出張所である六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と、幕府本体を滅ぼした新田義貞の軍功はどっちが上なのか。新田義貞の方が上じゃないかと思えるが、足利尊氏の方が功績大とされたのが判らなかったのである。そのうち、足利氏と新田氏ではレベルが違うんだという歴史学の常識を知ったけれど、その詳しい中身は本書を読んで初めてよく判り、何十年越しの疑問が氷解したのである。
(河内源氏の系図)
ちょっと細かくなるが、足利も新田も本をたどれば清和源氏の中の河内源氏の系列である。清和天皇の孫、経基王が臣籍降下して源経基と名乗り、その子満仲が摂関家に仕えて武士団を形成した。その長男源頼光の子孫は「摂津源氏」、次男源頼親の子孫は「大和源氏」、三男の源頼信の子孫は「河内源氏」と呼ばれた。この頼信が平忠常の乱で功績を挙げ、さらにその子源頼義が前九年の役、その子源義家が後三年の役で名声を高めて東国に大きな勢力を築いた。「八幡太郎」と呼ばれた義家は大きな声望を得たため白河法皇に忌避され、しばらく河内源氏の勢力は衰えたとされる。その間に朝廷では伊勢平氏が昇進していったわけである。
その義家の長男が義親、その4男が源為義、その長男が源義朝、その三男が源頼朝となる。一方で、源義家の三男、源義国から始まるのが新田氏と足利氏である。義国の長男源義重の子孫が上野国(群馬県)の新田荘(現太田市)に勢力を築き新田氏を名乗る。一方で義国の次男、源義康は父以来の下野国(栃木県)の足利荘に依拠して足利氏を名乗った。ちょっと細かくなったが、そもそも武門源氏の中でも頼光三男に始まる河内源氏は本流ではなく、その中の義家子孫でも義朝、頼朝は本流ではなかった。そして足利、新田はさらに源氏全体からすれば庶流になる。
でも武士の世界では、現実の戦いで軍功を挙げた一族が出世する。平家に対して源頼朝(1147~1199)が挙兵したのは、1180年である。一方、足利氏の初代足利義康(1127~1157)は京都の中央政界で「北面の武士」として保元の乱(1156)でも後白河方で活躍していたのに、翌年には早世してしまった。その子足利義兼(1154?~1199)は若年のため、独自の政治力は持っていなかったので、頼朝の挙兵に参加して一門御家人として重きをなす。一方で新田氏初代の子、新田義重(1114?~1202)は長命で、何と頼朝より長生きしているぐらい。自分より年下の頼朝や木曽義仲(義朝の弟義賢の子、頼朝の従兄弟、1154~1184)の部下になりたくなかったので、源平合戦に乗り遅れてしまったのである。
そんな偶然によって、足利氏は鎌倉時代にずっと重要な位置を維持し続けた。鎌倉時代にはずいぶん政変が多いが、足利氏は北条氏と深く結びついて、鎌倉政界で重きをなした。一方の新田氏では義重のひ孫に当たる新田政義が京都大番役時代に無断出家する事件を起こして没落してしまったのである。以後の新田氏は足利一門として辛くも生き延びて、鎌倉時代の史料にも出てこない地方武士となってしまった。つまり、鎌倉時代の足利氏は中央政府で大臣を歴任するような有力政治家。新田氏は事実上は足利氏の被官のようなもので、まあ群馬県議会議員レベルで全国的には無名だったのである。
(足利尊氏)
だからこそ、足利尊氏(当時は高氏)が幕府を見限ったのは大事件になる。新田義貞は高氏の命令を受けて、鎌倉幕府を滅ぼしたのであり、足利氏の部下だったのである。だが、やはり鎌倉幕府軍を打ち破ったのは大軍功には違いなく、義貞は建武の新政で一躍出世することになる。だが、鎌倉時代から全国各地に領地を持ち、鎌倉に独自の政務機関を持っていた足利氏は、幕府を開ける実務的能力を蓄えていた。新田氏は単なる地方武士だったから、独自の政治力に乏しく、後醍醐天皇方として活動する以外なかった。
(新田義貞)
なるほど、なるほど。これはよく判る。それなのに、何となく尊氏と義貞が同格みたいに思ってしまうのは、「太平記」の作為もあるという。足利幕府初代の尊氏がいかに強かったのかを示すために、新田義貞の存在感を少し「盛っている」らしいのである。「太平記」完成には幕府も関与していたという話だ。そして尊氏は頼朝に似せて行動し、幕府政治を進める。河内源氏の本流、頼朝系は断絶したが、源氏の主流は足利という意識を植え付けたのである。しかし、さらに歴史は覆り、江戸時代になると、もともと藤原氏だったはずの徳川(松平)氏が新田氏初代の義重の孫から続くという系図を示して源氏本流は新田系になる。(この徳川=源氏説は、今も賛否両論があって決めがたい。)
足利氏、新田氏は多くの武士一族を生み出したことでも知られる。足利氏は三河(愛知県東部)を支配し、そこから三河の地名の付く一族を多く出した。細川、吉良、畠山、今川、斯波、一色など皆足利系。一方の新田氏からは、山名、里見、岩松氏などが出るが、山名氏を除けば関東地方の武士で終わった一族が多い。岩松氏は日本百名城になっている群馬県金山城を築城した一族。
まずは「足利氏と新田氏」である。解説は要らないと思うが、念のため簡単に書いておくと、1333年に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まる。倒幕に際して、大きな功績があったのが足利尊氏(あしかが・たかうじ)と新田義貞(にった・よしさだ)だった。しかし、建武の新政は行き詰まり、足利尊氏は独自に旗揚げして、やがて征夷大将軍となって室町幕府を開く。一方、新田義貞はあくまでも後醍醐天皇方に立ち、両者は死闘を繰り広げた。南朝と北朝に分裂した天皇家、尊氏と弟の直義との対立など、もっと複雑だったわけだが、まずは「足利vs新田」と言えば、南北朝時代を思い出す。
南北朝の内乱を描いた戦記物と言えば「太平記」だ。「平家物語」は原文で読んだけれど、「太平記」は長いから原文は読んでない。でも小さいときに家にあった子ども向けの文学全集に入っていたので、ずいぶん愛読したものだ。今の若い人はほとんど知らないだろう、楠木正成の千早城の戦いとか、児島高徳なんて名前までよく覚えている。そこで疑問に思ったのは、鎌倉幕府の京都出張所である六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と、幕府本体を滅ぼした新田義貞の軍功はどっちが上なのか。新田義貞の方が上じゃないかと思えるが、足利尊氏の方が功績大とされたのが判らなかったのである。そのうち、足利氏と新田氏ではレベルが違うんだという歴史学の常識を知ったけれど、その詳しい中身は本書を読んで初めてよく判り、何十年越しの疑問が氷解したのである。
(河内源氏の系図)
ちょっと細かくなるが、足利も新田も本をたどれば清和源氏の中の河内源氏の系列である。清和天皇の孫、経基王が臣籍降下して源経基と名乗り、その子満仲が摂関家に仕えて武士団を形成した。その長男源頼光の子孫は「摂津源氏」、次男源頼親の子孫は「大和源氏」、三男の源頼信の子孫は「河内源氏」と呼ばれた。この頼信が平忠常の乱で功績を挙げ、さらにその子源頼義が前九年の役、その子源義家が後三年の役で名声を高めて東国に大きな勢力を築いた。「八幡太郎」と呼ばれた義家は大きな声望を得たため白河法皇に忌避され、しばらく河内源氏の勢力は衰えたとされる。その間に朝廷では伊勢平氏が昇進していったわけである。
その義家の長男が義親、その4男が源為義、その長男が源義朝、その三男が源頼朝となる。一方で、源義家の三男、源義国から始まるのが新田氏と足利氏である。義国の長男源義重の子孫が上野国(群馬県)の新田荘(現太田市)に勢力を築き新田氏を名乗る。一方で義国の次男、源義康は父以来の下野国(栃木県)の足利荘に依拠して足利氏を名乗った。ちょっと細かくなったが、そもそも武門源氏の中でも頼光三男に始まる河内源氏は本流ではなく、その中の義家子孫でも義朝、頼朝は本流ではなかった。そして足利、新田はさらに源氏全体からすれば庶流になる。
でも武士の世界では、現実の戦いで軍功を挙げた一族が出世する。平家に対して源頼朝(1147~1199)が挙兵したのは、1180年である。一方、足利氏の初代足利義康(1127~1157)は京都の中央政界で「北面の武士」として保元の乱(1156)でも後白河方で活躍していたのに、翌年には早世してしまった。その子足利義兼(1154?~1199)は若年のため、独自の政治力は持っていなかったので、頼朝の挙兵に参加して一門御家人として重きをなす。一方で新田氏初代の子、新田義重(1114?~1202)は長命で、何と頼朝より長生きしているぐらい。自分より年下の頼朝や木曽義仲(義朝の弟義賢の子、頼朝の従兄弟、1154~1184)の部下になりたくなかったので、源平合戦に乗り遅れてしまったのである。
そんな偶然によって、足利氏は鎌倉時代にずっと重要な位置を維持し続けた。鎌倉時代にはずいぶん政変が多いが、足利氏は北条氏と深く結びついて、鎌倉政界で重きをなした。一方の新田氏では義重のひ孫に当たる新田政義が京都大番役時代に無断出家する事件を起こして没落してしまったのである。以後の新田氏は足利一門として辛くも生き延びて、鎌倉時代の史料にも出てこない地方武士となってしまった。つまり、鎌倉時代の足利氏は中央政府で大臣を歴任するような有力政治家。新田氏は事実上は足利氏の被官のようなもので、まあ群馬県議会議員レベルで全国的には無名だったのである。
(足利尊氏)
だからこそ、足利尊氏(当時は高氏)が幕府を見限ったのは大事件になる。新田義貞は高氏の命令を受けて、鎌倉幕府を滅ぼしたのであり、足利氏の部下だったのである。だが、やはり鎌倉幕府軍を打ち破ったのは大軍功には違いなく、義貞は建武の新政で一躍出世することになる。だが、鎌倉時代から全国各地に領地を持ち、鎌倉に独自の政務機関を持っていた足利氏は、幕府を開ける実務的能力を蓄えていた。新田氏は単なる地方武士だったから、独自の政治力に乏しく、後醍醐天皇方として活動する以外なかった。
(新田義貞)
なるほど、なるほど。これはよく判る。それなのに、何となく尊氏と義貞が同格みたいに思ってしまうのは、「太平記」の作為もあるという。足利幕府初代の尊氏がいかに強かったのかを示すために、新田義貞の存在感を少し「盛っている」らしいのである。「太平記」完成には幕府も関与していたという話だ。そして尊氏は頼朝に似せて行動し、幕府政治を進める。河内源氏の本流、頼朝系は断絶したが、源氏の主流は足利という意識を植え付けたのである。しかし、さらに歴史は覆り、江戸時代になると、もともと藤原氏だったはずの徳川(松平)氏が新田氏初代の義重の孫から続くという系図を示して源氏本流は新田系になる。(この徳川=源氏説は、今も賛否両論があって決めがたい。)
足利氏、新田氏は多くの武士一族を生み出したことでも知られる。足利氏は三河(愛知県東部)を支配し、そこから三河の地名の付く一族を多く出した。細川、吉良、畠山、今川、斯波、一色など皆足利系。一方の新田氏からは、山名、里見、岩松氏などが出るが、山名氏を除けば関東地方の武士で終わった一族が多い。岩松氏は日本百名城になっている群馬県金山城を築城した一族。