「封建的」(ほうけんてき)という言葉は、僕の若い頃には「古い考え」を否定する時に決めつける言葉だった。明治が古くなった頃で、江戸時代はさらに昔なんだから、もっと古いに違いない。何であれ古いものは「封建的」だからいけないとされていた。高度成長の時代で、日々新たな発展があるのが当然という時代で、「古い」というだけで否定の対象になる。
じゃあ「封建時代」ってどんな時代なのか、きちんと理解していたわけではない。古代中国やヨーロッパの封建制と、日本の封建制はどこが同じでどう違うのか。僕もよく答えられないけど、とにかく江戸時代までは主君が臣従する武将に土地の領有権を保証する仕組みの社会だった。身分は基本的には固定され、職業は身分によって受け継がれる。
僕にはそういう社会は、断固とした「悪」に思えた。近代になって、身分が「解放」されたのは、全く正しいことだと思ってきた。しかし、人々は「身分」によって生業も保証されていた。当時の人には国家が「国民」を個人として把握し、税負担や徴兵や子どもの通学などを強制する世の中は、全く理解不能だっただろう。「幕末維新変革」はペリー来航に伴う「ウェスタン・インパクト」(西洋文明の衝撃)から生じたもので、日本国内の内発的な発展によるものではない。
当然のこととして、変革の推進者は支配階級内部から出て来た。領主レベルで「開明的」な君主も現れたが、上級武士どころか下級武士が藩論を動かすところも多かった。それらを見て行くと、やはり武士という存在は「主従意識」を超えられないと思う。なんとか超えゆける人はほんのわずかで、大体は最後まで主君への臣従意識で行動してしまう。身分の上下という意識を乗り越えるのが、いかに大変か。人はすべて時代の中で生きているということなのだ。
具体的に見てみる。維新に功があった藩をよく「薩長土肥」という。薩摩藩(鹿児島藩、島津家)、長州藩(萩藩または山口藩、毛利家)、土佐藩(高知藩、山内家)、肥前藩(佐賀藩、鍋島家)である。ある程度歴史に詳しい人は、薩土肥の幕末期の藩主(前藩主、藩主の父)の名前を知ってるだろう。でも毛利家の当主を言えるだろうか。僕も調べないと判らない。長州藩では藩主が引っ張るのではなく、その時々の有力な藩論に従って動いた。最初が「航海遠略」、次に「尊王攘夷」、禁門の変に負ければ恭順、そして討幕へ。家臣は有名だけど、藩主は無名。
反対なのは、幕末の「四賢候」と言われる人々、特に宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)である。殿様の名前しか知らない。殿様が偉いから、臣下は脱藩して志士になったりしない。越前藩も似ている。肥前藩の鍋島直正(維新前は直斉、号は閑叟=かんそう)も同様。明治以後に多くの人材を輩出するが、幕末期の志士がいない。藩の統制が強く、勝手に脱藩できなかった。直正も勤皇、佐幕といった政局に関わらず、洋式軍備充実に力を注いだ。もともと長崎警備担当藩で、ナポレオン戦争が波及したフェートン号事件で佐賀藩が処罰された屈辱を晴らすため、大砲製造技術に力を注いだ。名君いるところ、臣下は有名になれない。
(鍋島直正)
「名君の恐ろしさ」を最もよく示すのは、土佐藩の山内容堂(豊信=とよしげ)だろう。土佐藩は成り立ちが複雑で、外様大名ではあるものの、関ケ原で東軍に属した山内家が西軍に属した長宗我部盛親の後に入部した。山内家には徳川恩顧意識が強い。土佐藩では山内家に従って土佐入りした上級武士と、元からいた郷士層との差が激しい。坂本龍馬や中岡慎太郎は郷士クラスで、山内家への臣従意識が低く何度も脱藩する。土佐勤皇党を組織した武市半平太は、上級武士だが容堂に憎まれ切腹を申し付けられる。さっさと脱藩すればいいのにそれができない。藩主は藩内武士の成敗権があるから、裁判なしで命を奪える。殿様は恐ろしい。
(山内容堂)
薩摩藩の場合は事情が複雑だ。四賢候の一人とされる島津斉彬(なりあきら)が早く死んで、異母弟島津久光の子、忠義が養子となって藩主を継いだ。事実上、久光が藩主権を行使したが、タテマエ上は無位無官だった。その人物が兄に対抗するつもりか、兵を率いて上京して天皇の命令を得て江戸に下った。実に破天荒の出来事で、それが成功してしまった。ムッソリーニのローマ進軍みたいなものか。その帰りに生麦事件が起きる。僕もよく「英国人リチャードソンらが大名行列を横切り」と説明したが、よく考えたら久光は大名ではない。
(島津久光)
久光は「名君」ではない。斉彬が抜てきした西郷隆盛が何度も流刑にあうのも、久光が西郷を使いこなせないからだ。幕末史のある段階で、西郷や大久保は久光を見限っている。後は藩士レベルで藩論をまとめ、長州と組んで討幕に持ってゆく。久光が「名君」として藩を完全に掌握していたら、薩長同盟はできなかったと思う。その意味で、長州藩や薩摩藩、両者を結び付けた坂本龍馬などごくわずかの人々しか、藩と主君を超えた政治意識を持てなかった。「名君」などいない方が部下が活躍できる。これは今の学校や会社にも言えるんじゃないか。
じゃあ「封建時代」ってどんな時代なのか、きちんと理解していたわけではない。古代中国やヨーロッパの封建制と、日本の封建制はどこが同じでどう違うのか。僕もよく答えられないけど、とにかく江戸時代までは主君が臣従する武将に土地の領有権を保証する仕組みの社会だった。身分は基本的には固定され、職業は身分によって受け継がれる。
僕にはそういう社会は、断固とした「悪」に思えた。近代になって、身分が「解放」されたのは、全く正しいことだと思ってきた。しかし、人々は「身分」によって生業も保証されていた。当時の人には国家が「国民」を個人として把握し、税負担や徴兵や子どもの通学などを強制する世の中は、全く理解不能だっただろう。「幕末維新変革」はペリー来航に伴う「ウェスタン・インパクト」(西洋文明の衝撃)から生じたもので、日本国内の内発的な発展によるものではない。
当然のこととして、変革の推進者は支配階級内部から出て来た。領主レベルで「開明的」な君主も現れたが、上級武士どころか下級武士が藩論を動かすところも多かった。それらを見て行くと、やはり武士という存在は「主従意識」を超えられないと思う。なんとか超えゆける人はほんのわずかで、大体は最後まで主君への臣従意識で行動してしまう。身分の上下という意識を乗り越えるのが、いかに大変か。人はすべて時代の中で生きているということなのだ。
具体的に見てみる。維新に功があった藩をよく「薩長土肥」という。薩摩藩(鹿児島藩、島津家)、長州藩(萩藩または山口藩、毛利家)、土佐藩(高知藩、山内家)、肥前藩(佐賀藩、鍋島家)である。ある程度歴史に詳しい人は、薩土肥の幕末期の藩主(前藩主、藩主の父)の名前を知ってるだろう。でも毛利家の当主を言えるだろうか。僕も調べないと判らない。長州藩では藩主が引っ張るのではなく、その時々の有力な藩論に従って動いた。最初が「航海遠略」、次に「尊王攘夷」、禁門の変に負ければ恭順、そして討幕へ。家臣は有名だけど、藩主は無名。
反対なのは、幕末の「四賢候」と言われる人々、特に宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)である。殿様の名前しか知らない。殿様が偉いから、臣下は脱藩して志士になったりしない。越前藩も似ている。肥前藩の鍋島直正(維新前は直斉、号は閑叟=かんそう)も同様。明治以後に多くの人材を輩出するが、幕末期の志士がいない。藩の統制が強く、勝手に脱藩できなかった。直正も勤皇、佐幕といった政局に関わらず、洋式軍備充実に力を注いだ。もともと長崎警備担当藩で、ナポレオン戦争が波及したフェートン号事件で佐賀藩が処罰された屈辱を晴らすため、大砲製造技術に力を注いだ。名君いるところ、臣下は有名になれない。
(鍋島直正)
「名君の恐ろしさ」を最もよく示すのは、土佐藩の山内容堂(豊信=とよしげ)だろう。土佐藩は成り立ちが複雑で、外様大名ではあるものの、関ケ原で東軍に属した山内家が西軍に属した長宗我部盛親の後に入部した。山内家には徳川恩顧意識が強い。土佐藩では山内家に従って土佐入りした上級武士と、元からいた郷士層との差が激しい。坂本龍馬や中岡慎太郎は郷士クラスで、山内家への臣従意識が低く何度も脱藩する。土佐勤皇党を組織した武市半平太は、上級武士だが容堂に憎まれ切腹を申し付けられる。さっさと脱藩すればいいのにそれができない。藩主は藩内武士の成敗権があるから、裁判なしで命を奪える。殿様は恐ろしい。
(山内容堂)
薩摩藩の場合は事情が複雑だ。四賢候の一人とされる島津斉彬(なりあきら)が早く死んで、異母弟島津久光の子、忠義が養子となって藩主を継いだ。事実上、久光が藩主権を行使したが、タテマエ上は無位無官だった。その人物が兄に対抗するつもりか、兵を率いて上京して天皇の命令を得て江戸に下った。実に破天荒の出来事で、それが成功してしまった。ムッソリーニのローマ進軍みたいなものか。その帰りに生麦事件が起きる。僕もよく「英国人リチャードソンらが大名行列を横切り」と説明したが、よく考えたら久光は大名ではない。
(島津久光)
久光は「名君」ではない。斉彬が抜てきした西郷隆盛が何度も流刑にあうのも、久光が西郷を使いこなせないからだ。幕末史のある段階で、西郷や大久保は久光を見限っている。後は藩士レベルで藩論をまとめ、長州と組んで討幕に持ってゆく。久光が「名君」として藩を完全に掌握していたら、薩長同盟はできなかったと思う。その意味で、長州藩や薩摩藩、両者を結び付けた坂本龍馬などごくわずかの人々しか、藩と主君を超えた政治意識を持てなかった。「名君」などいない方が部下が活躍できる。これは今の学校や会社にも言えるんじゃないか。
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