尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「経済的徴兵制」がやってくる②

2015年08月06日 23時03分05秒 | 政治
 「経済的徴兵制」(economic conscription)という言葉を初めて知ったのは、(多分同じ人もたくさんいると思うけど)堤未果「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書、2008)を読んだときだった。そこには驚くべき事実がたくさん出てくるが、アメリカで貧しい若者たちが軍隊にリクルートされていく様は非常に印象的である。今では、国家権力は「赤紙なしの召集」を出来るし、目指しているのである。特に「落ちこぼれゼロ法」にはビックリする。こんな名前の法律がホントにあるのかと疑問に思うが、「No Child Left Behind」法と言うそうだから、確かに「落ちこぼれゼロ法」は正しい翻訳なのである。

 この法律はブッシュ政権初期の2002年~2003年度に実施されたもので、「落ちこぼれゼロ」というけど、子どもたちの学習を支援しようという法律ではない。学校と教師に、果てしなき試験と競争を強いて、成果の上がらない学校にはペナルティを与えるのである。(例えば、成果の上がらない学校の生徒は、成果の上がった学区内の他の学校に転校する権利がある。そのための交通費は無料となる。学区側は定員オーバーを理由に転校を拒否することはできない…などと規定されている。)

 そして、この法律には以下のようなすごい条項もあるのである。
米国軍は、リクルート目的のために高校生徒の名前、住所、および電話番号のリストを取得する権利を有している。大学やビジネス上のリクルーターも同様でなければならない。準拠しない学校は、連邦の補助を受けられない可能性がある。」
 高校は軍隊に対して、生徒の個人情報を提供しないと、連邦補助金を受けられない。もっとも、保護者は拒否する権利を有しているということだが、学校には拒否権はない。こうして、米軍は直接に「成績の良い貧困生徒」に対して、軍隊に入れば奨学金を得て大学へ進学したり、最新の技術を修得したりできると伝えてリクルートできるのである。
 
 もちろん、世界中の貧しい若者にとって、軍隊に入るということはいつも有力な「生きる手段」だった。それが「立身出世」につながった例も多い。日本でも、自衛隊創設当初も「農村の次三男対策」などと言われたものである。(もっとも高度経済成長が始まると、農村の余剰人口は都市の第二次、第三次産業に吸収されていくが。)日中戦争時代の帝国陸軍に材を取った、棟田博原作、野村芳太郎監督「拝啓天皇陛下様」という映画がある。渥美清演じる主人公は読書きも不自由で、軍隊の方が生きやすい。そんな話はフィクションかと思うと、中国でB級戦犯に問われた元憲兵にインタビューした「聞き書き ある憲兵の記録」(朝日文庫)に登場する土屋芳雄は、実家が貧しくて軍隊の食事の方が良かったと証言している。だから猛勉強して憲兵にまでなる。そういう人が現実にいたのである。

 今の日本ではそこまでの事態は起こらないと言われるかもしれない。だが、マスコミの取材に応じた自衛官が、任官の理由は奨学金返済のため(または理由の一つ)と答えることは多くなっている。今では大学生はかなりの割合で高額の奨学金を背負っている。大学進学を諦めるという高校生も多いだろうが、「自衛隊がお金を出してくれる」としたら飛びつく人も多いのではないか。また、外国で活動するために必要な、英語力や専門的な土木、建設、情報等の技術を持つ大学卒業者は、今のような「売り手市場」とも言われる好景気の時期には、普通なら大企業に取られてしまう。奨学金返済に有利、あるいは自衛隊が奨学金を出すというようなやり方が広がっていくのではないだろうか。

 「経済的徴兵制」を安倍政権は目指しているのだろうか、などと真正面から問いただしてもムダである。大体、無知であることを恥ずかしく思わないような人々だから、「経済的徴兵制って、何のことですか?」などと言うに違いない。(それって昔からある概念ですか?という人もいるかもしれないけど、ウィキペディアを見ると、第一次世界大戦時には存在していた言葉のようである。)しかし、安倍政権が「世界で一番企業が活動しやすい国」を目標にしていることは、自分で言っている。一方、競争的教育政策を推進していることも間違いない。だから、何も直接的に目指さなくても、格差が拡大する一方で、借金を背負う若者が増えていくに決まってるから、自然に「経済的徴兵制」になっていくのである。

 そこで、学校の教員は抵抗できるだろうか。戦後の教員労働運動は「教え子をふたたび戦場に送らない」を合言葉に国民的共感を得ていた時代がある。しかし、もはや組合組織率は3割程度しかない。それなのに、何かに付けて「教員組合による偏向教育」を持ち出す人々がいつまでもいるのだろうか。例えば、最近問題になっている自民党の武藤貴也議員の発言でも、「戦後教育」が悪いんだと言っている。国民の平和感情に基礎を置く、戦後教育の「平和主義」の内実も試されているのだと思う。

 今の状況では、学校が自衛隊に直接に生徒情報を伝えるなどという法律は、日本では作れないだろう。だけど、自衛隊に違和感を持たないような教師も増えている。横浜市では、「予備自衛官」の中学教師が夏休みの社会科学習として、陸上自衛隊の「富士総合火力演習」に参加する生徒を募集するといった事態が起きている。(ちなみに、この教師は参加申し込みのプリントに、育鵬社の公民教科書を引用して「平和主義の学習」としているらしい。横浜では5日に、ふたたび育鵬社の教科書を採択した。)昨年も陸自を見学し、横須賀の海上自衛隊に行った年もあるという。予備自衛官というのは、昔の「予備役」と同じようなもので、「非常勤の防衛省職員」で、手当も出るという。そんな教師が社会科を教える時代になっているのである。
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「経済的徴兵制」がやってくる①

2015年08月05日 23時25分32秒 | 政治
 「経済的徴兵制」ということを書くと書いたのは、もう一月近く前の7月10日のことである。大分時間が経ってしまったけれど、「徴兵制」に関してはその後いろいろ議論する人もいるし、一度まとめて書いておきたい。徴兵制というものについて、日本ではちゃんと認識されていないと思うからである。日本国民はアジア太平洋戦争で約310万人の犠牲者を出したと言われている。その大部分が非常に無理な形で徴兵された兵士だった。どこで死んだか、遺骨も戻らないまま、戦死の公報だけ届いたような数多くの兵士がいた。都市空襲なども恐怖だったけど、徴兵で「お国に子どもを取られた」という深い悲しみと恐れ(と場合によっては怒り)の感情が今も残り続けている。

 だから、戦後の日本では徴兵制は絶対的なタブーに近い扱いを受けてきている。まあ、戦力を持たないはずの日本で、徴兵制を実施できるはずもないわけだが。だから、戦力不保持を定めた日本国憲法では、徴兵制に関しては何も規定していない。政府は憲法18条で禁止されている「苦役」に当たるという解釈で、「徴兵制は違憲」としてきた。でも、今回の集団的自衛権をめぐる解釈変更のように、無理に無理を重ねた(と思える)解釈変更ができるんだったら、徴兵制を苦役とする解釈を変更する方がずっと簡単だろう。だからこそ、徴兵制が心配だというような意見が出てくるわけである。

 しかし、今、「徴兵制が敷かれる」という事態は起こり得ない。戦争や徴兵制に関して、現代戦に適合した認識をしていれば、そういうことになると思う。しかし、それは別に「良いこと」ではない。むしろ「悪いこと」だろう。正規の兵士として、戦死・戦傷した場合は、国家による補償、恩給の対象になる。だが、「民間軍事会社」で働いて死傷しても、わずかの弔慰金だけで済まされるかもしれない。「戦死」なら大きく報じられて遺族も同情されるだろうが、「民間軍事会社」の犠牲は発表もされず秘密扱いを受け、遺族にも詳しいことは知らされないことも起こるだろう。

 今、世界の主要国で徴兵制を取っている国は、だんだん少なくなっている。ロシアや韓国、ベトナム、ギリシャ、トルコなどで採用されているが、歴史的な理由で「国民に軍事的警戒心を持たせる」という必要性が高い国が多い。日本でも「不甲斐ない現代の若者は、強制的に自衛隊に入れて鍛え直すべきだ」的なことを言う人が時々いる。そういう「国民教育」的な意味で、日本でも徴兵制(というと大問題になるだろうから、「自衛隊の体験入隊者を大学入試や就活で優遇すべきだ」的な意見)を主張する人は、今後も出てくることが予想される。

 現実的には、宣伝の意味がある短期の体験ならともかく、大々的な徴兵制など、自衛隊の方でも迷惑だろう。現代戦では、湾岸戦争やイラク戦争に見られたように、先にミサイル攻撃を繰り返し、その後になって地上軍が短期間進攻する。まあ、日本はアメリカ軍に協力するんだろうから、今はアメリカ軍の戦略を例に挙げた。もちろん、中国やロシア、あるいはアメリカと本格的に戦争しようとでも言うなら、とんでもない大兵力が必要になり、徴兵でもしないと集められないと思う。でも、アメリカ軍にくっ付いて協力するということなら、徴兵制を必要とするほどの大軍はいらないはずである。

 昔の戦争は「人海戦術」である。大軍で直接の肉弾戦を行う場合もある。日露戦争の奉天会戦では、日本軍24万、ロシア36万の60万もの大軍が戦ったという。また、1941年、独ソ戦直後に、日本も対ソ開戦を想定して関東軍に大動員をかけた「関東軍特種演習」では70万もの大戦力が集結した。これほどの大戦力は、徴兵で強制的に集めないとできることではない。逆に言えば、戦争が双方の陸軍どうしのぶつかり合い、あるいは戦艦どうしのぶつかり合い、つまり「空軍以前」の戦争にこそ、徴兵制が必要なのである。現代戦では、専門的な高度な技量をもつ少数の専門家と、その下で働く実動部隊が整備されていればいい。大企業と同じである。正社員は限りなく少なくし、派遣社員と外部の下請けが多くなる。軍隊も同様で、必要なのは「徴兵された正社員」ではなく、外部化された下請け、つまり「民間軍事会社」の方である。

 また、徴兵となると、誰が入ってくるかわからない。全員に徴兵検査をして、体力に優れたものだけ取ることになるが、その準備だけでも大変。国民の半分以上が今の安保法制に反対しているんだから、高齢の女性の方が反対が強いと言われるけど、若者にも当然反対派がたくさんいる。自衛隊の中で反戦運動を始めるような「危険分子」が紛れ込みやすい。国家と国家の「正式な戦争」はほとんどなく、今は「対テロ戦争」が主流となっている。どの国でも大変なのは、軍内にテロリストが入り込むことである。軍隊や警察内のテログループが、国家首脳を襲う事件は時々起きる。もちろん、テロリストは志願して入ってくることが多い。でも志願者だけを調査すればいいのに対し、徴兵なんてことになれば、若者全員の思想、宗教を調査しないといけない。ムダだし、無理である。そりゃあ、そういうことをしてみたいと夢想する「国家至上主義者」みたいなものもいるとは思うけど。

 ところで、それ以上に、徴兵制ができない理由がある。それは「徴兵制の平等性」である。これは次回に続けるが、徴兵制とは基本的に「身分制度」を打破した国民国家を作るものである。平時では、同世代の全員は軍隊にいらないから、抽選で軍隊に入営する人としない人が出た。しかし、戦争が激化すれば同世代の大部分が召集されたのである。都会に住んでいる学生なんかも、本籍地の郷里で徴兵検査を受けないといけなかった。都会には学生が多いが、地方の軍隊には高学歴者は少ない。当時は大学生なんかごく少数だから、軍隊では私刑の対象にされやすかった。軍隊は社会の各階層の「るつぼ」だったわけである。いろいろな「戦友会」の思い出などを読むと、一つの部隊に農家や商人、公務員もいれば、都会で働くホワイトカラーもいる。一生会うこともなかっただろう人々が、軍隊で知り合いになったわけである。

 今の与党の議員を見てみれば、親や祖父が国会議員だったという人が多い。そういう二世、三世議員からすれば、自分は一種の特権階級であって、親の秘書などを経て議員に当選した。やがて自分の子どもにも継がせたい。そんな自分や自分の子どもが戦地に行くことなど絶対にないはずが、徴兵制度なんかできれば、うっかり抽選で当たりかねない。徴兵を逃れたりすれば、国民の義務を逃れた過去があると、後々の選挙で問題にされかねない。「貧しい国民が自ら志願して軍隊に入る」というのが「彼ら」には望ましい。自分たちのような特権階級が軍隊に取られかねない「徴兵制度」など、今の保守党の議員が通すはずがないのである。では、軍隊(自衛隊)はどのように維持されていくべきだと「彼ら」は考えるだろうか、それは次回に。
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加藤武、南部陽一郎、竹前栄治、オマー・シャリフ等ー2015年7月の訃報

2015年08月04日 23時38分21秒 | 追悼
 俳優で文学座代表だった加藤武(7.31没、86歳)の急逝には驚いた。7月に朗読会の公演があって、行こうかなと思いつつ見送ってしまったからである。いやあ、まだまだ見られると思っていたのに。麻布中・高で小沢昭一、フランキー堺、仲谷昇らと同窓で、早稲田大学で今村昌平、北村和夫らと同窓だった。みな、亡くなってしまった。新文芸坐で小沢昭一の追悼特集があった時に話を聞いたが、惜別の念の深さを痛感した。いろいろの映画にも古くから出ているが、僕にとってはリアルタイムで見た「仁義なき戦い」シリーズである。打本組長という難役があまりにも印象的だった。近年になって見なおした今村昌平の「果しなき欲望」という初期の映画も、加藤武の他、小沢昭一、殿山泰司、西村晃、渡辺美佐子の5人が戦後の隠匿物資の宝探しで争いあう。これだけのくせ者演技合戦は滅多にない。
(加藤武)
 鶴見俊輔氏の訃報はその時に書いたけれど、長命だったことで「思想の科学」創刊メンバーはみな亡くなっていた。だから追悼文は年齢の離れた人が書くことになる。一方、物理学者の南部陽一郎(7.5没、94歳)は、長命だったことで、2008年にノーベル賞を受賞できる機会が巡ってきた。ノーベル賞級の業績をたくさん挙げた日本出身の学者がアメリカに行ってるんだという話は、物理学に縁の遠い僕も知っていた。だけど、ノーベル賞は「ナンブ」を通り過ぎてしまいかけていた。この人は、1942年という戦争真っ盛りの時期に、29歳で大阪市立大学教授になった。東京生まれだが、湯川秀樹が大阪帝大にいたのである。湯川は1934年に中間子論を発表し、1943年に文化勲章を受けている。アメリカに「頭脳流出」する前に、東京から大阪に行っていたのである。ノーベル賞受賞後に大阪市立大と大阪大の特別栄誉教授を務め、亡くなったのも大坂だった。
(南部陽一郎)
 写真家の大竹省二(7.2没、92歳)は女性写真の名手として、かつては非常に有名な人だった。長命ゆえに、ちょっと忘れられたかもしれない。経済学の青木昌彦(7.15没、77歳)は、60年安保当時は、全学連の理論派だったが、その後近代経済学に転身して、世界的に重要な業績を挙げた。そのことは知っていたけど、中味は判らない。建築評論家の川添登(7.9没)は今和次郎とともに生活学などを提唱していたので、昔少し読んだ。黒川紀章らとともに結成した集団が「メタボリズム」だったという命名には時代を感じる。「有機的に代謝する都市」という意味である。女性運動家で元参議院議員の紀平悌子(きひら・ていこ、7.19没、87歳)は市川房枝の秘書を長く務め、日本婦人有権者同盟を支えてきた人。市川房枝が生きている間は、どうしてもその陰という感じがした。その後、89年の与野党逆転した参院選、リクルートや消費税のあの参院選で当選して1期務めた。ビックリしたのは、佐々淳行が実弟だったということで、訃報で初めて知った。

 元社会党委員長の田辺誠(7.2没、93歳)、ジャズピアニストの菊地雅章(きくち・まさぶみ、7.7没、75歳)、被差別民などの研究者、沖浦和光(おきうら・かずてる、7.8没、88歳)、ジャズ評論家の相倉久人(7.8没、83歳)、落語家の入船亭船橋(7.10没、84歳)など、そういえばそういう人がいたなあ、読んだり聞いたりしたなあという名前。映画監督沖島勲(7.2没、74歳)は、「日本昔ばなし」ばかり書いてあるが、若松プロで「ニュー・ジャック&ベティ」という伝説的なピンク映画を作った人である。ちょうどラピュタ阿佐ヶ谷のレイトで特集をしていたが、見てない。国際問題研究家という肩書で載っていた北沢洋子(7.3没、82歳)は、PARC(アジア太平洋資料センター)を設立し、アフリカ問題等でよく発言していた。昔はよく名前を聞いた人だった。昔の名前と言えば、占領史研究の先駆者、竹前栄治(7.14没、84歳)という名前は、80年代ぐらいから現代史研究に関心を持っていた人には忘れがたいだろう。米国側史料を使った実証的研究を始めたと言っていいが、50代で失明して新史料発掘に取り組めなくなった。米国のマイクロフィルムを見続けたためではないかと言われていたと思う。失明後、身体障害者補助犬法改正にも尽力したと出ていた。元巨人のエース、沢村賞を二度受賞した高橋一三(7.14没、69歳)の名前も、忘れられない名前。83年まで現役だったのか。

 外国では、「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のオマー・シャリフ(7.10没、83歳)、「ローズ・ガーデン」が大ヒットしたアメリカの女性カントリー歌手、リン・アンダーソン(7.30没、67歳)の訃報が目についた。中国の元全人代委員長の万里(7.15没、99歳)も長命だった。天安門事件時の全人代委員長だったが、鎮圧時にはカナダ訪問中だった。文革で二度失脚し、76年に復活し、「改革派」と言われていたが。
(オマー・シャリフ)
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首相の深きニヒリズム-安倍的表現③

2015年08月02日 22時39分03秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍首相動画による説明を自民党のサイトに掲載してるんだという。見る気も起こらないので見ていないが、(だから中身の批判をする気はないが)、マスコミ等の記事によると「アベ君とアソウ君」が出て来るんだそうだ。アベ君を殴ってやろうという「不良グループ」がいて、力の強いアソウ君が一緒に帰って守ってくれることになった。そのアソウ君が襲われなぐられていても、アベ君は助けに行けなくていいんだろうか…とか言う話らしいんだけど、ホントにこんなおバカなたとえをしているの?ちょっと常識的には考えがたいと思うが、そこがいかにも「安倍的表現」というべきかもしれない。

 ここで一番不思議なことは、「公的機関」がどこにも出てこないことである。火事のたとえをしていて、「消防署」が出てこないのと同じである。火事なら「119番」しましょう。不良に襲われそうなら、警察に相談しましょう。アベ君もアソウ君も学校に行っているらしいから、学校の先生に相談しましょう。ごく普通の庶民だったら、たとえ話をするときには、そういった公的機関を利用すると思う。たとえば、子どもを注意するときなら、「そんな悪いことをしてると、警察に捕まっちゃうよ」とか。それが望ましいかどうかは別だが、日本のように高度に発達した社会では、多くの物事がシステム化されてしまっている。だから、学校で勉強し、具合が悪ければ病院に行き、犯罪にあったら警察に言う。どれだけ頼りになるか問題もあるし、システムそのものを問い直すことも大切である。
 
 だけど、そういうことを言いたいのではなく、「普通の一般国民」向けに「たとえ話による説明」をするんだったら、そういう「公的機関」を持ち出す方がずっと理解されやすいし、今まではそうしてきたと思う。火事なら「消防署」に協力しましょう、襲われそうなら「警察」に相談しましょう。この消防、警察とは、つまり「国連」のことだが、そうやって「国連の活動」に協力しましょいうという枠組でたとえ話をするなら、国民の反発も少ないはずである。だけど…安倍首相はそういう、今までの「保守」が掲げていた「国連中心主義」に何の未練もないようである。

 そこにあるのは、むき出しの「力による自力救済」という「中世的世界」である。だから、「強いものに付くしかない」ということである。「アメリカ」と「中国」という、いわば「源氏」と「平家」のような世界認識。あるいは、東に今川、西に織田に囲まれた三河の松平(徳川)はいかに生き延びるか。そういう世界に生きているのではないかとさえ思う。だけど、これは世界史認識として完全にずれているだろう。だから、「中国を危険視する」ばかりではなく、「中国とは国際秩序と人権という枠組で変化を促す」といった発想ができない。なんで、そうなるんだろうか?

 首相の孫、外相等歴任政治家の子どもという、まさに日本の権力者中の権力者のど真ん中、権力のインナーサークルの中で育ってきたのが、今の首相である。「公的機関」、たとえば「警察」なんか、実は中立的なものではなく、権力者が使うものだとしか思ってないのではないか。自分が使う手足でしかないものに、「相談する」という発想は起こらない。学校も同じである。親が選んだ私立の付属小学校から始まり、一回も他の学校を受験した経験がなく、大学まで行っている。「公的機関」の持つタテマエ性を信じてきたことがなく、実は「すべては力による支配なんだ」と教えられ、また自分でも思ってきたのではないだろうか。だからこその、「深いニヒリズム」。だから、たぶん「アメリカに協力する」という形で進められている安保法制整備だが、「アメリカ」も信じていない。強い間は付いて行くしかないという、それが世界なんだという認識だろうと思う。でも…そういった「安倍的世界観」から抜け落ちているものは何だろうか。そういうものを見つけている人なら、「安倍的表現」に惑わされることもないはずだ。そういう意味で、「日本人の底力」も試されている。
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