尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

宮部みゆき「ペテロの葬列」

2016年05月11日 00時34分24秒 | 〃 (ミステリー)
 昨日は外国ニュースを書こうと思い、米大統領選にしぼって書いていたら、自分でも信じがたいミスをして全部消してしまった。資料を調べていて12時を過ぎてしまい、早く終わりたいという気持ちが強すぎた。もうなんだかトランプ現象などを書く気が失せてしまったけど、資料は面白いと思うので、いずれそのうちに。先に宮部みゆき「ペテロの葬列」(文春文庫、上下)を書いておきたい。
 
 宮部みゆきはずいぶん読んでいるが、最近は長すぎるものも多く、文庫で読めばいいやと思ってしまう。映画を見た「ソロモンの偽証」はやっぱり読もうかと文庫全6巻を買ってしまった。(図書館では順番がめぐってきそうもないので。)でも、やっぱり長くて、先に4月に文庫化された「ペテロの葬列」を読んだ。こっちも長いけど、面白くて止められない。そういう本は連休などにふさわしい。

 この小説は、「杉村三郎シリーズ」の三冊目。「誰か」という最初の本の段階では、こういう「大河小説」になるとは予想できなかった。2作目の「名もなき毒」が素晴らしい作品で、現代日本を描く大河小説の風格が出て来た。そして、次が今度の「ペテロの葬列」。最後の最後で、主人公に予想もしない転機が訪れる。とっても驚いたが、このシリーズは今後も続いていくようだ。

 大規模なテロとか、連続大量殺人とか、絶対に日本で起こらないとは言えないけど、自分が経験することは多分ないと思う。ミステリーやドラマの中では、毎日のように殺人が起こっているけど、殺人などの犯罪は確かに日本は少ない。でも、「職場の中の変な人」(「名もなき毒」)とか「詐欺みたいな電話」(「ペテロの葬列」)はけっこう多い。それなら自分も経験があるという人が多いだろう。実は全国の男性教師のほとんどは、一度は家に変な電話をかけられているのではないか。(生徒や職員と問題を起こしたが、今なら示談で済みそうなのでとかなんとか。僕のところにもあったらしいが、「教頭」と名乗った時点でもうアウトである。理由は東京の教員なら判るはず。)

 さて、杉村三郎シリーズは、そういう「ちょっとした犯罪」を扱うが、奥はものすごく深い。杉村という人は、好きになった女性が、実は「日本を代表するコンツェルン会長の愛人女性の娘」だった。結婚の条件として、児童書の編集者を辞めて義父の会社に入り、広報誌の副編集長をしている。だけど、時々会長の特命で「調査」という名の探偵みたいなことをすることがある。という絶妙のポジションで、会社と妻の一族を通して日本社会を見ている。

 今回はその編集の仕事で、引退した財務担当元重役のインタビューを取りに、編集長とともに千葉まで出かける。その帰りにバスジャックに合う。このバスジャック犯が奇妙な人物で、何となく乗客の気持ちをつかんでしまう。が、いつもは気丈な女性編集長が何故か途中から様子がおかしい。ということで、このバス内には老若男女相集い、そこで現代日本の縮図ともなっている。バスジャック事件の描写は緊迫したもので、どうなるどうなると思いつつも、やはり決着は訪れるわけである。だが、それで本はまだ上巻の半分程度。残りが4分の3もあって、一体どうなるんだろう。心配することもなく、実に破天荒な展開となっていくのである。まあ、少し書いてしまうとバス内で「冗談」のように語られていた「乗客への慰謝料」が本当に送られてくるのである。

 一体、犯人の真の素性は何なのか。杉村の調査が始まる。そうすると、この事件がある「大規模詐欺事件」と関わっているらしいことが判る。そして詐欺集団の黒幕として、昔の「企業戦士」を作るためのトレーニングに関わりがあるらしいことも。「人格改造」トレーニングなどが今も昔もあるが、そのような「人を思いのまま動かす」スキルをインチキ商法などに利用した人物がいたという設定である。いかにもホントらしい。そして、マルチ商法みたいなやり方の場合、「被害者であり加害者」という立場もある。自分もトータルとしてはつぎ込んだ金が戻ってないけど、その過程で友人知人を多数引き込んでしまい「加害者」でもあるような人である。この小説は、詐欺をめぐる重層的な人間模様をじっくり考える。

 ストーリイ展開に乗せられてあっという間に読んでしまうが、実に面白いと同時に怖い。昔「豊田商事事件」というのがあった。老人をだましていく悪徳商法が問題となったが、そのさなかに肝心の会長が「右翼」を名乗る人物2名により刺殺された。その場面がテレビで撮影されていたという衝撃的な結末だった。1985年のことである。大分昔になるから、この小説の中の杉村もよく覚えてないと語っている。皆がよく知っていた事件もどんどん忘れられる。そして人をだます手口は巧妙化して無くならない。

 その意味で、ミステリーとして面白いという理由ばかりではなく、このような「詐欺商法」をちゃんと知っておくためにも、ぜひこの本を若い人に読んで欲しい。そして、ミステリー以外の「人間観察」面で、老人も若者も、中小企業経営者も大学中退青年も、この小説は実によく書けている。人生で出会う人の数は限られる。本や映画を通して、自分の人間観察の技量を磨いておくほうがいい。上下巻合わせて、1390円。これを勧めても詐欺にはならない。元は十分取れる。
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哲学堂公園

2016年05月08日 23時21分33秒 | 東京関東散歩
 散歩コースとして、最近は山手線の高田馬場、目白から西へ行ったあたりを歩いている。ほとんど全く知らない地域なのだが、近代日本の文化に大きな意味を持ったところだと判ってきた。池袋や新宿に近いので、映画の前後などに行きやすい。落合あたりの散歩は別にまとめるとして、5日に行った哲学堂公園を先に。地名としては中野区になり、新宿区との境目になる。駅としては、西武新宿線新井薬師駅(西新宿から4つ目)から北へ10分ほど歩いたところ。

 このあたりは、妙正寺(みょうしょうじ)川という杉並区荻窪の北方から流れる川に沿って、北側が丘になっている。駅から少しづつ坂になっていて、やがて妙正寺川に出ると、そこが公園の端っこ。結構緑豊かなところで驚く。「哲学堂」というのは、その不思議な名前とともに、昔から気になっていた。今は野球場やテニスコートもあって、全体としては区民の憩いの場所のようだった。連休中は建物の中が公開されるということで行ってみたが、あまりにも快晴の日で逆光だと写真がよく撮れなかった。

 前に湯島を散歩した時に、明治時代に井上円了なる人物に関連する「東洋大学発祥の地」という碑を見た記憶がある。その井上円了(1858~1919)は明治の仏教哲学者だが、哲学を中心とした「哲学館」という教育施設を作った。それがやがて哲学館大学となり、今の東洋大学になるという。一方で、哲学の理解を深める精神修養の場として、1904年に「四聖堂」という建物を建てた。もともとはそれが「哲学堂」と呼ばれ、公園の名前となった。その後、近くにいくつもの建物が建ち、まとめて「時空岡」という名前の場所となっている。

 新井薬師駅方面から行った場合、川を超えて坂を登っていくことになる。ここでは門の方から写真を載せておきたい。その門は「哲理門」という。何でもかんでも哲学風の不思議な名前が付いている。そこから入ると、「六賢台」という塔や「四聖堂」がある。最初に出来た「四聖堂」とは孔子、釈迦、ソクラテス、カントのこと。「六賢台」の方は、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅仙(かびらせん=古代インドの哲学者)のことを指すという。写真の最後が井上円了。
   
 その一帯、「古建築エリア」(時空岡)には、他に「絶対城」(昔は図書館だった)や「宇宙館」(講義室)、「無尽蔵」(展示施設)などがズラッと出来ている。また、少し登ると「三学亭」。神道、儒教、仏教の三学を指し、三角形で出来ている。
   
 上の写真は、左から「絶対城」「宇宙館」「無尽蔵」「三学亭」。せっかく中を見られる日をねらって行ったのだが、中の写真がうまく撮れてないのでカット。それにまあ、ものすごく面白いものがあるわけでもない。建物の写真も真正面からのものが少ない。5月になると、日が長くなって散歩日和になるが、快晴だと暑くて陽光も厳しい。写真を撮るには曇りの多い6月の方がいい。それにしても、「絶対城」とか「宇宙館」とか、実に不思議な名前の建物が並ぶ。なんだかミステリーに出てきそう。綾辻行人作「絶対城殺人事件」とかなんとか。
    
 上の最初の写真は「時空岡」の風景。うまく全体が撮れない。ちょっと最初に戻ると、2枚目は公園の端の池。3枚目は妙正寺川。川が案外深く、脇に続く公園に入ったところ池がある。昔の哲学関係の建物だけと思っていたら、このように庭が広い。そして実はそこにも哲学風の名前が付いている。ところで、新井薬師駅は初めてかと思ったら、そうではなかった。駅近くに東亜学園があって、昔学校説明会に来たではないか。もう場所は忘れていたけれど。

 さて、ここにはもう一つ、哲学関係の不思議な場所がある。「時空岡」を降りてくると、「唯物園」「唯心庭」などまた哲学名前の場所がある。そして川を超えたところに「哲学の庭」というところが作られている。そこに多数の彫刻が置かれている。ワグナー・ナンドールというハンガリーの彫刻家が造った彫刻で、同じものがブダペストにもあるという。歴史上の重要人物が何人も置かれている。実に面白く、不思議なところ。世界の公園の中でも屈指の不思議な場所だと思う。
  
 一人ずつ見てみると、下の写真の左から聖徳太子、ハムラビ(古代バビロニアの王、ハムラビ法典をまとめた)、ユスチニアヌス(ローマ法の集大成)、聖フランシスコ、達磨大師、ガンジー
     
 続いて、左から老子、エクナトン(エジプト第18王朝第10代の王アメンホテプ4世。アモン信仰を捨てアトン崇拝を開始した)、イエス・キリスト、アブラハム(ユダヤ人、アラブ人の共通の祖先とされる預言者。偶像崇拝禁止に配慮して顔を見せずに、神を拝しているところを彫刻にしているという不思議。)他に釈迦もあるが、時間的に逆光で黒くなってしまったのでカット。こういう人選はどうなんだろうか。これが「哲学の庭」でいいのかと思わないでもないけど、まあそれはヤボというものだろう。
   
 そして、元に戻って帰り道には「主観亭」(下の写真左)とか「概念橋」(下の写真右)とかいうものがある。他にもまだまだ面白い名前の場所が付けられた場所が並んでいる。やはり「哲学堂公園」なのである。まあ、東京にはこんな場所もあるんだというのが散歩の感想。
 
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サミュエル・フラーとジャンル映画

2016年05月07日 23時06分09秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ニュースの話に本の話、さらに季節が春を迎え散歩の記録と書きたいことがたまり続けているが、昨日まで3本見たサミュエル・フラー(1912~1997)の映画の話をまず最初に。サミュエル・フラーという人は、アメリカで低予算の戦争映画、西部劇、アクション映画などをたくさん作った映画監督である。それは「B級映画」と言われるような映画がほとんどだが、フランスで「カイエ・デュ・シネマ」に拠る若い批評家に「映画作家」として「発見」された。ゴダールの最高傑作「気狂いピエロ」(夏にデジタル修復版が公開される)に出演して「映画は戦場だ」と永遠に映画史に残る名セリフを残した。

 今度長い自伝が翻訳されたのを機に、連続上映が行われた。また昨年のぴあフィルムフェスティバル(PFF)で特集上映が行われた。連続上映が渋谷のユーロスペースで行われた時には行きそびれたが、連休中に池袋の新文芸坐でレイトショーで上映された機会に、3つの映画を全部見た。これがやっぱりとても面白い。去年のPFFでも何本か見たけど、やっぱり面白かった。この面白さは何なのだろう。(なお、「自伝」は6千円もする分厚い本なので買ってない。)

 昨日見たのは「チャイナ・ゲート」(1957)。これは映画のジャンルとしては、インドシナ戦争中の露骨な反共戦争映画である。中国からベトナムへ入る国境の町。そこに「レッド・チャイナ」から支援された武器を収めた倉庫がある。これを爆破する命令を受けた外国人部隊の話。まだアメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」以前の時代で、植民地の宗主国フランス軍がホー・チ・ミン率いる「ベトミン」と戦っている。この映画にあるように、またグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」に描かれているように、実は50年代からアメリカはこの戦争に深くコミットしていた。

 そういう意味でも興味深いけど、もちろんこの映画の魅力は別のところにある。作戦を指揮するアメリカ人ブロックは、現地の案内人として混血のリア(「ラッキー・レッグズ」(幸運の脚)とあだ名される)を雇うが、二人は実は前に結婚していた過去があった。しかし、生まれた子どもが母の中国系の顔立ちを受け継いでいたために、ブロックは妻を捨てたのである。今回リアは息子をアメリカに送ることを条件に作戦に協力することにした。という「過去の因縁」を抱えつつ、ここで敵味方を超えて商売してきたリアの巧みな案内で彼らは兵器庫に近づいていく。中越国境がメコンデルタみたいでおかしいが。

 その戦争映画的展開も結構演出が冴えているが、やはり目玉はリアを演じるアンジ―・ディキンソン。「リオ・ブラボー」に出ていた、あの女優。後にバート・バカラックと結婚した。(その後離婚。)なんで「混血」(フランス人の父と中国系の山岳少数民族の母らしい)なんだと思うが、実際「幸運の脚」を披露しまくり、しかも完全に中国系の男の子の母という役。一行の中には、アメリカ出身の黒人兵もいて、そのゴールディはなんとナット・キング・コールが演じている。僕は大好きで何枚もCDを持っているが、こんな映画に準主演していたとは。そしてヴィクター・ヤングの作った主題歌も歌っている。「チャイナ・ゲイト」と低音で歌う声が耳について離れない。

 「戦争映画」、それも「反共」を掲げた安手の「ジャンル映画」なんだけど、実際の印象は人種問題をテーマにした心理サスペンスである。「アジア」と「人種差別」はフラーが長くこだわり続けるテーマ。「ホワイト・ドッグ」という黒人を襲うように躾けられた犬という過激な発想の映画を後に作る。この映画の前には、「東京暗黒街・竹の家」という日本を舞台にした変てこな映画も作った。(ラストで浅草松屋の屋上にあった屋上遊園地が出てくることは川本三郎氏が紹介して有名になった。)それは昨年のPFFで初めて見たが、全く変な映画だった。

 「チャイナ・ゲート」だけで長くなってしまったが、最初に見た「裸のキッス」(1964)もすごい。都会で体を売っていた女がすべてを清算して田舎の町に降りる。一日だけ警官と付き合うが、その後病院で身体障害児のケアをする仕事を得る。そこで認められ、病院の経営者、この町そのものを作った一族の名門に見初められる。こうして幸福な玉の輿が訪れるかと思ったら…。この女性を演じるコンスタンス・タワーズという女優が素晴らしく、冒頭から目が離せない。テイストは明らかにB級の心理サスペンスなんだけど、演出が冴えている。完璧に映画に心をつかまれてしまう。

 「ショック集団」(1963)になると、新聞記者による犯人探しという「ミステリー」というジャンル映画の枠を借りた、完全に独自なシュルリアリズム映画になっている。何しろ、事件は精神病院で起こり、そのため記者は自分も精神病を詐病して入院して真相を突き止めようというトンデモ映画である。3人の目撃者をめぐる超現実的な映像を散々展開している。(アジアの兵役経験のある患者には、鎌倉大仏の映像が出てくる。「東京暗黒街・竹の家」を撮影した時に自分で撮りためていた16ミリフィルムだという。)精神を病む黒人青年は、なんと自分がクー・クラックス・クランになって黒人を迫害する幻想を抱いている。ここでも「人種」という問題が出てくる。そして、やがて記者本人にも精神の破綻が訪れ、犯人を突き止めてピュリッツァー賞を得た時には人格が崩壊している。という展開はやはり「精神疾患」への誤解のようなものがうかがわれる。とはいえ、やはり「ジャンル映画」の枠を借りて突き抜けてしまうという、いかにもフラー映画らしい作品には違いない。

 去年見た「ストリート・オブ・ノー・リターン」(1989)はフラー最後の作品で、公開当時見逃したのだが、やはり「メロドラマ」の枠を借りた男の復讐譚が見事に描かれている。暗黒街のボスに復讐するために、人種暴動の起こる街を駆けめぐるキース・キャラダイン。ボスにのどを切られて、人気歌手が声を出せなくなったという設定もすごい。フラーの場合、作られた映画はほぼ「ジャンル映画」と言ってよい。ごく一部の監督を除き、商業映画はまずペイするために、娯楽映画のさまざまなジャンルの一つとして企画される。時代劇、西部劇、メロドラマ、青春ロマンス等々。そして、特に昔は映画興行を維持するために、面白い映画を早撮りする監督に需要があった。大作がこけたり、製作延期になったりしたときに、観客を満足させる小品映画も無くてはならない。2本立てなら、一本は大スターが出る映画で、もう一本はB級スターが出る映画。

 だけど、時にはそういう映画の中から、「ジャンル映画」を極めて突き抜けるような作品が出てくる。映画祭やベストテン、あるいはヒット・ランキングなんかではスルーされるけど、そういう映画を「発見」することは映画ファンの喜びである。日本映画だと、鈴木清順の映画「けんかえれじい」とか「刺青一代」なんか。あるいは中川信夫の「東海道四谷怪談」。若松孝二のピンク映画時代、「犯された白衣」「胎児が密漁する時」なんかもそうだろうか。清順の「東京流れ者」や「殺しの烙印」になると、ジャンル映画の自己パロディになる。ジャンル映画(あるいはジャンル小説、ジャンル漫画など)は、展開がパターン化しているから、ある程度極めると自己パロディをするか、「A級」になりたくなるんだろう。でも、サミュエル・フラーは一貫して「B級映画作家」だった。そこが凄い。実際、一度見始めると眠気を覚えない展開が続き、これが映画だという感じを覚える。
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安丸良夫、若宮啓文、戸川昌子、プリンス等ー2016年4月の訃報

2016年05月05日 21時35分25秒 | 追悼
 2016年4月の訃報特集。4日に安丸良夫氏の訃報が伝えられた。81歳。日本近世・近代の民衆思想史研究をリードした人である。新聞には載ってなかったけど、ウィキペディアによると、2月に自宅前で交通事故にあい、入院中の病院で亡くなったとある。「出口なお」「日本ナショナリズムの前夜」「神々の明治維新」など、ちょうど学生時代に刊行された本は僕も夢中になって読んだものである。出口なおという人は大本教の開祖だが、京都へ旅行した時に大本教の本部に行ったこともある。

 70年代頃に大きな影響力を持った「民衆史」研究の代表的な研究者で、特に幕末から明治初期の民衆倫理を深く追求した。その後、90年代以後は天皇制や現代社会へと関心が深まっていった。「民衆史」という言葉は、今では当時のような輝きは呼び起さないかもしれない。今では「民衆」の心性を研究対象にするなど当たり前のことだから。

 ところで、朝日は「戦後の歴史学界リード」と見出しに書いている。ちょっとビックリ。まあ、2015年を「戦後70年」と呼んだのだから、その間は全部「戦後」なのか。そのうち、ピンク・レディやサザン・オールスターズや中島みゆきを「戦後を代表する歌手」と書くようになるのかもしれない。安丸氏の世代は、60年代半ば以後に活躍した世代。東京五輪も終わり、「もはや戦後ではない」。戦後の歴史学界をリードした学者だったら、日本史なら石母田正や遠山茂樹などの名を挙げるべきだろう。

 朝日新聞の元論説主幹、主筆の若宮啓文(わかみや・よしぶみ)氏が滞在中の北京で客死したという報にはビックリした。28日没、68歳。2013年1月まで主筆として朝日で執筆していた。僕は若宮さんの本は昔から読んでいて、「ルポ 現代の被差別部落」や「忘れられない国会論戦」(中公新書)は名著だと感服した。その後「戦後保守のアジア観」「和解とナショナリズム」などのアジア関係の考察が中心となっていく。本業としては、ワールドカップの日韓共同開催を提案したり、読売のナベツネとともに小泉首相の靖国参拝に反対の論陣を張ったりしたのが記憶に残る。

 右からも左からも批判されたし、僕もこれはどうかと思う時もないではなかった。最終的に「保守リベラル」という朝日の正統に拠ったことで、「批判されやすいポジション」を自覚的に選び取ったのだと思う。若宮氏が朝日に書いた最後の文が、たまたま新聞を整理していたら見つかった。2013年1月12日(土曜日)の紙面である。1面の主筆としての記事は「『改憲』で刺激 避ける時」とある。また15面の「私の見た政治の40年」という大きな記事では、「和解と摩擦のアジア外交に危機」「日米中は心を開き大きな図描け」と見出しにある。長くなるから見出しだけにするが、そこから揺るぎなく発言を続けたことは評価するべきだと思う。まだ68歳だから、あと10年は生きていて欲しかった。

 シャンソン歌手で推理小説作家、戸川昌子(4.26没、85歳)は、歌手として活動しながら、江戸川乱歩賞を「大いなる幻影」で受賞した。その後「猟人日記」が直木賞候補になり、中平康監督により映画化された。本人も出演している。評論家というか、ラジオ・パーソナリティの秋山ちえ子(4.6没、99歳)は、1957年から2005年まで自分のラジオ番組で活動した。その後も2015年まで8月15日に「かわいそうなゾウ」の朗読を続けていた。時代的、時間的に僕はあまり聞いたことがなくて、名前で知っていたような存在の人。「平和」を語り続ける人がまた一人亡くなった。
 
 アメリカの歌手、プリンス(4.21没、57歳)は、グラミー賞を7回受賞しているという。だけど、70年代後半から80年代というのは、僕がもう「洋楽」を聞かない時期になっていて、はっきり言ってあまり知らない。というか、聞いていてもよく判らないというべきか。

 「連合」ではもう通じないかもしれない、日本労働組合総連合会の初代会長、山岸章(4.10没、86歳)。全電通、つまり電電公社の労働運動家から出発し、民営化されNTTになる時の委員長。総評、同盟などに分裂していた労働運動を「統一」した(逆に言えば、共産党系を排除した)ことで、(宗教組織を除けば)日本最大の運動体を率いることになった。89年の参院選挙以後、非自民政権樹立に関わったこともある。まだ労働運動が力を持っていた時代の最後のリーダーかもしれない。

 声優の大平透(おおひら・とおる、4.12没、86歳)は、僕には「スパイ大作戦」のテープの声。懐かしい。プロ野球の巨人とロッテで活躍した山本功児(4.23没、64歳)はロッテの監督を99年から5年間務めた。もう忘れていたなあ。金子満広(4.18没、91歳)は、共産党の元書記局長。60年安保で活動し、70年代以後党中央で活躍した。ガイ・ハミルトン(4.20没、93歳)はイギリスの映画監督。007シリーズの「ゴールドフィンガー」や「ダイヤモンドは永遠に」などで知られるが、戦争映画「空軍大戦略」やアガサ・クリスティ原作の「クリスタル殺人事件」「地中海殺人事件」なども監督している。
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「帰ってきたヒトラー」

2016年05月04日 18時37分42秒 | 〃 (外国文学)
 2012年にドイツで大ベストセラーになった小説、ティムール・ウェルメシュ「帰ってきたヒトラー」。映画化され、日本公開されるのに合わせて、河出から文庫化されたので読んでみた。案外軽くて読みやすく、スラスラ読めてしまう本だった。面白いことは面白い。
 
 2011年、ドイツの首都ベルリン。ある夜に突然ヒトラーが目覚める。ヒトラーはドイツ敗北直前に自殺した(とされる)。1889年に生まれて、1945年4月30日に死んだ。遺体はガソリンを掛けて焼却されたとされる。だから、死体はない。連合国側に死体が渡るのを恐れたらしい。そこで、ヒトラーは生きているのではないか的な憶測も昔は存在した。でも、仮にどこかで生きていたとしても、もう自然死しているほどの時間が経った。120歳を超えて活動できるわけがない。だから、この小説では「どこかで生きていた」のではない。ガソリンをかぶったまま、なぜか「冷凍保存」みたいになっていて、突然よみがえる。

 小説は何だって可能なんだから、そうなっちゃったという前提で話が進む。アドルフ・ヒトラーが、当時のまま再来するのである。で、どうなるか。人々は「ヒトラーなり切り芸人」と思う。売れるためにそこまで整形するもんかねという感じ。「本名」はアドルフ・ヒトラーだけど、そこまでなりきって本名を明かさない本格芸人だと。テレビ局と契約し、番組に出て「ホンネトーク」すると、インターネットで大受けする。「ユーチューブに出ているんですよ!」「アクセス数が70万回を超えました!」

 こうして、一種の社会現象となっていくが、ネオナチに突撃取材し、タブロイド新聞と衝突し、襲撃されて入院する。ヒトラーも昔と違っていることをだんだん学んでいき、「インターネッツ」(なぜか「ネッツ」と思い込む)で活動を続けていくのである。その過程を「ヒトラーなりきり」の「ヒトラー目線」の一人称でつづっていくのが、この本。その「現代観察」のずれと、一種の「なるほど感」が面白い。

 例えば、昔ながらの一枚刃のカミソリが欲しい。慣れているのである。大体、携帯電話のように、一つの機械で何種類もの機能を持つというのが気に入らない。(なるほど、それは便利だと思うのは若い人で、「便利になればなるほど、扱いにくく不便になる」と高齢者が思っているのは世界中同じである。)だけど、周りの人間も入手できず、自分で買いに行くことになる。なんで「総統」自ら買い物に行かされるのかと怒りながら。そうして行ってみると、店員が少なく、自分で商品を見つけないといけない。おかしいと思うが、もう少し考えると、これは良いシステムだと思う。何故なら若者を商店で働かせずに済めば、その分国防軍で使えるからである。だが、調べてみると、軍隊は増えていない。では、若者はどこへ行ったのか…と果てしなくトンチンカン思考が続いて行く。どこへ行きつくかは自分で読んでください。この「変な味わい」が、まあ魅力。

 何しろ、「本物のヒトラー」なんだから、戦前の知識と感覚しかないわけである。そこで本気でトークすると、現代では過激なジョークとして機能する。その辺が、ヒトラーへの風刺と同時に、現代社会への風刺となる。だけど、外国人、特にトルコ人や東欧から来た人々への「偏見」がいっぱい出てくる。ユダヤ人への差別感ももちろん。現代ドイツが繁栄しているのを見て、やはり(「ドイツ人を搾取していた」)ユダヤ人をナチスが減らしたからだと解釈するのである。あまりにも突飛なので、それが「差別」だと誰も受け取らないレベルだとしても、これは「きわどすぎる」と感じる人もいると思う。そうした批判はドイツでもあったようだ。だけど、まあ、それは「風刺」なんだから、それが誰でも判るレベルだから、僕は問題はないと思う。だが、その分、「風刺小説」として軽くなっているのも確かだ。スラスラ読めて、それでおしまい的な感じもする。(イスラエルでも翻訳されたという。)

 作者は1967年生まれのジャーナリスト。ハンガリー難民の父とドイツ人の母の間に生まれた。自分が東欧系の出自を持つから、東欧出身者への「ヒトラーの蔑視」をも書けたということだろう。ジャーナリスト的な読みやすい文章で、よく勉強していることが判る。一種のジャーナリズム的な面白さの本だろう。
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映画「チャイナ・シンドローム」

2016年05月04日 01時00分12秒 |  〃  (旧作外国映画)
 1979年のアメリカ映画「チャイナ・シンドローム」を37年ぶりに再見。新文芸坐でサミュエル・フラーの旧作をレイトショーしている。自伝刊行に合わせてユーロスペースでやったのを見逃したので、ぜひ見たいのである。最初の「裸のキッス」も良かった。アメリカの優れたB級映画には、離れがたいテイストがある。今日も「ショック集団」を見るのに合わせて、昼間のクラシック映画特集で昔の「クレイマー、クレイマー」と「チャイナ・シンドローム」を見たわけである。

 ついでだから、「クレイマー、クレイマー」に触れておくと、さすがの名作だった。1979年のアカデミー作品賞。(監督、主演男優、助演女優、脚色賞も。)1980年のキネマ旬報ベストワンである。でも、離婚訴訟、女の自立、男の育児という、今では別に珍しくないテーマだから、今見るとどうなんだろうとちょっと心配だった。でも、やっぱり全然古びていない。まあ、ケータイ電話やパソコンはない。ダスティン・ホフマンの格好も70年代という感じ。でも、演出のうまさもあいまって、引き込まれてしまう。メリル・ストリープの最初のアカデミー賞受賞だったが、以後名前を忘れられない女優となった。

 さて、「チャイナ・シンドローム」。言わずと知れた原発事故映画。隠蔽しようとする電力会社とテレビで報道しようとするジャーナリストの闘いを描いている。「チャイナ・シンドローム」という言葉もこれで知ったと思う。メルトダウン(炉心溶融)の大事故のことである。溶けた核燃料が地球を突き抜けて中国に達するという「ブラックジョーク」だけど、よく考えてみると地球でアメリカの裏側は中国ではないではないか。(そもそも北半球の国の反対側は必ず南半球になる。)そんなことも気づかず、この言葉が一種の流行語になった。アカデミー賞の主演男女優賞にノミネートされ、日本でも79年のキネ旬9位に入っている。ビリー・ワイルダーの映画で記憶するジャック・レモンの渾身の演技が素晴らしい。
 
 ジェーン・フォンダが演じるテレビリポーターは、男性アナの添え物的扱いで、虎の赤ちゃんが生まれたとかそういうニュースばかり担当させられている。カリフォルニアの原発に取材に行ったのも、新原発の完成審査を前に、電力会社の宣伝を撮りに行くのである。だけど、コントロール・ルームを取材中に地震があり、その後、あわただしい動きを目撃する。撮影禁止だったけど、カメラマンのマイケル・ダグラス(若い!)は秘密で撮影してしまう。そのフィルムを報道できるのか、そもそも一体何が起こったのか。会社側とテレビ局の動きを追いながら、やがて「真相」に気づいた技師が会社に反逆する。

 地震そのものは非常に軽微なもので、最初はいくら映画でもこれで壊れるというのはどうなんだろと思ってしまったが、それは「伏線」だった。だけど、会社側の対応や「個人決起」する展開などは、「アメリカ映画的展開」で、僕には不満も残る。それは公開時に見た時も思った気がする。ウィキペディアを見ると、この映画公開12日後にスリーマイル島事故が起きたとある。そのことは忘れていたが、現実にメルトダウンが起きたわけである。だけど、映画では大事故直前でなぜか事故が避けられる。

 まあ、今ではスリーマイルどころか、チェルノブイリ、福島第一があったわけだが、それ以前に「過酷事故」が起きてカリフォルニアに人が住めなくなるといった展開の映画は作れないだろう。それは公開禁止を求めた訴訟も予想される。とても製作費をペイできないと判断されるはずだ。だから、この映画では、どうしても「個人」の生き方に焦点があっていく。だから、題名のインパクトほどには、僕は内容を忘れていたのである。今回再見してみると、その迫力ある「ポリティカル・サスペンス」の展開は今も見応えがある。運転する電力会社と同時に、建設した建設会社に大きな問題があるという指摘も、今も大きな教訓と言える。さらに、「経営的観点」に固執する電力会社のありかたも、まるで日本のいまを映し出すようだ。中味はちょっと古いと思うが、基本的な構図は変わっていないということだ。

 1986年4月26日のチェルノブイリ事故から30年。あの時は日本でも大きく反対運動が盛り上がり、僕も夫婦でデモに参加した記憶がある。そして、「3.11」を経て、それでも日本が何も変わっていないのは何故?僕も完全には説明できない。映画の中に「原子力規制委員会」が出てきて、公開当時の日本にはなかったものが、今の日本にあるのが不思議な感じ。だけど、この映画でも真相は報じられないで終わる。それに、核廃棄物問題などは取り上げられていない。(公聴会などの反対派の主張には出てくるが。)ジェーン・フォンダ主演の社会派映画という枠を超えられていないんだろう。70年代のジェーン・フォンダ(1937~)は2回のアカデミー賞を受けた絶頂期で、戦争中にハノイを訪れた反戦女優として知られた「社会派女優」だった。前年の「帰郷」で二度目のオスカーを得た直後の企画で、「売れる社会派」としての枠組みに沿った映画という感じ。一本の映画だけで世界を変えることはできない。
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台湾新電影時代

2016年05月02日 00時08分43秒 |  〃  (旧作外国映画)
 新宿のケイズ・シネマで「台湾巨匠傑作選2016」という特集上映を行っている。(4.30~6.10)その中にはホウ・シャオシェン(1947~)やエドワード・ヤン(1947~2007)の作品から、最近の「セデック・バレ」「KANO」まで多くの作品が含まれている。ドキュメンタリーの「台湾新電影時代」(2014)や是枝裕和が作った「映画が時代を写す時-侯孝賢とエドワード・ヤン」(無料)の上映もある。かねがね中国や韓国の名作に比べて、台湾映画がしばらく上映されていないように思っていた。今後、ホウ・シャオシェンの「冬冬の夏休み」「恋恋風塵」もリバイバル上映が予定されている。この機会に「台湾ニューシネマ」を中心にアジア映画の受容史を振り返ってみたい。
 
 今回上映される中で、劇映画でただ一本見ていないのが、1982年のオムニバス映画「光陰的故事」。ウィキペディアで見ると、この映画が台湾ニューシネマの始まりで、行政院長だった宋楚瑜による改革の成果だという。日程的に今日しか見られそうもないので、行ってきた。台湾の青春の諸相を描くが、オムニバスということもあり、まだそれほど印象には残らない。2作目をエドワード・ヤン(楊徳昌)が監督している。(4話目にシルビア・チャンが出ている。)この映画は日本では正式公開されていないが、1983年の「坊やの人形」は1984年に公開された。これもオムニバス映画で、ホウ・シャオシェンが1話目を監督している。これは当時見たが、やはりそれほど感心しなかった思い出がある。確かに技術的にはまだまだだったと思う。それは同時代の中国映画や韓国映画にも言えることで、アジアへの関心から見に行くが、映画ファンではなくアジアに関心を持つ人が出かけるイベントだったと言える。

 もともと映画はアメリカが世界の中心で、芸術的に優れた映画がヨーロッパ(主に仏伊英、およびポーランド)で作られる。日本の映画は時代劇やアクション映画などが毎週公開されていたが、それらの映画を見る人は外国映画は見に行かない。当時はアジア映画が公開されることは基本的にはなかった。僕が映画を見始めた70年代には、アジア映画はキネマ旬報ベストテンに一本も選ばれていない。(それまでに選ばれたのは、サタジット・レイの「大地のうた」だけ。)でも、アジア映画を知らなかったわけではない。「燃えよドラゴン」の大ヒットを受けて、70年代後半には香港のカンフー映画が山のように公開されていた。また中国や「北朝鮮」の「革命映画」が「友好運動」として上映されていた。

 その後、80年代に入ると、中国の文化大革命終了に伴い、「第五世代」と呼ばれた人々が活躍し始める。陳凱歌「黄色い大地」、田壮壮「盗馬賊」やなどである。これはその頃池袋の文芸坐で行われていた中国映画祭で上映された。また韓国映画の新作も企画上映される機会が増えていた。僕はそのほとんどを見ていると思う。アジア映画への興味関心に止まらず、東アジアの民主化支援、上映館への支援という意味もあるからである。今、キネマ旬報ベストテンを確認していくと、80年代初期は、まだフェリーニ、ベルイマン、ブニュエルなどの新作が入っている時代だった。そんな中で、初めてアジア映画でベストテンに入ったのは、1985年のユルマズ・ギュネイ監督「路」。公開時にすでに亡くなっていたトルコのクルド人監督である。ギュネイの後に、1988年になると謝晋の「芙蓉鎮」が入る。文革の悲劇をうたいあげた多少感傷的な作品だが、岩波ホールで大ヒットしたことは記憶に新しい。

 そして、1989年になると、中国のチャン・イーモウ「紅いコーリャン」が3位。台湾のホウ・シャオシェンの「恋恋風塵」が8位、「童年往時」が10位と一挙にアジア映画が入選している。翌90年にはホウ・シャオシェンの最高傑作「悲情城市」が1位、「冬冬の夏休み」が4位とホウ・シャオシェンの時代となる。1年おいて92年にはエドワード・ヤンの最高傑作「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」、93年にはチャン・イーモウ「秋菊の物語」が2位、ホウ・シャオシェン「戯夢人生」が9位。そして、イランのアッバス・キアロスタミの「友だちのうちはどこ」が8位である。以後毎年書いても仕方ないが、中国、台湾、韓国、イランのどこかの映画が大体毎年一本は入選している。またヨーロッパ映画でも北欧や東欧、あるいはスペイン、ギリシャなど小国の映画がたくさん公開され評価される時代になっていった。

 その後の世代では、台湾出身のアン・リー(李安、1954~)が登場するが、今ではすっかりアメリカで活躍している。「ブロークバック・マウンテン」と「ライフ・オブ・パイ」で2回アカデミー賞監督賞を得た。「グリーン・デスティニー」や「ラスト、コーション」のように中国が舞台の映画を作ることもあるとしても、世界で活躍する監督というしかない。また、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮、1957~)がいるが、今後は商業映画を引退しビデオ・アートなどを中心に活動するようだ。もともと大衆的に受けるというより、独自のアート系映画を作り続けた人である。だから、結局台湾ニューシネマと言えば、ホウ・シャオシェンとエドワード・ヤンの二人の存在が大きい。他にも王童監督などもいるが、中国や韓国にはさまざまの映画監督が続々と登場したことに比べ、台湾映画における先の二人の大きさが際立っている。そして、エドワード・ヤンは60歳を前に急逝してしまい、それが台湾映画の大損失だったということである。

 エドワード・ヤンは今回も「光陰的故事」を含めて3本しか上映されない。これではまだ全貌が見えてこない。台湾が「新興開発地域」として韓国や香港、シンガポールと並んで注目されたのは、80年代のことである。経済的に大発展していることは知っていたが、僕はエドワード・ヤンの作品を通して、現代人の孤独をこれほど深く追求する芸術が台湾で生まれていることを理解した。(それはツァイ・ミンリャンにも言える。)監督個々の個性や才能が大きいと思うが、同時に台湾の歴史、特に複雑な現代史が影を落としているように思える。

 その台湾現代史を鋭く追及したのが、ホウ・シャオシェンの「悲情城市」であるのは言うまでもない。「紅いコーリャン」も衝撃的だったけど、「悲情城市」が突きつけてくる歴史認識の重みも衝撃だった。これは歴代の台湾映画の最高傑作で、超えるのは難しい。もっとも、僕はホウ・シャオシェンの映画を受け入れるのに時間がかかった。「童年往時」などあまりにも静かで小さな世界が続くので、だんだん判らなくなってくる。「恋恋風塵」も繊細すぎて、なんだかさらっと見てしまう。後であれッと思うが、まあそれこそ人生だと示すような映画。もしかして、小津や成瀬を初めて見た欧米人もこのように戸惑ったのかもしれない。「冬冬の夏休み」は最高の児童映画で、これはよく判る。普通の意味で一番感動的な映画だと思う。以後はまたよく判らなくなり、日本で一青窈主演で作った「珈琲時光」なんかも、悪くはないけど、なんだと思うような映画。そういうのが多くなっていく。

 台湾は日本の敗戦後、中国国民党が「光復」してくるが、独裁的な政治を行った。大陸で革命が起こった後は、国民党本体が移ってきて、蒋介石の独裁政治が1975年の死まで続く。その後の蒋経国時代に徐々に民主化が進み、次の台湾出身の李登輝主席時代に、「主席公選」制度が実現する。僕は聞いていても判らないけど、台湾では「国語」としての「中国語」(北京語)と台湾で生まれた人(内省人)の話す「台湾語」が違う。民衆を描くということは、台湾語映画ということでもあるから、自分の幼年時代を描くということだけでも社会的、政治的な意味合いが出てくる。そういう要素はよく判らないで見ていたけれど、見ているうちに慣れて行った。それが他のアジア諸国の映画を見られるようになった時に役だったように思う。最近は韓国映画と並び、青春映画が多い。「藍色夏恋」「あの頃、君を追いかけた」「海角七号 君想う、国境の南」「共犯」などなかなか面白い映画が多い。ごくフツーにエンタメ系映画が紹介されるような時代になってきたと言うことだろう。
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