尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ジム・ジャームッシュの「パターソン」

2017年09月10日 21時14分43秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画界の「ニューヨーク・インディーズ」の代表的な監督、ジム・ジャームッシュ(1953~)の新作「パターソン」が上映中。静かで小品的な感じだから、好き嫌いはあるかと思うけど、なんだかアメリカ映画っぽくない滋味あふれる作りが好ましい。珍しく「」にまつわる寓話のような作品だ。

 ジム・ジャームッシュについて書くのは初めてだと思うけど、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984)や「ダウン・バイ・ロー」(1986)がとても良かったから、その後つまらない映画を作っても見続けるのである。まあ、「ミステリー・トレイン」(1989)や「ナイト・オン・ザ・プラネット」(1991)あたりまでが面白かったような気がする。21世紀になってからは、「ブロークン・フラワーズ」(2005)がカンヌ映画祭審査員特別グランプリを取ったけれど、正直全然面白くなかった。

 今回の「パターソン」(Paterson)はアメリカのニュージャージー州(ニューヨークの南方)に実在する町パターソンに住むバス運転手パターソンの日常を描くという映画。バス運転手をアダム・ドライヴァー(Adam Driver)が演じるという二重のダジャレのような設定。アダム・ドライヴァーは「沈黙」でガルぺ神父(主役のアンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴ神父と一緒に日本に来た神父)を演じていた人。(今後「スターウォーズ/最後のジェダイ」が公開される。)

 月曜から始まり、日曜に終わる映画。朝、まだ寝ている妻をおいてパターソンは家を出る。徒歩でバスターミナルへ出かけ、バスの中で詩を書いている。スマホもタブレットも持たない。休憩時間(?)には滝のある公園で詩を書いている。(この滝は「グレート・フォールズ」という有名な滝で、昔はこの滝を利用した工業が発展したという。)そんな運転手がいるかと思うけど、別にいたって構わないだろう。家にはマーヴィンというブルドッグがいて、夜は散歩の途中で待たせてバーで一杯やる。

 そんな決まりきった日々なんだけど、波乱を呼ぶのは妻とバーの客。妻(恋人?)のローラはゴルシフテ・ファラハニというイラン系で、すごい美人。でも、今度の日曜はカップケーキを町の広場で売ると意気込んだり、突然カントリー歌手を目指してギターを通販で買ったり…、今ひとつ判らない。パターソンも、詩を誰にも見せたことがなく、今度コピーしてくれとローラに言われている。何もないような日々も金曜日にはちょっとしたドラマが起きる。バスは故障するし、バーではもめ事が…。

 そんな日々が過ぎていき、日曜日のカップケーキも大盛況。(だったということだが、セリフで説明されるだけでマーケットのシーンがないのも慎ましい。)だから、その夜は特別に出掛けることにする。パターソン出身者で一番有名な(銅像もあるとセリフがあり、映像も出てくる)ルー・コステロ(喜劇コンビ「アボットとコステロ」で有名だった)の映画をレイトショーで見に行くのだ。(これは「凸凹フランケンシュタインの巻」(1948)だろう。)そしてその後、また一事件あるんだけど、それは多分犬を飼ってたことがある人は、見ていて事前にアッと思うんじゃないかと思う。

 「ミステリー・トレイン」以来の永瀬正敏の出演があると事前に知っていたけど、そう言えばどこで出てくるんだと思うと、最後の方で「日本人の詩人」として出る。なんだかもうけ役みたいな、ギフトを携えて。コステロ以外にも多くの有名人がパターソン出身で、その一人が詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1983~1963)で、と言っても初めて名前も聞くんだが、何でもT・S・エリオット級の評価だという。町医者として過ごしながら詩を書いて、「パターソン」という詩集もある。日本でも翻訳されていて、それを永瀬正敏が持っている。アレン・ギンズバーグの生地でもあるという。
 (永瀬正敏とアダム・ドライヴァー)
 そんなパターソンに詩を書くバス運転手がいる。いかにも、ではないか。そんなことは知らずに見たけど、「日常の奇跡」のような「詩」のような映画。自分の中にも不思議があるけど、自分の外からも不思議はやってくる。それを主人公は「詩」という形で世界に定着させようとしている。簡単な英語で語られる詩ばかりで、字で画面に出てくるからお勉強にもなる。でも、そういう簡単な単語でも、詩を書けるというのは日本語でも同じ。日常の中にフシギがあり、そこに「詩」があるというのも、俳句や短歌に親しむ日本人の方が通じるかもしれない。変な映画ではあるが、結構好きだな。

*二つほど、アレっと思ったこと。一つはローラがギターを買って初めて練習した曲。「線路工事は続くよ どこまでも」、エッ、線路が続くんじゃくなく、工事がずっと続くという労働者の歌だったんだ!もう一つ、カントリー歌手、タミー・ウィネットだと思ってたら、「ワイネット」と発音してるじゃないか。「ファイブ・イージー・ピーセス」に流れる「スタンド・バイ・ユア・マン」を歌ってた人で、レコードも持ってる。)
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イザベル・ユペールがすごい、映画「エル」

2017年09月09日 20時42分20秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランスの女優イザベル・ユペールが今年の米国アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた「エル」が公開された。これはまさにイザベル・ユペールのすごさを堪能する映画で、レイプの扱いを含めて難しい問題もあると思うが、サスペンス映画として出色の映画だった。それも道理、監督がポール・バーホーヴェンとくれば「氷の微笑」を思い出さないわけにはいかない。あれはまた疑問だらけの映画だったけど、「エル」も真相はどうなんだという気がしてくる。気が抜けないスリラー映画。

 冒頭にまずレイプ場面があって、これが凄い。イザベル・ユペール演じるミシェル・ルブランは当然警察に行くのかと思うと、警察はノー。何でなのかはだんだん判ってくる。ミシェルの父は「大量殺人犯」で終身刑になっている。幼いころのミシェルの写真も広まってトラウマになっている。ミシェルは豪華な家に一人暮らしだが、売れない作家の夫とは離婚し、今度結婚しようという息子がいる。ミシェルはゲーム会社の社長だから裕福だが、会社では剛腕で社員受けは良くない。「エル」とはフランス語で「彼女」だけど、もうこれ以外に題名が思い浮かばない。

 なんていうことが次第に判ってくるけど、スキー帽をかぶって突然襲ってきた犯人は判らない。ミシェルは「やり手」タイプで、自分の生活は自分で築いてきた。父の悪名にめげず、自分の力で地位とカネを手にしたのである。だから、周囲の人間とはあまりうまく行っていない。会社でも嫌がらせ動画が全社員にメールされる。レイプ犯は会社にいるのか。当初は疑うが、どうも違うみたいだ。と思ったときに、再び襲われる。今度は抵抗してスキー帽をはぎ取るけど、そこには…。

 ということで、犯人当てという意味では終わる。では、すぐに復讐になるかというと、そこに屈折があり、すべて仕組まれているかのようにも思えるし、成り行きのようにも思える。ミステリーだから最後は書かないけど、そこに様々な「読み」が可能になる。冷徹にして、計算づくにも見えるが、自分に素直に生きているだけだとも言える。当初はアメリカの女優を起用としたが、なかなかうまく行かなかったというのも納得。難役というにとどまらず、ミシェルの描き方に疑問を持つ向きもあるだろう。

 イザベル・ユペール(1953~)は、もう60歳を超えながら若々しい肉体を披露している。カンヌ、ヴェネツィアの二大映画祭で二度づつ女優賞を取っていて、セザール賞(フランスのアカデミー賞)主演女優賞には14回ノミネートされているという、現代のフランスを代表する女優だ。ヴェネツィア受賞の「主婦マリーがしたこと」(クロード・シャブロル監督)やカンヌ受賞の「ピアニスト」(ミヒャエル・ハネケ監督)の演技には、僕も大変強い印象を受けた記憶がある。

 最近でも「アスファルト」「母の残像」「愛と死の谷」「未来よこんにちは」など注目フランス映画に出ずっぱりの感じ。演技派というか、派手でない静かな役のオファーが多いのか、どうも物静かな印象だから、映画ファン以外にはなじみが薄いかもしれない。でも、この「エル」で全世界に知名度を上げたんじゃないか。あまり筋に悩むことなく、イザベル・ユペールのすごさを味わいたいと思う。

 監督のポール・バーホーヴェン(1938~)も80歳近いというのに元気なもんだ。もともとオランダの人で、同じくオランダ人の俳優ルトガー・ハウアーと組んだ映画が評価され、ハリウッドに進出した。「ロボコップ」「トータル・リコール」などアクション映画をヒットさせ、シャロン・ストーン主演の「氷の微笑」を監督した。その後もいろいろと作ってきたが、近年はもう引退かと思っていた。鮮やかなカムバックという感じだが、この凄さ、怖さは並じゃない。今までのキャリアが生きた上での傑作だ。というものの…、一体ミシェルをどう評価するべきなのか、やっぱりよく判らずザラザラとした感触が残るなあ。
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KERA版「ワーニャ伯父さん」を見る

2017年09月08日 23時50分40秒 | 演劇
 チェーホフの原作をケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本、演出で上演する「ワーニャ伯父さん」を見た。シス・カンパニー公演、新国立劇場、26日まで。

 舞台を見るのは久しぶりなんだけど、「自分も年とったなあ」というのと「黒木華は素晴らしいなあ」というのが、とりあえずの感想。芝居はお金もかかるけど、後ろの方の席だと昔に比べて聞き取れないことが多い。目も悪くなってきたので、眼鏡はしてるけど、宮沢りえと黒木華の顔が判別できない。服装が違うし、役柄が違うんだから、もちろん二人を判別できる。でも顔だけ見ててもよく判らん。

 それに気づいて、さすがにがっくり来たけど、まあ仕方ない。もともと僕はチェーホフが好きで、10代のころから読んだり見たりしているけど、そう言えば「ワーニャ伯父さん」を見てない。「チェーホフ四大戯曲」(桜の園、三人姉妹、かもめ、ワーニャ伯父さん)の中でも、確かに一番地味な感じ。「桜の園」とか「三人姉妹」とか、題名だけでなんだかドラマティックだけど、「ワーニャ伯父さん」ってどうよ。

 ケラは「かもめ」「三人姉妹」と上演してきて(それは見てない)、今回「ワーニャ伯父さん」。チェーホフは表面的には、ドラマが起こらないような、登場人物がグチ言い合っているような劇ばかり書いた。その中でも、「ワーニャ伯父さん」は念が入っている。チェーホフの劇は、というかロシアの本や映画は皆同じだけど、名前が似ていて誰が誰やら最初はよく判らない。ワーニャ、ソーニャ、エレーナ、アーストロフ、セレブリャーコフ…。誰が誰やら。復習してくるつもりで忘れた。

 一生マジメに働いてきたワーニャ(段田安則)。農園を経営して、亡き妹の夫、都会に住むエライ学者先生セレブリャーコフにお金を送り続けてきた。ところが大学教授を引退して「美しすぎる後妻」エレーナ宮沢りえ)と農園に戻ってきた。常に尊大なセレブリャコフは医師のアーストロフを呼び寄せ、体の不調を訴え続ける。ワーニャ伯父さんを助けて暮らしてきた先妻との娘、ソーニャ黒木華)はこの医者を好きになるけど、男どもは後妻エレーナにいかれちゃう…。そんな時、セレブリャーコフは皆を呼び集めて、爆弾宣言を行い、それをきっかけにワーニャ伯父さんの心が切れてしまう。

 というようなあらすじを書いてもよく伝わらないのがチェーホフだろう。一生懸命マジメに生きてきて、それがいったい何になったのかという思い。一方、セレブリャーコフは自分がワーニャを傷つけてきたことさえ知らなかった。何となくいい目ばかりをみてしまう成り行きなのである。こういう構図は僕も含めて多くの人の琴線に触れる。マジメにやってきて、なんかいいことあったのか?

 でも、ソーニャが言う。私だってつらいのよ。でも私は癇癪を起さない。さあ、仕事をしましょう。 その生き生きとした演技、存在感のすべて、黒木華が素晴らしい。宮沢りえが悪いわけではないけど。美人の後妻で「肉食」と劇中で評されるぐらいだから、役柄的にその通り。それに対して、ソーニャはマジメだけど、容貌は今一つとされる。それを「だけど、こんなに生き生きと生きている」と見るものに納得させるのが黒木華の演技だろう。多分、黒木華は映画やテレビではなく、全身の動きが観客に伝わる舞台の方が生きるのではないだろうか。
 (黒木華=くろき・はる)
 ソーニャが、というか黒木華がそう言ってるから、そうだ、僕ももう少し絶望せずにやっていこう、という風に思わせる。それがチェーホフだし、ケラの演出でもある。(演出はとてもうまいと思う。)
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「三の隣は五号室」-長嶋有を読む③

2017年09月07日 21時33分23秒 | 本 (日本文学)
 長嶋有の「三の隣は五号室」(2016、中央公論新社)は実に面白い。そして変わっている。とても重要な傑作だと思う。2016年の谷崎潤一郎賞を(絲山秋子「薄情」とともに)受賞した。(ちょっと今回も文学賞の話をしてしまうが、ある新聞記事に「日本の主要な文学賞」として、芥川龍之介賞や三島由紀夫賞が挙げられていて驚いたことがある。「プロ野球で活躍した選手に与えられる主要な賞として新人王がある」なんて書いたら、新聞記者失格だろうに。主要な文学賞だったら、谷崎賞や野間文芸賞ということになるはずだ。谷崎賞は一生に一回だけみたいだが。)

 「三の隣は五号室」は、読んでいる間に「こういう小説はかつて読んだことがない」と思わせる小説だ。よく考えてみれば、新作小説なんだから「かつて読んだことがない」のは当たり前ではないか。確かに村上春樹「騎士団長殺し」という小説をわれわれは初めて読むわけだし、筋を知ってるわけじゃないから、どうなるんだと思って読む。不思議なこともいっぱい起こるけど、「主人公にいろいろ不思議なことがあった」という意味では、「1Q84」や「海辺のカフカ」と同じとも言える。

 っていうか、小説とは大体「主人公にいろいろあった」という物語である。(「いろいろあった」は清水義範の「国語入試問題必勝法」から。)ところが、この「三の隣は五号室」は違うのだ。ロベール・ブレッソンの映画「ラルジャン」は、お金が人と人の間を渡っていく様を描いている。しかし、「三の隣は五号室」は移りゆかない。「五号室」に限られている。五号室に居住する人間たちは移り変わっていくが、視点は部屋に留まっている。お金じゃなくて、ATMをずっと見つめているような小説なのである。

 1960年代に横浜市の北のどこか、坂道にある町に建てられた「第一藤岡荘」(真ん前に「第二藤岡荘」がある。その五号室は間取りが普通じゃない。それは間取り図が本に載っているから、くわしくはそれを見て欲しい。玄関を入ると、右にトイレ、左に風呂がある。玄関から二手に分かれて、左に四畳半、右がキッチン、どっちを通ってもさらに奥の六畳の部屋に行く。そして、四畳半とキッチンの間も障子があって行き来できる。なんて書いても判らないと思う。本を読んでるうちに少し判ってくる。

 書評を読むと、「間取り図を見るのが好き」という人がけっこういるらしくてビックリ。僕なんて見てもあまり判らないし、興味が湧いてこない。まあ、いろんな人がいるんだなあと思うけど、そんな小説が面白いか。大々的な社会変化を直接描くわけじゃないけど、時間をかけて多くの人を見ているうちに、世の中の変化も見えてくる。人々の様子もさまざまだ。そして、そこに「部屋」を通した「小さな謎」が集積していく。「部屋」っていうものは、いろんな「フシギ」に満ちているものだ。

 例えば、ここのお風呂はなぜか少しづつお湯が漏れてしまうらしい。何でだろう? という問題は読んでいる僕らには示されるが、多くの住人たちは不思議に思いながら、次の家に移ってゆく。単身赴任で住んでいた人もいれば、10年以上この部屋に住んで子どもも生まれた夫婦もいる。60年代には大家の息子が麻雀に明け暮れたが、21世紀になるとこの部屋にイラン人が住んだ時もある。秘密を抱えた謎の男もいれば、テレビをめぐる話題もある。何だろう、この懐かしさはと最後に思う。

 「三輪密人」「四元志郎」「五十嵐五郎」「六原睦郎・豊子夫妻」「七瀬奈々」「八屋リエ」と第一話に出てくる人名もおかしい。七瀬奈々なんているかよ。でも、まあ判る。これはこの部屋に入った順の数字なんだろうなと。おかしいけど、これがなければ、読者もそうだし、作者だって誰が誰だか順番がこんがらがるに決まってる。そして、最初に住んだ藤岡一平が卒業すると、次は二瓶敏雄・文子夫妻だった。70年から82年まで住んだ人。これだけ住むと、二瓶夫妻によって「変わった」ことが多い。ねじ式の水道蛇口は二瓶夫妻がレバー式に変えた。(でも阪神大震災以前だから、下に下げると水が出る。)以前の蛇口は捨てられず、水道の下に置かれ続け、誰も手を付けなかった。

 なんて話が面白いのかと言われそう。確かに大した話じゃないんだけど、僕らの生活はそういった小さなエピソードでいっぱいのはず。その積み重ねが、「日常」というもんだなとつくづく思う。でも読んでみないとこの面白さは伝わらないかも。この小説を読む前に、「電化文学列伝」(講談社文庫)という変てこな書評エッセイを先に読んだ方がいいかもしれない。これは小説内に出てくる電化製品にまつわるエッセイなんだけど、おかしいことこの上ない。もちろん家電に関心がなくても読める。こういう「トリビア」へのこだわり方が、「三の隣は五号室」のような破格の作品に結晶したんだと思う。
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「夕子ちゃんの近道」-長嶋有を読む②

2017年09月06日 21時11分23秒 | 本 (日本文学)
 「長嶋有を読む」2回目は、第一回大江健三郎賞を受賞した「夕子ちゃんの近道」(2006、講談社文庫=品切れ中)。これはとても面白い傑作だった。大江健三郎賞というのは、大江氏一人が選考して選ぶ文学賞で、2007年から2014年まで8回続いて終了した。大江氏が「可能性」を認めた作家と作品に授与する賞で、新人にも与えられたが新人以上の賞という感じだった。中村文則「掏摸」(すり)が4回目に選ばれ、賞金の代わりに外国で翻訳出版するルールなので、アメリカで評判になるきっかけを作った。第一回に「夕子ちゃんの近道」を選んだ眼力は書評を見るとよく判る。

 大江賞の話で長くなってしまったが、「夕子ちゃんの近道」もまた変な小説だ。不思議な人々が不思議な設定で出会う。主人公は大学を出て30前後かと思うが、なにゆえにか古道具屋「フラココ屋」の2階に住み始める。店の名前もキテレツだけど、下宿でも何でもない倉庫みたいな部屋に住むには、それなりの理由というもんがあるはずだ、普通。そして多分何かありそうなんだけど、小説では語られない。そこが不思議なところで、じゃあ「観察者」に徹しているかと思うと、そうでもない。

 「店長」(幹夫)も不思議な感じで、やる気があるのかないのか判らない。そこに「瑞枝」さんという「常連客」のような、買わないから「客」じゃないけど、しょっちゅう来ている人がいる。店の裏に大家さんが住んでいて、息子は離婚してドイツに行ってる(から出てこない。)孫が二人いて、長女の「朝子」は美大に行ってて、卒業制作で箱を作り続けている。その妹の「夕子」は定時制高校に通っている。

 夜間定時制に通う理由も説明されない。ある日店長に呼ばれて道具を「本店」(店長の実家のことだけど)に持っていくと、電車に乗ったら夕子も乗っている。(夜の高校だから不思議はない。)ところが帰りの電車に乗ると、降りた駅の隣駅から遅い電車に夕子が乗ってくる。駅を降りると、付近の道に詳しくない主人公に「夕子ちゃん」が別の「近道」を教えてくれる。これがまた変な道で、竹やぶを超えて行ったりする。それが「夕子ちゃんの近道」という全体の題名になった話だけど、実は「夕子ちゃん」には秘密もあった。後で振り返ると題名にも仕掛けがあるのである。

 その後、フランスから店長の「元カノ」(?)「フランソワーズ」という日本語が達者で相撲が大好きな女性が登場する。北の湖を「トシミツ」と名前で呼ぶぐらい好きだった。祖父が亡くなり、お金もあって皆を五月場所に招待してくれる。(けど、本人がその日に行けなくなる。だからフランソワーズ以外で見に行く。)フランスにもぜひ来てよ、旅費ぐらい出すという。最後に「パリの全員」という章があるから、ホントに皆でパリに行くのである。(ここは非常に楽しい終章になている。)

 その後、朝子さんの展覧会に行ったり、夕子ちゃんに大波乱があったりしながら、日々は過ぎていく。フラココ屋に何となく集う人々の、いろいろある日常も少しづつ変わっていく。「過去」を全然語らないことで、このフラココ屋の日々が貴重な感じがしてしまうけど、そこもまた「うつりゆく日々」の中にある。ただ何気ない毎日を記録したような小説だけど、でもそこに貴重な日々が立ち現れる。主人公も変わっていかざるを得ない。そして、「あの頃」が貴重なものになっていくのである。

 いろいろな仕掛けがあるのだが、そういうことは考えずに読める。淡々と始まりながら、だんだん「なんだか深い」という気がしてくる。それは僕らの日常と同じなんだろう、多分。スラスラ読めるけど、でもあれは何だったんだろうと思うような小説だ。(ところで、相撲を見に行って、元貴闘力を見て、店長が「俺、昔、競馬場で貴闘力をみたことあるよ」というのがおかしかった。貴闘力(大嶽親方)はギャンブル依存症で身を持ち崩し、相撲協会を解雇されることになったわけで。)

 2008年の「ぼくは落ち着きがない」(光文社文庫)も簡単に。この小説はある高校の「図書部」の面々を「望美」の目から描いている。題名に「ぼく」とあるから、この「望美」って男子かと思うと、やっぱり女子。図書部っていうのは、図書委員がさぼると本を借りられなくなると、本好き、図書室好きのメンバーが何年か前に「図書部」という部活を作ったという設定。実際に長嶋有さんは「図書局」なるものをやってたという。もちろん運動部どころか、どの文化部よりももっとユルイのは当然。

 そんな図書部で、「部長」とか、不登校になる「頼子」とか、「ナス先輩」という名前の後輩とか、さまざまなメンツが繰り広げる日常の日々。って、フラココ屋みたいな図書室だなあ。そして、そのタルイ日々の中に、読書ってなんだ本ってなんだという本質が、高校生目線で描かれていく。この小説も「仕掛け」があり、さまざまな人物が最初はよく飲み込めないけど、久しぶりに読んだら最初の時よりずっと面白かった。「高校部活小説」ではないのだ。「ジャージの二人」や「夕子ちゃんの近道」を先に読む方がいい。(なお、望美と頼子に関しては、「祝福」(河出文庫)にある「噛みながら」という続編というか、スピンオフに簡単に書かれている。えっ、そうなんだという設定。)
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「佐渡の三人」「ジャージの二人」-長嶋有を読む①

2017年09月05日 23時16分23秒 | 本 (日本文学)
 毎月夏目漱石を読むということをしてたけど、8月は読まなかった。(代わりに9月にいっぱい読もうと思う。)その代りに長嶋有(1972~)にはまってずっと読み続け。最近は「北朝鮮問題」や「関東大震災時の虐殺事件」を書いていた。さらに、この夏は母親がケガして動けなくなったので諸事大変。そんなときには漱石は読めない。けっこう漱石はメンドーなので。そこで去年暮れに買っておいた「脱力系」の長嶋有を読んで、はまってしまった。今こそ読みたい、長嶋有

 だけど、それ誰よと言われそうだ。2002年に「猛スピードで母は」で126回芥川賞を受賞した作家である。デビュー作の「サイドカーに犬」は2007年に根岸吉太郎監督によって映画化され、その映画はとても良かった。この2作は一緒に文庫本に入っているから読んでいる。割と良かったんだけど、じゃあ、この後全部読もうとまでは思わなかった。その後、「ぼくは落ち着きがない」が出た時に単行本で読んだけど、まあまあという感じだった。正直言って、よく判らなかったのである。

 今まで僕がまとめて読んで、ここで紹介した同時代の作家は辻原登小川洋子池澤夏樹などだけど、その「大ロマン」的な作品世界にひかれた面が強い。それに対して、長嶋有はまさに「脱力系」というべき世界で、「なんじゃ、これ」的な作品が多い。実際の体験に基づいたリ、テレビ番組やマンガ、ゲームなどの固有名詞もいっぱい出てくる。じゃあ、簡単に読めるかというと、そういう感じでも読めるんだけど、実はかなり綿密に仕組まれていて油断できない

 非常に綿密に仕組まれたという側面は、2016年の谷崎潤一郎賞を受賞した「三の隣は五号室」を読めばよく判る。長嶋有は小説やエッセイどころか、俳句、さらには漫画まで描いていて、その上「ブルボン小林」名義でゲーム評論、マンガ評論を書いている。多才なんだけど、「遊び」とも言える。「思想」とか「社会」を正面切って描いているわけではなく、日常の世界が多い。でもフツーの働く人々をちゃんと描く小説がどれほどあるか。「泣かない女はいない」(河出文庫)は「働く女性小説」の白眉。

 その「泣かない女はいない」という題名は、ボブ・マーリーの曲から取られている。長嶋有の小説には、僕の知らないマンガやテレビ、家電製品がいっぱい出てくるけど、よく判らんなあという気はしない。なんだか自分も知っている気になって読めてしまう。それはヤナーチェクを知らなくても、村上春樹「1Q84」を読めるのと同じである。だけど、最初の長編「パラレル」(2004)は面白いけど、僕には全く判らない。登場人物が僕には納得できないのである。

 そんな中で、イチ押しは「夕子ちゃんの近道」なんだけど、これは別に書きたい。僕が今回最初に読んだ「佐渡の三人」(講談社文庫)や映画化された「ジャージの二人」(集英社文庫、中に「ジャージの三人」という短編がある)、そしてバカバカしさ全開の「エロマンガ島の三人」(文春文庫)の「三人シリーズ」(?)から読むのがいい。「エロマンガ島の三人」というのは、バヌアツ共和国に実在するエロマンガ島に行ってエロ漫画を読むという雑誌企画を出したら通ってしまって、実際に行く話。

 飛行機を乗り継いで、だんだんボロ飛行機になっていき、登場人物が筒井康隆の「五郎八航空」っていう小説って知ってますか?というくだりで爆笑である。これはさすがに元ネタを知らないと判らないと思うけど。そして行ったエロマンガ島とはどんなとこ? 長嶋有は行ってないけど、ホントに行った人の話をもとにしている。ところで「三人」の中には、空港で初めて会った謎の人物がいる。その人物は一体何なのか。それは同じ本の後ろの方にある別の短編で明かされている。

 「ジャージの二人」(2004)は、北軽井沢にあるぼろい「別荘」に父と二人で(犬も一緒)過ごすというだけの日々。妻はいるけど、他に好きな男がいて、父の方も後妻と娘がいるけど、どうなってんだか。でも、そういう日々の問題は、コンビニもスーパーも遠くて大変な日々に紛れてしまう。仕事も辞めて作家になるという主人公の設定は作家本人と同じ。実際に別荘もあるらしい。後々「ジャージの三人」「ジャージの一人」も書かれる。2008年に映画化されたとき、主人公は堺雅人が演じた。(見てない。)なんてことないけど、哀しくて可笑しい。まあ、クルマの免許は取りましょうと思ったけど。

 「佐渡の三人」(2012)は「佐渡にいったことがなくても楽しめます」と人を食った著者の言葉が帯に書いてある。前代未聞の「納骨小説」で、父、弟と三人で「私」(実は女性の作家だと後で判る)で、先祖の墓があるという佐渡に納骨に行く。もうだいぶ前の代で東京へ出て来て、祖父は医者として知られたらしい。その三男の「父」は「実業家」(実は古道具屋)で、祖母の命令により行きがかり上三人で納骨に行くことになってしまう。ユニクロの袋に骨壺を入れて佐渡に行くてんまつが、おかしくて哀しい。ああ、同じ表現を「ジャージの二人」でも書いてるけど、こっちの方が深い。この変てこな親子、というか一族の様子はまだ続き、「私」は都合3回佐渡に行く羽目になる。トキも見ないで、ただ納骨に行く「ロード・ノヴェル」で、この面白さはちょっと伝えにくい。是非読んでみてくれというしかないな。
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フィリピン映画「ローサは密告された」

2017年09月04日 22時41分20秒 |  〃  (新作外国映画)
今、世界で最も映画がアツい国はどこか? いろいろあるだろうけど、間違いなくフィリピンはアジアで一番の注目国だ。80年代から、台湾やイランや韓国…とアジアの映画に注目が集まった。東南アジア諸国は出遅れていたけれど、タイやインドネシアには重要な映画作家がいる。フィリピンにもかつてリノ・ブロッカという巨匠がいて、「マニラ 光る爪」などの作品は日本でも見る機会があった。だけど、その後長いことフィリピン映画は(フィリピン経済と同じく)停滞していた。

 フィリピン映画なんか見たことがないと言われてしまうかもしれないけど、実は東京ではこの夏2本のフィリピン映画が公開された。一本はトランスジェンダーをテーマにした「ダイ・ビューティフル」で、2016年の東京国際映画祭で主演男優賞と観客賞を得た。(東京では上映修了。)そしてもう一本がフィリピンを代表する巨匠となったブリランテ・メンドーサ(1960~)の「ローサは密告された」である。カンヌ映画祭で女優賞を得ている。内容、形式ともに圧倒されるような作品である。

 画面はずっと暗い。夜のマニラのスラム街を手持ちカメラで描き続ける。親子がスーパーストアで買い物をしている。ものすごい量のまとめ買い。スーパーのレジでは、お釣りの小銭がなくて、飴玉いくつかで代用にしてくる。それに抗議しているのが、主人公のローサジャクリン・ホセ)である。一緒に来た次男はもういいから出ようという。ちゃんとしたスーパーで、お釣りの代わりに飴をよこすというところで、もう「なんだ、これ?」という映画世界に引き込まれる。

 ローサは「サリサリ・ストア」というコンビニのような雑貨店を経営している。そういう店があるという知識はあったけれど、これで見るとスーパーで買ってきたお菓子や雑貨を小分けして、それを売っている。おいおい、というビジネスだけど、たくさんの量は必要ない貧困層はそれでも買いに来る。そして、そんな「雑貨」の中に、「アイス」(覚醒剤)もある。これも小分けされていて、街の人々が気楽に買いに来ている。ローサの夫、ネストールも隠れてクスリをやっている。

 そんなローサとネストール夫婦が、突然警察に連行される。覚醒剤を売っているんだから、当然と言えば当然かと思うと、警察の要求は「金を払わないと釈放しない」ということだった。要求額は20万。カネがないと言うと、では売人を密告しろと言う。売人を何とかだまして呼び出すと、警察は売人の持ってたカネと麻薬を取り上げて皆で山分けする。売人がひそかに上級警部にメールすると、殺しかねないようなリンチを加える。売人の妻が呼ばれ、10万払えと言われるが、5万しかないという。

 警察は明らかに腐敗した暴力集団で、何をしでかすか判らない。警察で恐ろしい目に合うローサの表情が凍り付く。結局、売人を売っただけでは20万に達しなかったので、警察はローサ夫婦が残りの5万を払わないと釈放しないと言われてしまう。もうムチャクチャとしか言えないんだけど、それを断ることができない。そこにローサ夫婦の子どもが3人親を探しにやってくる。(もう一人小さな子がいるが、警察に来る年齢ではない。)そして、子どもたちが金策に走り回ることになるのだ。

 長男、次男、長女は街を走り回る。(長女役は実際にジャクリン・ホセの子ども。)その中で、ローサの店が密告された事情も判る。仲が悪い親戚、同性愛の相手などマニラの様々な姿を見せながら、何とか金をかき集めるが…。それは5万になったのか。そして、どうなる? それはここで書かないことにするが、「マニラ地獄めぐり」のような子どもたちの奔走を見ると、家族で団結して生き抜いていく強さを感じる。頼りない夫を抱えて、ローサは子どもたちを育て上げてきたのだろう。

 ブリランテ・メンドーサは、2009年の「キナタイ―マニラ・アンダーグラウンド―」でカンヌ映画祭監督賞を取っている。この映画は映画祭受賞作品を集めた特集上映で短期間上映されたときに見ているが、やはり警察の腐敗を扱っている。全編が暗い画面であることも同様だけど、僕はのその作り方がよく判らなかった。今回見て、街のノイズをそのまま取り込み、カメラが一緒に動き回るようなドキュメント的な作りは同じ。そのあり方を石坂健治氏がパンフで「中平卓馬や森山大道らが主導した『アレ・ブレ・ボケ』写真の感触」と評している。なるほどと納得した次第。

 それにしても、この映画の成功はジャクリン・ホセの存在感につきる。80年代からリノ・ブロッカ作品などに参加、その後テレビで人気女優となったという。日本でもそこらへんにいるおばさんみたいなんだけど、ずっと見ているうちにするめのように味がじわっと効いてくる。とにかく確かにそこにいる、という感じを全身で発信している。カンヌ映画祭で女優賞を得たアジア人俳優は、マギー・チャン(「クリーン」)、チョン・ドヨン「シークレット・サンシャイン」に次いで3人目。日本人はまだない。

 この夏は家族の事情であまり新作映画を見られず、7月29日に公開された「ローサは密告された」も9月9日からは夜21時から一回上映となる。(渋谷のシアター・イメージフォーラム。)東京以外での上映は今後始まるところが多い。フィリピン映画では、この後「怪物作家」と言われるラヴ・ディアス監督の「立ち去った女」が公開される。4時間を超える映画だから一般向けとは言えないが、昨年のヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作品である。(フィリピン映画で、麻薬問題や警察の腐敗を描くというと、現在のドゥテルテ大統領の政策への批判を読む向きもあると思う。しかし、この映画はそれ以前から企画されていて、またいわゆる「社会派」的な告発を目的としていないので、ここでは強調しない。)
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朝鮮人虐殺-関東大震災時の虐殺事件④

2017年09月02日 23時05分32秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災時の虐殺事件を書く4回目(最後)。朝鮮人虐殺事件を書くけど、それは「あったか、なかったか」を書くためではない。そんなことは明白すぎて書く意味がない。歴史学的観点からは、問題は「デマはなぜ生まれ、どのように広がっていったか」に絞られるだろう。

 関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に発生した。もちろんそれを予知していた人はいない。プレートテクトニクス理論が確立した現在でも、東日本大震災の発生は不意打ちだった。熊本の地震も同じ。関東大震災では皇族も犠牲になった。当主ではないが、閑院宮の4女や東久邇宮の次男が亡くなった。いずれも小田原や藤沢などに避暑に来ていて、別荘が崩落したのである。震災は権力側にも不意打ちだった。朝鮮人が予知できたわけがない。事前に判ってない限り、毒も爆弾も用意できない。

 常識で考えれば、劣悪な環境に置かれた朝鮮人労働者の方が、震災で家屋が崩壊して生き延びるだけで大変だったと想像できる。日本の植民地だった朝鮮だが、日本と自由に往来できたわけではない。だが、困窮した人々は日本へ流入した。(南部の人は日本へ、北部の人は中国の間島=現在の延辺朝鮮族自治州へ。)朝鮮人は荒川放水路の工事など様々な下層労働をして、バラバラに居住していた。集団で「暴動」を起こせるわけがないし、故郷を食い詰めて日本に来たのだから、独立運動家でもない。だから、虐殺事件があちこちで起こったわけである。

 東京東部を見てみると、本所区(墨田区南部)と深川区(江東区西部)一帯はほとんど焼けた。東部から逃げるとなると、千葉か茨城に向かうことになる。どう行っても、川がある。都心から順に、隅田川(大川)、荒川(放水路)、中川新中川江戸川となる。今、都心から千葉、茨城に車で行く時、高速を使わず下を行くと、京葉道路水戸街道になる。環状道路の明治通りが、京葉道路と交差するのが亀戸、水戸街道と交差するのが東向島である。(明治通りは震災当時はないが、交通の基本は変わらない。)

 避難する朝鮮人を大量に「捕獲」したのが亀戸署と寺島署だったのは、そういう交通事情による。(現在、亀戸署は城東署、寺島署は向島署。)荒川放水路の掘削現場や下町の零細工場地帯のスラムにいた朝鮮人が、千葉、茨城方面に向かう時に必ず通る橋に軍が展開した。だから四ツ木橋小松川橋際で虐殺が起きたのである。四ツ木橋(墨田区と葛飾区の間)で、軍による大量の虐殺があったという証言を地元の老人の聞き取りで明らかにしたのは、絹田幸恵だった。僕の母校である足立区立伊興小の先生で、地元の教材を求めて荒川放水路建設の話を聞いて回っていた。(その聞き取りは『荒川放水路物語』という名著に結実した。)
  (墨田区八広にある追悼碑)
 絹田先生は聞き取りで聞いた虐殺の話を放っておけなくなり、堤防内を発掘し遺骨を掘り出そうと考えた。1982年、当時立教大学教授の山田昭次氏に代表を依頼し、試掘を実施した。遺骨の発掘はならなかったが、そのグループが多くの聞き取りを行った。『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992)にまとまっているが、9月1日当日の夜から、群集による朝鮮人虐殺が始まったという証言がある。また警察も朝鮮人を捕らえて虐殺した。荒川土手や寺島署にたくさんの朝鮮人がいたところへ戒厳軍が到着し、旧四ツ木橋に機関銃をすえて、大量の虐殺を開始したという証言が得られた。この軍隊は近衛師団習志野騎兵連隊の機関銃部隊である。

 その後、政府は朝鮮人、中国人をまとめて、習志野俘虜収容所へ送ることに転換した。かつてロシア人、ドイツ人の捕虜を収容した施設で、この時は空いていたから、そこに「保護」の名目で押し込んだ。軍はスパイを入れ、朝鮮独立運動家らしき者を探り、怪しいと思われた者を虐殺した。付近の「村の自警団」に下げ渡し、村で「処理」させたケースもある。この事実は20年前に千葉のグループが発掘し衝撃を与えた。そこまでしたのである。

 「朝鮮人暴動」のデマがなぜ生じたのだろうか? はっきり言えるのは、2日に流言を広めたのは、明らかに警察と軍隊だった。警察が触れ回ったから信じた、という震災後の証言が無数にある。軍が率先して虐殺したので、民衆も信じたのである。しかし、その段階で広めているのは、警察や軍の中間管理職、下っ端である。上から命じられたのか、自分もデマを信じ込んだのか、根っから朝鮮人を差別していたのか、そのあたりが判らない。9月1日当日に、上層部から意図的に流された陰謀か、それとも民衆の差別意識が生んだ自然発生的デマなのか。

 「富士山が噴火した」というデマがあったことも判っている。富士山噴火を権力側が意図的に流すとは思えない。自然発生的デマはあったのである。自警団の虐殺を見ると、民衆の差別意識は否定できず、民衆からの自然発生もあり得る。一方、軍の展開地域に沿ってデマが拡大している側面も指摘されている。「デマ」そのものが権力側の陰謀という説も否定できない。

 この問題は最終的には「戒厳令がなぜ出されたか」になる。戒厳令は、そもそも戦時に軍が行政を行う事である。緊急勅令で「行政戒厳」を布告したことは3回ある。最初が1905年の日比谷焼き討ち事件、最後が1936年の二・二六事件。戦時ではないが、準戦時的大事件である。しかし、震災は災害であり戒厳令を出す理由にならない。倒壊家屋や火災の救援なら戒厳令はいらない。実際、軍は震災後すぐに宮城や各宮家の安否確認に駆け回っている。
  (横網町公園の追悼碑)
 ところで、関東大震災当日の総理大臣を知っているだろうか? ほとんど知らないのではないか。震災当日は首相がいなかったのである。1921年に「平民宰相」原敬が暗殺され、高橋是清が後を継ぐが、短命。1922年、海軍大将加藤友三郎が首相になるが、1923年8月25日に病死して、内田康哉外相が臨時首相となっていた。2日午前に戒厳令を出したのは内田臨時内閣である。実は8月28日に後継として海軍の山本権兵衛が指名されていた。組閣が遅れていたが、2日午後に山本内閣が成立した。なぜ、後継内閣成立を待たなかったか。

 そもそも戒厳令の発動要件を満たさないので、形式は議会閉会中の緊急勅令となるが、枢密院議員が安否不明で、枢密院が開かれていない。つまり違法な戒厳令なのである。加藤前内閣の水野錬太郎内相赤池濃警視総監は、朝鮮総督府に勤務して三一独立運動弾圧に関わった。それが朝鮮人暴動の「妄想的警戒心」を生んだという説もある。後任内相は、大物後藤新平だった。震災前に山本内閣が成立していたら、後藤新平内相はどうしていたろう? 災害救援も国内の治安維持も地方との連絡もすべて内務省の所管である。後藤内相は、軍の口出しを嫌って戒厳令はなかったかもしれない。

 戒厳令により動員された軍は、死体や倒壊家屋の片付けに来たのではない。戒厳出動だから、敵をやっつけるつもりで来た。それはいろいろ証言があり、(例えば戦後に中国との平和を訴えた反戦軍人遠藤三郎の日記)、朝鮮人暴動を信じ込んでいるのである。軍が兵士に対して、「これはデマだけど」と説明するわけがない。兵は上官の命令に従って、虐殺に努めたのである。軍、警察が殺人をしているのだから、民衆が国家公認の「天下晴れての殺人」と思い込んだのも無理はない。政府は後にいくつかの事件で自警団を裁判にかけたが、おざなりのものだった。軍、警察の関わりを裁かない以上、当然だ。

 「民衆の差別意識からデマがおこり自警団による虐殺があった」という理解では不十分なのである。軍や警察が組織的に関わらなければ、これほどの規模の虐殺事件にはならない。世界の類似事件との比較も大切だ。第一次世界大戦時のオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺は、時代も内容も似ている。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)や、インドネシアの「9.30事件」後の虐殺(記録映画「アクト・オブ・キリング」で追及された)、ルワンダ、ブルンジの虐殺、ボスニアの虐殺なども考えないといけない。それと同時に、今も当時の事件を調査せず、国家責任を認めない日本政府も問わないといけないだろう。「軍隊」というものは恐ろしいものだ。
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亀戸事件-関東大震災時の虐殺事件③

2017年09月01日 21時33分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災時の虐殺事件を考える3回目。福田村事件、王希天と中国人虐殺事件に続いて、亀戸事件。これは知られてない(と僕が思う)順番である。亀戸事件に関しては、かつて「亀戸散歩」の中で取り上げたことがある。(「亀戸事件と寺社めぐりー亀戸散歩②」)

 亀戸事件とは、当時の東京府南葛飾郡亀戸町付近の労働運動家、社会主義者10人が亀戸警察署で虐殺された事件である。虐殺したのは、警察ではなく、近衛師団習志野騎兵連隊だった。遠くからきた軍隊に犠牲者の顔が判別できたはずがなく、亀戸警察の側で「指名虐殺」させたことは間違いない。研究が遅れて、一体何人殺されたのかもはっきりしなかったが、今は平澤計七(純労働者組合)、川合義虎(南葛労働会)ら10名が定説とされる。浄心寺(亀戸4丁目17-11)にある犠牲者追悼の碑には中筋宇八の名がない。9名しか刻銘されていない。
    (犠牲者追悼碑)
 平澤、川合の傾向はかなり違うが、日本史専攻者には名が知られている。今は他の犠牲者全員の名は書かないが、まだ出生地も誕生日も不明な人がいる。亀戸は秋葉原から千葉方面へ総武線で4駅目。駅の北側にあった亀戸警察も今はない。今はどこにもある「ちょっとした繁華街」だが、当時は大工業地帯で東洋モスリンなどの大会社があった。

 当時の亀戸はまだ東京府南葛飾郡だった。「南葛」地域は最も戦闘的な労働運動の先端地になっていた。1923年のメーデーでは、南葛労働者と朝鮮人労働者との「連帯」も芽生えつつあった。「革命的労働運動」の「南葛魂」とまで言われたのである。川合義虎はまだ22歳ながら、日本共産青年同盟、つまりは後の「民青」の初代委員長となった人物だったのである。

 亀戸警察は、数多く(数百人)の朝鮮人を収容して虐殺した。労働運動家も虐殺し、日本人自警団員数名も拉致して虐殺した。(この日本人虐殺の事情はよく判らない。)そういう事件が実際に起きたのだが、「震災の混乱」で、「朝鮮人と社会主義者」の暴動という「デマ」が飛び自警団による事件が起こった、「デマに惑わされてはいけない」という理解では明らかに不十分だ。川合たちの事件は、ねらいをつけた「公然たる国家テロ」と言うべきである。
 
 前年の1922年に、日本共産党の結成が発覚して公判中だった。堺利彦徳田球一野坂参三ら日本の社会主義、共産主義史上の有名人は、震災時は市ヶ谷刑務所に拘束されていた。彼らは囚人大会を開き家族や家財が心配だから一時釈放せよと運動した。ここにも戒厳軍がやってきて身柄の引渡しを要求したが、刑務所長は要求に応じなかった。結果的に被告たちの生命が救われたのである。同じ事件で病気保釈中だった山川均も知人の家を渡り歩き、警察の手を逃れている。吉野作造など社会主義者以外でも狙われたらしい記録がある。

 現実に起こった虐殺事件は大杉栄らと亀戸事件だけだった。震災が権力にとっても不意打ちだったからだ。歴史の可能性としては、もっと多数の社会主義者らの虐殺が起こっても不思議ではなかった。もっとも「天災を機に、戒厳令を敷き、一挙に社会主義者を抹殺する」というマニュアルが出来ていたと決めつけると言いすぎだろう。だが「ひとたび事(社会主義革命)が起こったら、皇室を守るため軍がカウンター・クーデターを起こす」という発想はあったと思う。すでに1922年にイタリアのムッソリーニは権力を奪取していた時代である。
 
 震災時の虐殺事件では、大杉栄伊藤野枝、および甥の橘宗一少年を甘粕憲兵大尉らが殺害した事件が一番知られているだろう。その事件については沢山の本があるのでここでは触れない。一般向けでは瀬戸内晴美(寂聴)の『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』や鎌田慧『自由への疾走』が判りやすい。いずれも岩波現代文庫に入っている。大杉栄と伊藤野枝という「素材」が抜群に面白い。亀戸事件では、加藤文三『亀戸事件』が最もまとまっている。

 震災関係の虐殺が明るみに出たのは、僕の大好きな奇人弁護士、山崎今朝弥(やまざき・けさや)の尽力が大きい。山崎の『地震・憲兵・火事・巡査』は岩波文庫に入っている。大杉事件に関する「他二人及び大杉君の事」は、いつも「大杉他二人殺害」と書かれたのに対する、山崎らしい皮肉だ。(2013年9月に書いた書評「山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』」参照。)
 
 山崎今朝弥の、地震・憲兵・火事・巡査という言葉は、実に含蓄が深い。ある時代まで、軍隊や思想警察の恐ろしさは、戦争を経験した日本国民にとって「自明」のことだった。だから、僕も「民衆の戦争責任」などに関心を持ってきたんだけど、最近は若い世代に向けては「軍や警察がいばってた時代の恐ろしさ」を、きちんと伝えて行かなければいけないと思っている。

 同時代的には、1927年の中国、蒋介石の上海クーデター後の共産党虐殺イタリアのファシスト党の権力奪取があった。さらに遥か後には、1970年代のチリやアルゼンチンの軍事政権で起きた左翼運動家の大虐殺、あるいは1965年のインドネシアの「9・30事件」後の共産党大虐殺事件などと共通の問題性がある。今の日本でも、震災をきっかけに警察が警戒していた組織を「予防検束」する可能性はありうると考えていた方がいいのではないか。
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