不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「BPM」-HIVと闘う青春を描く傑作

2018年04月12日 21時21分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 2017年カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「BPM ビート・パー・ミニッツ」は、90年代初期のフランスを舞台に、エイズ患者たちの行政や製薬会社との闘いを描いている。その時代のエイズには今以上に偏見も多く、死亡率も高かった。彼らが集った「アクト・アップ・パリ」という運動団体を描くが、その活動には怒りがいっぱい詰まっていて、やはり重くてマジメな社会運動には違いない。だけど、見れば判るように、そこには躍動する青春があったし、ゲイの若者たちの生の喜びと悲しみをうたいあげた青春映画の傑作になっていると思う。

 「アクト・アップ」(ACTーUP)というのは、アメリカに本部がある「行動するHIV感染者の会」という感じの団体で、フランスにも作られた。政府主催の討論会に乱入して偽の血をバラまいたりする「過激派」である。メンバーにはゲイ(男性同性愛者)が多いようで、もうエイズ(後天性免疫不全症候群)を発症している者やHIV(ヒト免疫不全ウィルス)の陽性者も多いようだ。だけど、女性や家族の参加者もある。この映画の監督のロビン・カンピヨ(「パリ20区、僕たちのクラス」の脚本家)も当時参加していたというが、さまざまな支援者もいたのかもしれない。

 あらゆる社会運動と同じく、過激な行動を主張する者もいれば、行政や製薬会社と穏便に交渉しようとする穏健派もいる。社会的アピールを重視する者もいれば、怒りをストレートに表したい者もいる。どんな団体にもある意見の違いが、何度も出てくる「討論会」でていねいに描かれる。討論会というか、毎週夜7時から開かれる定例総会みたいなもので、拍手禁止(うるさくて議論が止まるから、指を鳴らすことだけにする)などのルールがある。僕はこのシーンがとても興味深かった。そこで行動方針やスローガンが決まってゆくのである。

 高校に潜入してコンドームを配る行動も行う。教師の一人は未成年だから配るなと止めるが、だまって見ている教師もいる。生徒の方もだまって受け取る者もいれば、自分は同性愛じゃないから関係ないとあからさまに言う者もいる。「エイズ」が同性愛者、薬物中毒者、売春婦などの「差別されたマイノリティの病気」だとラベリングされていた時代だったのである。そんな時代だから、HIVポジティヴの中には焦りや怒りが強い。製薬会社が早く治験を進めて新薬を使えるようにして欲しい。会社や行政の怠慢で、自分たちは死んでゆかなくてはならないのか。そんな思いが躍動する映像や音楽とともに観客の胸に迫ってくる。

 後半になると、チリ人の父とフランス人の母を持つショーンが中心になる。病気も進み、過激な方針を取りがちなショーン。新入りメンバーのナタンはHIV陰性だが積極的に運動に参加し、ショーンと結ばれてゆく。病み衰えてゆくショーン、二人の同性愛シーンなど難役を見事に演じていて、まるでドキュメントを見ているかのような思いになる。愛と死、性と生を見事に描いていると思った。セクシャリティを問わず、権力と闘う中で青春が輝いている。見落とさなくて良かったなあと思える映画だ。ちょっと長いし(143分)、題材が固いように思って敬遠する人がいたらもったいない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「煙突の見える場所」とお化け煙突

2018年04月10日 22時44分12秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立近代美術館フィルムセンターが、日本で6番目の美術館、国立映画アーカイブとして独立した。大ホールは「長瀬記念ホールOZU」と命名され、今日から特集「映画を残す、映画を活かす。」が始まった。最初の上映が五所平之助監督の「煙突の見える場所」である。「三浦光雄の映像表現が、今回新たに作製した可燃性オリジナルネガからのダイレクトプリントであざやかに甦った」というので、また見たくなった。2012年に再見してブログにも書いたけど、北千住にあるお化け煙突のモニュメントも見に行ったので、合わせて書いておきたい。
(お化け煙突)
 今回見直して、暗い感じだった画面が確かに鮮やかになって、人物像もくっきりとした。「煙突の見える場所」(1953、スタジオ・エイト・プロ=新東宝)は、やはり五所監督の戦後の代表作だと思う。的確な人間描写が今でも秀逸な、戦後風俗を後世に伝える佳作で、53年のベストテンで4位になっている。(2位が「東京物語」、3位が「雨月物語」の年である。)五所監督は日本初のトーキー「マダムと女房」や無声映画の「恋の花咲く 伊豆の踊子」などを作った。戦後も「今ひとたびの」「大阪の宿」などの傑作がある。「大阪の宿」は最近フィルムセンターで見直して感心した。

 「お化け煙突」というのは、北千住にあった「千住火力発電所」のことである。1926年から1964年まで存在した。様々な映画や小説に出てくる有名な「下町のシンボル」だった。お化けというのは、見る場所により煙突の本数が違って見えるからだ。実際は4本あるのだが、細長い菱形に配置されているため、ところによっては3本2本、さらに全部重なって1本に見える場所さえある。僕は煙突の本数が違って見えるからお化け煙突と言うんだよと親に教えられた。小さい頃に電車から見た記憶がある。9歳の時に撤去されているんだけど、ちゃんと覚えている。

 煙突は1963年に稼働を停止し、翌1964年に撤去された。その時に煙突の一部が3mほど切り取られ、さらに二つにカットして、地元の元宿小学校の滑り台に利用されていた。小学校の閉校後、跡地の帝京科学大学にモニュメントが残されている。北千住駅から西へ歩いて、日光街道を超えて墨堤通りを北へ向かい、帝京科学大学本館キャンパスのところで、隅田川の堤防に上るとすぐ。大きな輪になっていて、その中からスカイツリーが見える。煙突の位置を示すポールもある。
   
 映画の中で登場人物が不思議だ不思議だと言ってるが、東京東部でこれを知らない人がいたとは思えない。東京以外の観客向けなんだろうけど、東京東部生まれとしてはリアリティがないセリフである。しかし、映画ではこの煙突を「見る角度によって、真実は様々な形を取る」ということの象徴として使っている。それが戦中戦後を生き抜く庶民の様々な姿と重なっている。

 東京大空襲で夫とはぐれた田中絹代上原謙と再婚した。仲は良いがすきま風も吹いている。2階は高峰秀子(上野商店街のウグイス嬢で、商店の案内放送を読んでいる)と芥川比呂志(税務署職員)に貸している。その家に突然赤ちゃんが捨てられる。田中絹代の前夫が実はどうやら生きていて、生まれた子供が育てられず勝手に置いて行ったらしい。この子がまたよく泣いてうるさい。夫婦はおろおろ、仲は悪化する。そもそもは誰が悪いか。それは置いて行った前夫が悪い。これを許してはいけない。正義の問題だと意気込むのが芥川比呂志で、自分で休暇を取って前夫を探すという。で、探索を経て見えてきたそれぞれの人生模様はどのようなものか。それこそ「お化け煙突」ではなかろうかという感慨を与えて映画は終わる。
 (田中絹代と上原謙)
 この映画の多少観念的で議論好きなところは、原作の椎名麟三によっていると思う。椎名麟三は今ほとんど読まれていないだろうが、最も早く登場した「戦後派」作家の一人である。戦前は共産党員だった時期もあるが、1950年にキリスト教に入信、以後はキリスト教に基づく作品が多い。共産主義、実存、キリスト教、救いといった主題が最近は文学からも少なくなったけど、椎名麟三の文学は「戦後の香り」をもっとも濃厚ににおわせている作風で、僕は大好きである。
 (高峰秀子と芥川比呂志)
 主要登場人物の田中絹代(1909~1977)、高峰秀子(1924~2010)は日本映画史でも最高の女優たちだから、今もよく上映される。上原謙(1909~1991)は、戦前の松竹で大スターだった。どうも頼りない男がはまり役。加山雄三の父親である。芥川比呂志(1920~1981)は芥川龍之介の長男で、文学座の名優。「ハムレット」で有名になった端正な俳優だった。文学座を脱退して「雲」「円」を作ったが、1981年に61歳で亡くなった。演出や著作も多く、映画やテレビにも出ていたので、親の知名度もあり、弟の作曲家芥川也寸志とともに広く知られた存在だった。早く亡くなったので、若い人は顔が思い浮かばないかもしれない。この映画は音楽を芥川也寸志がやっている。
 4月15日(日)午後4時にも上映あり。(2012年4月3日の記事を改稿)
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冤罪被害者の絆ー映画「獄友」

2018年04月09日 23時17分59秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 金聖雄(キム・ソンウン)監督の記録映画「獄友」(ごくとも)が東京で劇場公開中。金監督は「花はんめ」などを作ったあと、最近は狭山事件や袴田事件の映画を作ってきた。今回の「獄友」はそれに続く「冤罪三部作」と言うべき作品。冤罪被害を受けて人生の長い時間を獄中にとらわれた男たち及びその家族を見つめている。「獄友」という言葉は造語だが、なるほどこれしかない。

 情報的には大体知っている内容なんだけど、でも見てよかったと思ったのは「顔がいいなあ」ということだ。最初から出てくるのは、狭山事件石川一雄さん、布川事件桜井昌司さん、杉山卓男さん、足利事件菅家利和さんである。(杉山さんは2015年に死去。)

 足利事件の菅家さんは2010年に再審で無罪判決が出た。布川事件の再審無罪判決は2011年で、その判決公判に石川さんや菅谷さんも傍聴に出かけた。再審が開かれない狭山事件の集会などにも、桜井さんたちは出かけて行く。また再審を求めていた死刑囚の袴田巌さんが2014年の再審開始決定で釈放されてきた。その時もまた集う。こうして冤罪を訴える集会で顔を合わせる彼らを見た監督が、この独特な絆を「獄友」と名付けて映画に撮り始めた。表の顔だけでなく、カラオケや配偶者の話など「裏」も撮影している。

 布川事件の二人は「ショージとタカオ」という優れた記録映画になっている。石川さんと袴田さんは金監督自身が撮ってきた。だから顔をカメラに出して冤罪問題を訴えるだけでは、もうどこかで見た感じも否めない。この映画の特徴は「獄中体験」に焦点を当てていることだ。石川さんと桜井さん、杉山さんは千葉刑務所に同時期にいた。石川さんと袴田さんは東京拘置所で知り合い。菅家さんは時代が違うけど、やはり千葉刑務所。だから、共通の思い出話がある。「獄友」はそういう彼らの絆の深さを示している。

 もう顔を見れば彼らが冤罪であることは誰も疑えないだろう。それでも人はあれこれ言うものだ。そんなときに同じ苦しみを体験した者どうしの言うに言われぬ深い思いが顔に出るんだと思う。お互いに自分は何者かを証明する必要のない関係。世の中には実はそんな関係は少ないんじゃないだろうか。「刑務所に入って良かった」と本心から言える言える桜井さんのひたすら前向きな生き方に学ぶことは多い。この映画の主人公格は、やはり桜井さんだろう。何しろ獄中で書いた詩に曲を付けてCDにして、コンサートまで開く。その様子は見ていて楽しい。(僕は4年間ほど六本木高校で桜井さんの話を授業でやっていたので懐かしかった。歌も聴いた。)

 「冤罪」は身に降りかかる災難である。だが、裁判でも、再審請求でも、あるいはその後に至っても、検察側は自分たちに不利な証拠を隠して公開しない。(ある程度は公開して、それが再審開始の決定打になることも多い。)だから、もともとは単に「怪しい奴」で「不良少年」だったりした人が、「権力犯罪」の目撃者になってしまう。自分だけははっきり知っている自分の無罪を証明するために、権力と戦わざるを得なくなる。そんな宿命を逃げずに引き受けたから、これらの人々の顔には深い明るさがある。だから多くの人に見て欲しいと思う。

 映画には出てないことをちょっとだけ。布川事件の支援運動は共産党系の日本国民救援会が中心になってきた。一方、狭山事件の場合、解放運動で解放同盟と共産党の対立が激しくなった段階で、共産党系は手を引いて、以後は解放同盟系の主導で支援が進められてきた。だから桜井さんが石川さん支援集会に行くとなると、布川事件支援者の中から「狭山に行くのは…」と言われるし、狭山事件の集会では「共産党帰れ」とヤジを飛ばす人もいる。(どっちも桜井さんが自分のブログで書いていたことである。)

 だけど、桜井さんは狭山支援を止めない。石川さんは冤罪だと、自分の体験から判っているからだ。それどころか、渋谷暴動事件の中核派・星野文昭さんの再審支援にも行く。政治的な考えの違いはシャバに出て議論すればいい。権力犯罪の犠牲者として、冤罪被害者の訴えを支援していく。そんな姿勢が背後にあって、桜井さんたちの活動が続いている。非常に大切なことだと僕は思っている。(東京ではポレポレ東中野で、13日まで12:30、15:10~の2回、14日から朝10時のみ上映。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島平から東京大仏まで②-古民家と赤塚城

2018年04月08日 22時39分33秒 | 東京関東散歩
 高島平周辺の散歩の2回目。暖かくなると散歩に行きたくなる。出掛けた日は北風が吹いた涼しい曇りの日で、年に何回もない散歩日和だった。もう晴れ渡ると暑いぐらいで、地下鉄は冷房を入れているから注意がいる。さて、都営地下鉄三田線の高島平で降りて、行きたいところがあった。(美術館だけなら終点の西高島平の方が近い。)それは「旧粕谷家(東の隠居)住宅」という古民家で、今年の1月31日から公開されている。新聞で見て知ったんだけど、行き方がよく判らない。でも今はスマホですぐ道案内が出てくるから、確かに便利なんだよな。

 高島平駅から西へ団地を抜けると、高速道路がある。そこを過ぎると坂道になっている。ここら辺は「武蔵野台地」の東のはずれの方で、案外アップダウンがあってビックリした。そんな中を丘の上の小学校をぐるっと回って探し回りながら、やっと「粕谷家」を見つける。案内板のようなものがない。2007年に所有者から区に寄贈され、建築当初の様子を復元した。「享保八年」(1723年)の建立を示す墨書が発見されたという。こういう古民家は何度も見てるけど、正直言って細かい違いは判らない。でも関東最古級の民家だというから貴重である。

 そこから高速道路の下まで降りて行くと、赤塚公園になっている。この公園も昔は城の一部らしいが、なかなかいい散歩コースだ。そこを10分ぐらい北へ歩くと、赤塚溜池公園。もとは赤塚城の堀の一部だったともいう溜池で、多くの人が釣りをしていた。
  
 溜池公園に「板橋区立郷土資料館」と「板橋区立美術館」がある。溜池の真ん前が郷土資料館で、そこにも「旧田中家」という古民家が移築されている。こっちは江戸時代後半というだけで、具体的な建築年代は書いてない。屋根は萱葺きじゃなくて、稲わらとススキだという。大まかには粕谷家と同じような感じで、細かい違いは判らない。近世の板橋は中山道の最初の宿場町で、宿駅の負担もあった。また鷹狩で将軍が立ち寄る場所でもあった。資料館には様々な実物史料が展示されている。明治になって貸座敷となった新藤楼の門が館前にあって興味深い。
   (真ん中が旧田中家、最後が新藤楼)
 資料館の前が高台になっていて、赤塚城の説明板がある。階段を上り切ると、広い原っぱになっていて、今はどこにも城の面影はない。関東の中世のお城には、そういうのが多い。丘というか台地というか、自然の地形を利用して堀を整備して敵に備える。この一帯は荒川に近く、交通の要衝だった。1回目に書いたように、城の主は千葉氏で1456年と伝えられる。江戸時代になると、幕府のおひざ元で大きな城は必要ないから、中世の城跡はよほど大きな山城以外は荒廃して、ほとんど址も判らない。赤塚城もそんな感じ。関東の中世史を勉強しないといけないなあと思う。
  
 ところで今では高齢化が進む一方という高島平団地。昔は「自殺の名所」なんてありがたくない名所だった時代もある。(今は防備のフェンスが設置されている。)団地に住んだことがないので、感覚的によく判らないんだけど、とにかくここはどこまでも高層団地が並んでいるのは壮観だった。美術館から東京大仏、松月院を見た後は、東上線下赤塚駅に向かって帰った。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島平から東京大仏まで①-乗蓮寺と松月院

2018年04月07日 23時05分16秒 | 東京関東散歩
 板橋区立美術館の周辺には史跡がいっぱいある。ついでに、いろいろと回ってみたが、まったく知らない地域である。大体、板橋区めざして出かけたことも人生で1、2回しかないと思う。そのぐらい板橋区って縁遠い。美術館もよりの高島平には、1972年から入居が始まった「東洋一」の高島平団地(当時はよく「東洋一」と言われたもんだ)があるのは知ってたけど、行ったこともなかった。後で書くけど、高島平という地名そのものが歴史だった。いや、知らなかったなあ。

 美術館などがある「赤塚溜池公園」から「東京大仏通り」を5分ほど行くと、乗蓮寺(じょうれんじ)がある。そこに「東京大仏」がある。なんでも奈良、鎌倉に次ぐ全国3位だとか。「青銅製の鋳造仏像としては」という限定付きだけど。首都高建設により1973年に今の場所に移転され、1877年に大仏を作った。天保飢饉供養塔などの他、駒込にあった藤堂家下屋敷にあった多くの石像が置かれている。下の3枚目の写真は、「役小角」(えんのおづぬ)で、他にもたくさんあった。
  
 乗蓮寺の近くの松月院(しょうげついん)に幕末の砲術家・高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の顕彰碑がある。長崎で西洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させた。アヘン戦争後の1841年、危機感を持った秋帆は江戸に出て公開演習を行った。その時に弟子たちと泊ったのが松月院で、近くの徳丸が原で砲術を行った。それで「高島平」という地名が作られたのである。
  (2枚目が秋帆顕彰碑)
 ここは中世に千葉自胤(ちば・よりたね)が近くの赤塚城に移ってきて、近くの寺を菩提寺と定め松月院と名前を改めさせた。千葉氏というわけだから、もともと下総の一族だけど、鎌倉公方や関東管領の上杉氏が分裂して争った「享徳の乱」で、一族が分裂して自胤は武蔵に逃れた。その後、後北条氏に仕えたが秀吉の小田原征服で滅んだ。その移ってきた自胤の墓と伝えられるものが今も残っている。また「次郎物語」で有名な作家、下村湖人の墓もある。
 
 もう一つ、この松月院は三遊亭圓朝の有名な怪談「乳房榎」の舞台とされたところである。今の寺域から外れた道沿いにあるので、なかなか見つけにくいけど、記念碑がある。それも道沿いにフェンスがあって近づけない。お参りすると乳が出るようになる榎ということだけど、それはよく判らない。「乳房榎」は「牡丹灯籠」ほど知られていないけど、面白い話だ。因縁話がわかりにくいけど。ここだったのか。何だか長くなってきたので赤塚城や古民家の話はもう一回別に。
   (これが乳房榎)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高畑勲監督の逝去を悼む

2018年04月06日 23時06分00秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日本のアニメーション映画監督、プロデューサーの高畑勲監督が亡くなった。1935年10月29日~2018年4月5日没、82歳。今から多くの人が追悼を語ると思うが、やはりマスコミでは「火垂るの墓」や「アルプスの少女ハイジ」が大きく取り上げられている。それはそれで当然だとは思うけど、ニュースでは「1985年、宮崎駿監督などとスタジオ・ジブリを設立しました」なんて語られる。短い時間ではその前は語られないのである。だからちょっとだけ書いておこう。

 高畑監督の最初の監督作品は、東映動画の「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)。「動画」というと、今じゃスマホで誰でも撮れる映像のことだが、昔はアニメのことを指した。60年代末には日本映画が危機と言われていたが、今思うと素晴らしい映画が続々と作られていた。アニメでは東映で矢吹公郎の「長靴をはいた猫」と高畑「太陽の王子…」が伝説的な大傑作とされていた。僕は同時代には見てない。70年代に映画マニアになってから、追いかけて見たのである。これはアイヌの民話をもとにした物語なのである。そんな話がアニメで作られていたのだ。

 その後、東映動画労組の組合運動で宮崎駿と知り合う。退社後、テレビで「アルプスの少女ハイジ」などのアニメを手掛けて評判になるが、これは高校から大学時代で全く見てない。劇場アニメで「じゃりン子チエ」と「セロ弾きのゴーシュ」を作り、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」をプロデュースする。ヒットしたお金で、今度は宮崎製作、高畑監督で作ったのが、記録映画「柳川掘割物語」(1987)。これは福岡県柳川市で掘割を守る人々を描いた165分もあるドキュメンタリーだが、ものすごく感動的だった。もう忘れている人が多いかもしれないが、高畑、宮崎という人を考えるためには必見の映画だと思う。

 1988年に「火垂るの墓」を作って世界的に高い評価を受けた。当時はまだ映画会社の系列で2本立て上映する時代で、「となりのトトロ」と東宝系で2本立てだった。この映画は確かに素晴らしい出来で、「子どもに見せる戦争映画」のスタンダードになったのも当然だ。だから逆に敬遠する人もいるだろうし、僕も再見してないが、やっぱりよく出来ている。次に「おもひでぽろぽろ」(1991)、続いて「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)。東京の多摩地区を舞台にしながら、エコロジカルな意識が描かれ共感した。そして、「ホーホケキョとなりの山田君」(1999)、間が開いて「かぐや姫の物語」(2013)。これが最高傑作なんだと思う。まあ多くの人が見ている映画は書かないことにしたい。
  
 映画館でちゃんと追悼上映をやって欲しいなあ。絶対みんな行くんだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリント・イーストウッド監督の「15時17分、パリ行き」

2018年04月06日 21時19分10秒 |  〃  (新作外国映画)
 クリント・イーストウッド監督の「15時17分、パリ行き」(The 15:17 to Paris)をちょっと前に見た。どうしようかと思ったけど、一応簡単に書いておくことにする。前作の「ハドソン川の奇跡」は日本で評判になったけど、ここでは書かなかった。どこにも破綻がない素晴らしい映画だったけど、そこが僕には物足りない。今回の「15時17分、パリ行き」も驚くべき映画だが、同じ意味であまり好きじゃない。でも、この映画は見ておく価値がある。アメリカという国を知るための映画として。

 この映画は2015年8月21日に、アムステルダム発パリ行きの高速列車内で起こったテロ事件の「実録再現映画」である。イスラーム過激派の犯人が、車内で銃撃を始めようとするとき、アメリカ人の青年3人が果敢に飛びかかって犯人を抑えた。その3人の少年時代からの歩みを描きつつ、映画は運命の列車が走り出す瞬間を迎える。そこでテロ事件が起きかけて、それは未然に防げたと見るものはもう判って見ている。驚くべきは、その3人を本人が自ら演じていることだ。

 もちろん最初はちゃんと俳優をキャスティングして、3人はアドバイザーだったらしいが、撮ってるうちに本人に演じさせればいいと思ったらしい。同乗していた客たちも本人だという。さすがに犯人は別の俳優だけど、こんな「再現映像」映画が今まであっただろうか。しかし、見れば判るけど、これは際もの映画ではなく、実にリアルに現代を描き出した映画になっている。今じゃ何でも撮れるクリント・イーストウッド、87歳の驚くべき映像世界。人物の動かし方など、心憎いほどうまい。

 でも、自分のことを考えれば、本人役だからと言ってうまく出来るもんだろうか。ドキュメンタリー映画を撮るんだと言っても、カメラがあれば身構えてしまうのが普通だろう。どうしても「自分」を意識してしまう「自我のカタマリ」があるもんだろう。でも、この3人は少年時代を見ると、周囲になじまない「問題少年」と捉えられていたようだ。(ちなみに、2人が白人、1人が黒人。)あまり「自我」にとらわれるタイプじゃない感じ。ヨーロッパ旅行の再現シーンなど実に楽し気にやってる。

 3人のうち2人は軍人で、1人のアフガン勤務が終わったことを祝って、皆でヨーロッパ旅行をしようと思う。イタリアへ行き、ドイツに行く。次はパリだと思うけど、酒場で会った人にオランダはいいぞと聞き、アムステルダムに立ち寄って遊びまくる。面白いからフランスは止めてもいいんだけど、どうする? 決めたからやっぱり行こうと言ったやり取りがある。あの列車に乗らなかったかもしれないのである。でも、乗った。それは「偶然」ではなかった。それは「運命の列車」だった。

 運命をつかさどるのは「」である。全能の神の計らいで、3人がテロを防ぐために遣わされた。映画がそういう風に神がかっているわけじゃないけど、ベースはそういうことだと思う。アメリカの「善き青年たち」の心には、「信仰」と「愛国心」と「人類愛」が平然と同居している。そしてイザという時に、行動するのである。こういう若者たちを「アメリカ人の神髄」とほめたたえている。

 クリント・イーストウッドはハリウッドの中でも共和党支持者という「異端的立場」である。「グラン・トリノ」や「インビクタス」などは「人類愛」の方が表に出ているが、「アメリカン・スナイパー」や「ハドソン川の奇跡」では「愛国心」というか、「アメリカ人ここにあり」といった感じが強い。この映画はその頂点のような映画だと思う。でも、ただ一人語られない人物がいる。硫黄島2部作では、日本軍の立場からも戦争を見つめた。その意味では、この映画だけではなく、「犯人側が何故事件を起こそうとしたか」も語られるべきだ。イーストウッドはそれを作るだろうか。少なくとも現時点では、見るものが想像力で補わない限り、「英雄たち」しか目に入ってこない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展を見る

2018年04月05日 21時22分01秒 | アート
 板橋区立美術館で開かれている「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展を見に行った。(15日まで。)板橋区立美術館は興味深い展覧会をよくやってるんだけど、なかなか遠くて今まで行ったことがなかった。何しろ自分で「永遠の穴場」と称しているぐらい、駅からも遠い。東京区部の西北端あたりで、駅で言えば都営地下鉄三田線の終点、西高島平から13分とある。高島平というのは巨大団地があるところだけど、そこ自体初めて行った。
 
 池袋モンパルナスは、昭和の初めごろに若い画家たちが東京の池袋周辺に集まっていたのをそう呼んだものだ。それは知っているけれど、「ニシムイ美術村」って何だ? 沖縄戦の後で首里に画家たちが集まって活動したのが「ニシムイ美術村」である。そして、そこには戦前の東京で池袋周辺に集まっていた画家たちもいた。その両者の絵、さらに関連の絵を広く集めて展示するという画期的な試みである。大体、僕は米軍統治下の沖縄で描かれた美術のことなど何も知らない。多くの人も今回の展覧会で初めて知ったんじゃないだろうか。

 池袋だけじゃなく、目白通りの南側にあたる落合に住んだ画家たちも展示されている。チラシの裏側にある佐伯祐三松本竣介などである。前に落合散歩を書いたことがあるが、そこには佐伯祐三や中村彝(つね)のアトリエが再建されている。そしてそこにニシムイ美術村の中心となった名渡山愛順(などやま・あいじゅん 1906~1970)もいた。1928年、東京美術学校(現・東京芸大)在学中に帝展に入選したという人である。1944年10月10日の那覇大空襲でそれまでの作品を失い、その後大分県に疎開していた。そして戦後に沖縄に戻りニシムイ美術村を作った。

 また日中戦争下、多くの画家たちが沖縄を訪れ絵を描いていた。野見山暁治が1940年に描いた「首里城の高台から望む赤田町」、鳥海青児の「沖縄風景」(1940)など実に興味深い。さらに藤田嗣治も1938年に描いた「孫」という絵が出ている。アメリカ、メキシコで活動し、壁画運動に影響を受けた北川民次も、1936年に帰国後に沖縄を訪れた。1939年に描かれた「海王丸にて」と「沖縄風景」の2点が展示されている。どっちも沖縄県立博物館・美術館の所蔵である。
  (藤田「孫」と北川「沖縄風景」)
 そして、最後に沖縄の画家たちの作品が展示されている。先の名渡山愛順南風原朝光(はえばる・ちょうこう 1904~1961)、安次嶺金正(あじみね・きんせい)、山元恵一(1913~1977)等の絵が展示されている。と言っても誰も名前を知らない。ウィキペディアにも出てない人がある。南風原を検索すると、2月まで沖縄で展覧会が開かれていた。「彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄」と題されている。すごく興味深いと思うけど、今まで全然知らなかった。
  (南風原「窓」と安次嶺「群像」)
 ニシムイ美術村は、1948年に首里の「西森」(ニシムイ)に作られた。戦前に東京の美校で学んだ画家たちが中心だったが、生きていくために米軍人から家族などの肖像画をまとめて受注する意味もあったんじゃないかと思う。台風で一年もたたずになくなったとも言われるが、関係者が戦後沖縄の文化行政や文化運動にも関わっていく。チラシ表面の下にある、山元恵一《貴方を愛する時と憎む時》(1950)のように、明らかにシュールレアリスムの絵もある。20世紀の様々な潮流の影響を受けつつ、「沖縄」の風土を感じさせる絵が多い。

 米軍統治下の沖縄文化と言えば、大城立裕の芥川賞受賞小説「カクテルパーティ」ぐらいしか思いつかない。認識に大きな穴があったなあと思った。戦後の沖縄と言えば、島ぐるみ闘争や瀬長亀次郎のことは知っていても、どんな芸術運動があったかは知らない。戦後沖縄の大衆文化もほとんど知らないが、知らないことは多いもんだと改めて知ることになった。周辺には史跡などが集まっているが、その歴史散歩は改めて別に書きたい。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧安田楠男邸を見に行く

2018年04月04日 23時16分59秒 | 東京関東散歩
 水曜と土曜しか開いてない旧安田楠男邸庭園という場所がある。安田楠男(やすだ・くすお)と言っても判らないけど、安田財閥を築いた安田善次郎の三女の婿、安田善四郎の長男である。1995年に亡くなった後に、夫人が日本ナショナルトラストに寄贈し、公開されている。この季節には2階からシダレザクラが見事に見え、一幅の日本画のようだというので見に行ってみた。今年は開花が早いので、もうすでに終わりつつあったけど、それでも見事だった。
   
 上の写真は最初がカラーで、次に同じ写真をあえて白黒に加工してみた。モノクロの方が面白いかなと思ったので。桜が満開だったらカラーの方がいいだろうが。この庭園には桜が一本しかないんだけど、2階の書院造の部屋から見ると実に見事。手が届くほど近くから見られる。ところで、旧安田楠男邸と言うけど、作ったのは安田家ではなく、藤田好三郎という人で豊島園の創始者である。震災後に家を失った安田善四郎が買い取った。藤田は中野にもっと広大な家を持っていたんだという。そっちは残ってないので、藤田好三郎という人はこの邸宅で名前が残った。
  
 旧安田楠男邸は地下鉄千代田線千駄木駅で降りて、団子坂を登って団子坂上から案内に従って5分ほど。団子坂というのは、鴎外の邸宅・観潮楼(現・森鴎外記念館)があったり、漱石の「三四郎」に出てくるところ。乱歩の「D坂の殺人事件」のD坂でもある。隣には高村光雲遺宅もあって、なかなかのお屋敷町。団子坂は今でもかなり急だけど、ゆるゆる登れば案外駅から近い。

 観覧料500円を払うと、荷物は預けてガイドの解説付きで周る。そのことで最初の作り主、藤田がいかに「目立たないぜいたく」をして作り上げたかよく判った。写真は撮れるけど、そんなには撮らなかった。1階の応接間や廊下の写真はこんな感じ。3枚目は台所。もともとは土間だったというが、楠男氏の結婚に際して当時最新式の台所に改装された。都市ガスを使っていた。昔の冷蔵庫(氷を入れて冷やす)などもあって面白い。
   
 だけどやっぱり2階が素晴らしい。庭から見るとまた違うかもしれないけど、水曜日は庭に出られない。このような近代の建築が震災、戦災を超えて、ほぼ建築当時のまま東京・山手線内に残っていたのは素晴らしい。また一年に2階だけ防空壕の公開もある。1階の畳を除けると、そこからコンクリ製の地下室に通じているもので、写真を見るとかなり不思議。興味深い建物が残されていたものだと思う。東京にいても見てない人が多いと思うけど、是非訪れる価値がある。今年の8月いっぱいで1年以上耐震建築のため休館。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボストン・テラン「その犬の歩むところ」はフシギな感動本

2018年04月04日 21時21分45秒 | 〃 (ミステリー)
 ボストン・テランその犬の歩むところ」(文春文庫)は2017年6月に出た。今年は戌(いぬ)年だし、もっと早く読みたいと思ったんだけど、ボストン・テランという作家はかなり手ごわい。「このミステリーがすごい」の8位に入選しているが、普通の意味でのミステリーじゃない。というか、普通の意味ではどんな小説でもない。動物小説や冒険小説であるとも言えるけど、感触はだいぶ違う。読み始めても進まないんでイラつくけど、我慢して読んでいくと圧倒的な情動が湧き起こる。

 これは「ギヴ」(GIV)という名前の犬2代に起こった物語。名前にEがないのは、書き落としたんじゃなくて、小説の設定である。登場した時点で名前はすでに付いていた。本当はGIVEだったのかもしれないが判らない。ある犬が砂漠の中のモーテルにたどり着き、犬をたくさん飼っているアンナと出会う。(ギヴのそれまでの前歴はわからない。)この小説は神のような作家が書いてる本じゃなくて、ディーン・ヒコックという海兵隊員がギヴと巡り合って書いた手記という体裁の本である。

 なんでこんな不思議な小説が書かれたかというと、主人公はギヴというより「アメリカ」なのである。原作は2009年刊で、さらにその数年前が描かれている。つまりブッシュ時代。ギヴは直接には、2005年にニューオーリンズに大被害を与えたハリケーン・カトリーナやその後のカリフォルニアの大火に関わった。だが、ギヴに関わった人間たちを通して、ケネディ暗殺ヴェトナム戦争、「9・11」(世界貿易センタービルなどへの同時多発テロ)やイラク戦争が語られる。アメリカ人にもたらした深い喪失感をギヴがいつも人間に伴走している。

 「癒し」と言ってしまうと簡単すぎてしまうけど、犬という動物の持つ人間に対する深い信頼に心打たれる。しかし、もちろんギヴに優しい人ばかりではない。ギヴは人間社会の闇をも引き受けて数奇な運命を歩む。でも、何度かにわたって、ギヴを必要とする人間と出会うし、ギヴはそういう人間をすぐに見抜く。これはギヴという犬によって、運命と向き合い生きる力を見出した人々の物語とも言える。この本は日本人にとっては「ポスト3・11小説」なんだと思った。

 ボストン・テランは覆面作家で、年齢も性別も公表されてない。日本では初翻訳の「神は銃弾」(1999)が2001年に翻訳されて「このミス」で1位となった。さらに「音もなく少女は」も2010年の2位になっている。この2作は読んでるけど、手ごわい割に僕には面白くなかった。だから、他にも何冊かある翻訳は買わなかった。手ごわいというのは、海外ミステリーには時々あるが、なかなか小説世界に入り込めないのである。ジェフリー・ディーヴァーやマイクル・コナリーのように、ひたすらスラスラ読めてどんでん返しが見事な作家もいる。だけど、人名も地名も把握しにくいし、社会のあり方も違っている。どうもよく判らないケースも多い。

 この小説も最初のうちは判りにくい。何はどうつながるのか判らない描写が多い。でもだんだんつながってくるので我慢して読んだ方がいい。ハリケーンや大火災に向き合う人々を読んでると、「3.11」を思い出してきて胸が苦しくなってくる。だけど、そこにはギヴがいる。犬を飼ってた経験がある人は、ギヴを通して彼らの人生と自分の人生もつながってくる。こんな小説は読んだことないというような、一風変わった小説だけど、書き残しておきたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北関東・花をめぐるバスツァー

2018年04月01日 23時04分56秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 東京ではもう桜も咲き終わって来た感じだが、北関東の方ではちょうど満開。バス旅のパンフを見ていた妻が、自宅そばに集合場所があるツァ-を見つけて、これいいんじゃない? そだねーということで、申し込んだ。他にも日にちがあったが、真ん中の日程にしておけばどこか当たるんじゃないかと思って、値段が少し高かったけど日曜に行くことにした。

 4つの場所を周ったんだけど、一番面白かったお昼過ぎの3番目から。花桃で有名な古河公方公園である。古河(こが)は茨城県の西端で、室町時代後期に、幕府が関東支配のために置いた「鎌倉公方」が分裂した時に、片方の「古河公方」(こがくぼう)が置かれた。そこらへんの歴史は複雑怪奇なので今は省略するが、江戸時代には古河藩主だった土井利勝が桃を領地に植えさせたという。それで1975年開園の公園に桃を植えて名物とした。
   
 ちょうど桜も満開で、バスが駐車場に入るときには桜のトンネルに歓声があがった。でも、中へ入ると赤い桃の花がいっぱい咲いていて、目を奪われる。天気も快晴、人もいっぱい、花見時の賑わいに満ちている。赤い「矢口」という種類が8割を占めるというが、何度見ても不思議なのは「源平」という種類である。白い花の中に、赤い花が交じって咲く。同じ枝どころか、中には同じ花の中に白い花びら、赤い花びらがある。なんでロゼにはならないのか、不思議。
   
 公園内には史跡もあって、まず5代古河公方の足利義氏の墓。駐車場の南には古民家が並び(写真は旧中山家)、その隣に「古河公方館跡」がある。まあ、残ってるものは何もないけど、こうして碑は立っている。関東人は関東の戦国時代を知らない。後北条氏が秀吉に滅ぼされ、代わりに家康がやってきて、それ以前はよほど歴史に関心がある人以外には忘れられてしまった。信長や秀吉の合戦には詳しいのに、地元の戦国合戦を知らないのはどうなんだと最近思うようになって関東の歴史を読み始めた。その意味でも面白いところだった。

 次が最後の場所、埼玉県幸手(さって)市の権現堂桜堤。全国的にはまだ知名度が低いかもしれないが、関東では最近上野公園や千鳥ヶ淵並みに知名度が上がってきた。日曜だから混むと思ったけど、ものすごい渋滞で参った。それまでは順調だったのだが、完全に車が止まった。まあ寝てるかと思ってウトウトしたら30分ぐらい眠ったようだ。起きた時、まだバスは100mぐらいしか進んでなかったのでガッカリ。ここは桜並木が素晴らしいが、同時に菜の花が見事。
  
 菜の花を見てると桜がボケてしまうが、桜並木がどこまでも続くのも素晴らしい。桜並木に入ると中には屋台がいっぱい。上野公園をもっと大規模にしたような繁盛ぶりに驚いた。ヤギさんを飼ってるのも面白い。いやあ、これが評判の権現堂桜かと満足できたけど、権現堂はない。
   
 さて、朝にもどってまずは栃木県栃木市の太平山(おおひらさん)。ここはアジサイも有名で大昔に行ったことがある。桜も有名だそうで、駐車場へ登ってゆくときの「桜のトンネル」はちょうど見ごろで素晴らしかった。だけど「車窓見学」で写真はない。駐車場からお土産屋まで歩くと下がよく見える。神社に上がってみるが桜はないじゃないか。桜の満開は道の途中の車窓見学だったのが残念。名物とされるのが団子・焼鳥・卵焼きだそうで、お団子を少し買って帰る。
  
 次は栃木県佐野市の三毳山(みかもやま)公園。カタクリで有名だ。万葉集にも出てくるという山で、なんだか山の中にカタクリ群生地があるのかと思ってた。そうしたら大規模に開発された公園になっていて、道の駅もある。だがカタクリ を見に行くためには、300段ぐらい登る必要がある。案外大変だった。ここは前から知っていて一度行きたかった。でも今日はもうほとんど残ってなかった。カタクリが満開だったら、桜は五分ぐらいだろうから仕方ない。カタクリは昔奥多摩の御前山の山頂で大群生を見たから、まあいいかとしよう。 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする