尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「若隠居」して判った「人間嫌い」ーブログ開設・退職から10年②

2021年04月13日 22時43分38秒 | 自分の話&日記
 東京新聞4月1日別刷りの「教員異動特集」を今年も一応見たけれど、ほとんど知っている名前がない。考えてみれば当たり前のことだが、自分より年長の教員はもう誰ひとりいないのである。もちろん年下の教員は残っているわけだが、先輩教員がいなければ知ってる人が半減する。

 10年経って一番思っていることは「10歳年を取った」ということだ。当たり前のことだけど、それが実感である。もっとも「15歳から25歳になる」方が変化は大きかった。ある程度年長になると、大きく変わることは少なくなるが、まとめて時間を振り返れば変化を実感するのである。

 ある時期から、自分は「定年退職後に嘱託で残ることはないんじゃないか」と思うようになっていた。それでも長らく定年まで勤めることは前提にしていた。それが21世紀になる頃から、1年、2年早く辞めたいなと思うようになってきた。文科省や都教委に付き合っていられないという気持ちが強くなったのである。生活が立つなら早く辞めたい教員は多いだろう。

 それがもっと早く辞めることになったのは、「教員免許更新制」という愚策が本当に実行されたことにある。今になって「教員のなり手が少ない」などと教育行政も危機を持っているようだが、今までの教育行政の行き着いた結果なのだから、何を今さら言ってるんだと思う。当時は「教員免許制度の抜本的改正」を掲げる民主党政権だった。免許更新制度を成立させた自民党政権だけでなく、今になっても「うっかり失効」の絶えない更新制をそのままにしてしまった民主党政権の無定見もひどかった。まあ、この愚策については改めて別の機会に書きたいと思う。

 僕は更新講習を受けなかったので、そのままでは失効になる。当時法律的な救済措置が可能かどうか検討したのだが、公務員が法律に基づいてなされる措置を差し止めることは不可能ということだった。時々報道で見る「地位保全の仮処分」というのは、民間どうしの争いの場合にしか求められない。ということで予定より早く退職するしかなくなってしまった。

 ところが、その後退職目前に東日本大震災が起きた。その結果、退職直後にボランティアに行くことになったが、更新制の実働と大震災がズレていたら僕ももう少し教員をしていたのかもしれない。まあ、そんなことを言っても仕方ないことだが。僕は若い頃から「退職したらやりたいこと」が幾つもあった。そして、そういうことを覚えていたのは最初のうち1,2年のことで、今はもう何をやりたかったのか自分でもはっきりしない。

 若い頃から関心を持っていた研究テーマをまとめること、自分の同期や卒業生の動向を訪ねて自分の同時代を確認すること、山登りを再開すること、今まで見てきた映画を見直して自分なりの映画史の見通しを付けること、ハンセン病や死刑廃止、教科書問題など関心を持ってきた運動に関わることなどなど。そんなことをやりたいと思っていたと思う。しかし、教員であるうちはいろんな人に会いたいと思っていたのに、辞めて判ったのは自分は特に誰とも会いたくないのである。

 いろいろな生徒や同僚と分け隔てなく付き合っていたと思うけど、思い出してみれば僕の本質はもっと「ヘンクツ」なものだったのである。自分なりの人前に出ることをトレーニングしてきて、最後の頃は保護者会で挨拶するなんて全然平気になっていた。生徒の前でしゃべることが当たり前になって何年も過ごして来たので、自分が本質的には「人間嫌い」だったことを忘れていた。

 最近引退を表明した横綱鶴竜は「何かから解放された」と言った。自分が辞めて思ったことも同じで、非常に大きな「解放感」を感じたのである。その証拠に、僕は長いこと冬場に「静電気」に悩まされてきた。乾燥してくると、いろんなところに触るとビリビリするのである。それが退職後は全然無くなった。自分なりに「内圧」のようなものがあったんだと思う。

 退職直後は「辞めない方が良かったのでは」と時々言われたのだが、辞めたときの解放感の大きさは他の人には伝えにくいなと思う。そうなってしまうと、今からあちこち出掛けて市民運動やボランティアをする元気が湧かない。結局「若隠居」した感じかなと思う。やりきれずに残っていることが多くて、出来ることなら一つ二つやりきってみたいとも思うが、ノンビリ暮らせるならそれでもいいかとも思う。まあ時々は温泉に行ったりしたいけれど。

 とは言うものの「教師であったこと」は一生消えないと思う。学校の夢をよく見る。自分が生徒の時もあるけれど、圧倒的に教師であることが多い。そして「何かの目的」を抱えながら、例えば「文化祭でクラスに行く」つもりで歩いているのだが、一向に行き着かない。障害が次々と起こって、校舎が崩壊していたりしてどこにも行けない。まあ夢というものはそういうものだ。しかし、どんな仕事をしていた人でも、職場でうまく行かない夢を見続けるんじゃないだろうか。そうやって、また一日一日年齢を重ねていくのである。
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ブログを書き続けることーブログ開設・退職から10年①

2021年04月12日 22時44分11秒 | 自分の話&日記
 2011年2月からこのブログを書いている。細かく言うと、今日(2021年4月12日)でブログ開設から3695日だという。それは「早期退職」を前にした時期だった。ちょうど10年経ったことになる。3月31日とか4月1日とかの「キリがいい日」に記念の記事を書こうかと思ったんだけど、自分の気持ちがまとまらない気がした。だから他の記事を書いていたんだけど、やっぱり「10年目のまとめ」も書いておこうかなと思って。時期が遅れたけど書いている次第。

 今も毎日のように書いているけれど、無理して書き続ける気は無い。書くのが大変になったら辞めればいいと思っているけれど、当面書きたいことは絶えない感じだ。去年のコロナ「ホームステイ」で判ったけれど、自分は本があれば生きていけるようだ。そして読めば感想を書きたくなる。もう本や映画の感想専門にしてしまおうかと思うときもある。でもやはり、社会問題国際情勢なども書きたくなってくるのである。「今を生きる」人間の一人としての義務感のようなものだ。
(昨日の記事をスクリーンショット)
 自分なりに何か文章を書くことは昔から好きだった。学生時代にはハガキ版の通信を出したことがある。それは「緑の五月通信」と名付けていた。その後21世紀になった頃から「電子メール版緑の五月通信」を書くようになった。それがブログに移行した感じかもしれない。当初は両立を考えていたのだが、多忙もあるけど「メールの一斉送信」が難しくなって止めてしまった。ブログ開設時は「教員免許更新制反対日記」と名付けていた。突然教員を辞めてしまったので、その理由や今やってることを報告することに意味があるかと思ったのである。

 5年経って、勤めていても定年の歳になったので「紫陽花通信」に変更した。教育関係の記事もおおよそ書いてしまったし、教員免許更新制度という愚策がなくても退職している年齢になったからだ。その時に書いたけれど、改めて書いておくと「紫陽花通信」というのは、奈良の「大倭紫陽花邑」という共同体から来ている。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会がハンセン病回復者施設交流(むすび)の家」を建てた場所である。僕は1980年にFIWCの日韓合同ワークキャンプに参加して、韓国のハンセン病定着村を訪れた。その時に事前キャンプで「交流の家」に泊まった。その後も何度も行っている。

 その前に真木悠介気流の鳴る音」を読んでいた。共同体のあり方として、同書はモチ型オムスビ型という概念を提出していた。「お米」という素材を完全につぶして一つにする「モチ」と米粒のままつながっている「オムスビ」の違いである。前者がヤマギシ会、後者が紫陽花邑だったと思う。僕は「個が個のまままとまる」「アジサイの花」を「クラスの目指すもの」と思ったから、時々思い出したように作る「クラス通信」は「紫陽花通信」と名付けていた。

 だから書くこと自体には何の苦労もないんだけど、それでも昔は一日に2つ書くことが時々あった。今はもう無理だと思う。書きためた記事も整理が必要だが、なかなかまとまった時間が取れない。時々そういう日があると、休憩したり読書に時間を使いたくなる。政治の記事はその時点では読まれるが賞味期限が短い。今となっては意味が無いものはどんどん削除しようと思ってるんだけど…。映画監督や作家などを長目にまとめる記事は、その時には読者が少ないけど数年経って読まれ始めることがある。面白いもんだと思う。政治や国際情勢に関しては、自分があらゆる問題をきちんと書けるわけではない。そういう必要もないと思う。

 誰に向けて書いているかというと、あまり意識しないでいるけれど特定層ではない「抽象的な固定層」かと思う。今さら「炎上」もしたくないので、あまり悪口は書きたくない。映画なんか人それぞれの好みで見ればいいので、僕が今ひとつと思った映画を大々的に批判記事を書く必要もないと思う。しかし、政治・社会などの記事では批判を避けることは出来ない。避ける気もない。誰かの気を損じるとしても、書くべきことを書くのは義務だと思っている。僕が社会科の教師になったのは、知っていること、学んだことを伝えていくためだ。僕がある程度知っているけれど、一般の理解は今ひとつだと思える問題には、書くべきだと思っているのである。
 
 そのためにはある程度の文章量が必要となる。だから「ブログ」が最適になる。「ツイッター」では誤解を招きやすい。それに僕の日々のあれこれを同時的に知りたい人は特にいないだろう。写真や動画を撮るのは面倒くさいから、そういうSNSもやらない。ただし、知り合いとつながっているため「Facebook」はやっている。今じゃブログへのリンクぐらいしか書かないことが多いが。でもブログに「尾形修一の」なんてどうでもいい個人名を入れ続けているのは、昔の知り合い(生徒など)が見つけやすくするためだ。もし良かったらFacebookで連絡を貰えればと思う。

 今後年齢をどんどん重ねるわけで、毎日書くことは少なくなるだろう。定期的に何曜日休みと決めてもいいけど、僕の場合見に行く映画(演劇、寄席)などの日程に左右されるので、将来にわたって何曜日休みとは決めにくい。それでもしばらくは週に6日ぐらいは書くと思う。どうでもいいこともあるが、自分の中に書きたいことが溜まりすぎないようにしているわけ。今後ともお付き合い願えればありがたいと思っています。なお、昨日は、3007829ブログ中635位だった。712人の訪問者。別にあまり気にしてないけど。最近は500位位内はほとんどなく、600~800代が多い。
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岩波新書「太平天国」を読む

2021年04月11日 22時39分07秒 |  〃 (歴史・地理)
 2020年12月の岩波新書新刊、菊池秀明太平天国」を読んだ。清朝末期に起こった太平天国の乱(1851~1864)は一時は中国南部を広く支配し、同時期に起こったインドのシパーヒーの乱(セポイの乱、1857~1959)と並び世界史的大事件として教科書にも大きく載っている。僕も一応表面的には知っているけど、そう言えば新書で読んだことはなかった。参考文献を見ると、かつて増井経夫太平天国」という本が岩波新書にあったが、1951年刊行だから古すぎる。他には研究書はあっても一般向けの本はなかったのである。

 よく太平天国について言われることは、指導者の洪秀全(1814~1864)がキリスト教の影響を受けていたこと、土地の均分男女平等を唱えたことなどである。だから近代的な革命運動みたいな感じを受けることになる。ウエスタン・インパクト(西洋の衝撃)を受けキリスト教に影響された「反帝国主義運動」という受け止め方を何となくしていた気がする。
(洪秀全)
 この本を読んで思ったのは、太平天国はそんなロマンティックな革命幻想で語れるものではないということだ。太平天国支配下では、家族が解体され男女が別々に別れさせられる。夫婦が会っただけで「密会」として殺されてしまうんだから、カンボジアのポル・ポト政権みたいである。偶像崇拝を厳しく禁じ、儒仏道の偶像を破壊して回ったから中国史では文化大革命というべきか。

 あまり細かな経過は書かないが、もともと広東省の客家(はっか=中原から移民して独自の風習を守り続けた人々)に生まれた洪秀全は、科挙に何度も合格できずに失意の時期に不思議な夢を見た。その夢で見た不思議な老人を、プロテスタントの宣教師が配っていたキリスト教の神ヤハウェと理解したのである。もっとも中国で理解されやすいように「上帝」と翻訳されていた。そして自分は神の子イエスの弟であると主張した。人は「上帝」にこそ従うべきで、だから清朝の「皇帝」は認めない。太平天国では洪秀全のもと、5人の「」がいる体制が作られた。
(太平天国関係地図)
 太平天国の乱は広西州の辺境で始まり、やがて長江一帯に攻め進み南京を攻略して「天京」と改名した。しかし、農村的色彩が強かった太平天国軍は都市を収奪する。清軍の重税と腐敗は驚くほどで、それに比べて規律正しい太平天国軍が勝ち進むのは当然だった。しかし、やはり都市を支配すると様々な矛盾が出て来る。男女平等どころか、洪秀全らは「後宮」を持っていたし、複雑な内部対立が存在した。キリスト教を旗印にしていたので欧米各国も注目したが、支援はしなかった。洪秀全が「イエスの弟」なんだから欧米各国の王より上になるリクツで、太平天国からすれば欧米が「朝貢」すべきなのである。

 著者の菊池氏は国際基督教大学教授。冒頭で最近の香港問題などに触れ、「中国の民主化は可能なのか」という視点で太平天国をとらえている。実際本書を読んでみると、歴史的に太平天国に一番似ている組織は「中国共産党」ではないかと思った。欧米由来の思想を「中国化」して受容し、古来より中国に根強い平等願望に応える規律ある革命として出発する。

 しかし、皇帝打倒を目指したはずが、いつの間にか名前は違うが事実上の「皇帝」を生み出していく。その過程で多くの闘争が繰り返され、膨大な人名が失われる。そっくりだが、ではなぜ太平天国は壊滅し、共産党は全国を統一出来たのか。そんな中国史の難問を思い浮かべながら、「人類史上最悪の内戦」を考える本だった。
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李鶴来と大石又七ー2021年3月の訃報③

2021年04月10日 20時29分32秒 | 追悼
 2021年3月の訃報の続きがある。李鶴来(イ・ハンネ)が3月28日に亡くなった。96歳だった。「在日韓国人元BC級戦犯」である。元戦犯に対する謝罪と補償を求める「同進会」を結成し、長く活動を続けた。その活動は今も実らずに継続して運動が続いている。1925年に全羅南道で生まれた。1942年、17歳の時に捕虜監視員としてタイに渡って「泰緬鉄道」建設現場に配属された。敗戦後に連合国から「捕虜虐待」の戦争犯罪者とされ、シンガポールの戦犯法廷で死刑判決を受けた。8ヶ月後に20年に減刑され、1951年に東京に移送され、56年まで拘束された。
(李鶴来)
 この間1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で、朝鮮・台湾などの旧植民地出身者は「日本国籍を離脱した」とされた。その結果、日本の元軍人・軍属に支給された恩給・遺族年金が支給されなかった。李らは差別的な扱いに屈せず、出所後の生活保障を求めたのである。生きるためにタクシー会社を設立しながら運動を続けたが、結局日本政府は「日韓条約で解決済み」として認めていない。「特別給付金」を支給する法案があるが未成立のままである。

 李鶴来の人生は国家間の狭間で苦しんだ一生だった。韓国では「戦犯」は長く「親日」ととらえられ、救済の対象と考えられなかった。名誉回復されたのは21世になってからだった。そもそも10代の少年に「戦争犯罪」があるわけがない。日本軍の上官の命令に逆らえるはずがない。「泰緬(たいめん)鉄道」(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)では国際法に違反した捕虜虐待があったことは間違いないが、その責任は末端の監視員ではなく命令者が負うべきものだ。そのようなB級戦犯そのものの問題もあるが、日本政府の対応は理解出来ない。

 李鶴来が大日本帝国と雇用関係にあったことは間違いない。その法的な関係は、大日本帝国を引き継ぐ日本国政府に継続するはずだ。国家間の「請求権」は国家間の協定で決められるが、個人との雇用関係の過去は消えない。イギリスやフランス、イタリア、ドイツなどでも植民地出身の軍人・軍属がたくさんいたが、独立したから補償しないなんて国はない。旧軍と雇用関係があったものは年金が出ている。何故ということを問う必要もない「当然の法理」だと思うけれど。「日本国」の持っている排外性と冷酷さを感じざるを得ない。

 大石又七が3月7日に死去した。87歳。「第五福竜丸」の被爆者として、反核の証言を続けた。静岡県に生まれ、中学を中退して漁師となった。1954年3月1日に、当時アメリカの信託統治領だったマーシャル諸島のビキニ環礁で行われた水爆「ブラボー」実験で「死の灰」を浴びる被害を受けた。アメリカ軍の装幀を超えた爆発となり、想定を超えた大きな被害を出したのである。(ロンゲラップ環礁では2万人が被爆し、爆発実験があった島は消滅した。)160キロ離れた場所にいた第五福竜丸船員23名も被爆し、大石も1年2ヶ月の入院を余儀なくされた。
(大石又七、第五福竜丸を背にして)
 故郷での無理解を避け、1955年に東京に出て2010年までクリーニング店を営んでいた。被爆については長く語らなかったが、多くの仲間がガンなどで死亡する中で、1983年に都内で中学生向けに初めて証言を行った。その後積極的に活動を続け、マーシャル諸島や国連本部も訪れた。核兵器廃絶に止まらず、放射線被害という意味で原発事故も同じだと語っている。第五福竜丸船員として、ただ一人証言活動を続けた人だった。

 沖縄県名護市にある国立ハンセン病療養所「愛楽園」自治会長金城雅春(きんじょう・まさはる)が8日死去。67歳。ハンセン病国賠訴訟の愛楽園原告団長を務めた。石垣島で小中学校を出て、高校在学中に発病し1980年に入園した。23年間自治会長を務め、ハンセン病の啓発活動にも積極的に活動した。
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映画「ノマドランド」、魂に触れる忘れがたい傑作

2021年04月08日 22時40分27秒 |  〃  (新作外国映画)
 2020年のヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲得したクロエ・ジャオ監督「ノマドランド」が日本でも公開された。アメリカでは各種の賞レースを独占する勢いだが、その評判にたがわぬ大傑作だ。社会派的な要素が強いのかと思っていたが、それもあるけれど人間の魂の奥深くを照らし出す作品だった。大自然の中を車で放浪する現代の「ノマド」(遊牧民、放浪者)の姿をじっくりと描き出し、見る者の魂に触れる忘れがたい作品。間違いなく今年のベスト級の作品である。

 主役のファーンという女性をフランシス・マクドーマンドが演じている。「ファーゴ」「スリー・ビルボード」で2回アカデミー賞主演女優賞を受賞した名優である。彼女が原作のノンフィクション、ジェシカ・ブルーダーノマド: 漂流する高齢労働者たち」を読んで映画化権を取得した。自らプロデューサーも兼務し、監督に中国出身の若手クロエ・ジャオを起用した。マクドーマンドともう一人を除き、登場する人物は実際の「ノマド」たちを起用した稀有の作品である。マクドーマンド自ら運転するだけでなく、Amazonや国立公園清掃員などで働くシーンもある。
(原作「ノマド」翻訳本)
 ファーンはネヴァダ州の石膏採掘の町エンパイアに住んでいた。夫のボーが亡くなった後も町を離れる気にならず、代用教員などで暮らしていた。しかし、2008年のリーマンショックで会社が倒産して、町ごと無くなってしまった。会社は町への立ち入りを禁止し、郵便番号まで消滅した。ファーンは夫が長年乗っていた車に最低限のものだけ詰め込んで、まずはAmazonの季節労働者になった。近くに車で泊まれるキャンプ場があり、雇用中はAmazonが宿泊代を負担する。季節が冬なので、多分クリスマス商戦期間だけ雇われているんだと思う。その間に仲間たちから情報を貰うが、車で放浪しながら生きている高齢者が多くいることを知る。
(アメリカを車で移動する)
 雇用期間が終わると宿泊代を自腹では払えない。ファーンも寒い冬を避けて、アリゾナのノマド集会に行くことにする。そこで出会うリーダーのボブ・ウェルズや病気を抱えたリンダ・メイなどは本人が自ら演じている。その存在感の重さは見る者の魂に響いてくる気がする。ノマドの暮らしには「自由」があるものの、「不自由」もある。例えば「排泄」だと自ら演じているぐらい、この映画はリアルである。多くのノマドたちは家を奪われて住む場所がなくなった人たちだ。61歳のファーンも「年金の繰り上げ受給」を勧められたが、年金だけでは生きていけないから働くしかないのだ。
(ノマドの「有名人」ボブ)
 アメリカの厳しい格差社会を感じるし、人種を問わず高齢者に厳しい社会だ。それでも探せば働く場所は見つかるから、車で移動しながら生きていく。そんな中で別れと再会を繰り返すことになる。ノマドは「さよなら」と言わない。「またどこかで」と言って車で去って行く。ファーンは「ホームレス」になったのと問われて、自分は「ハウスレス」だと答える。車が故障して修理代を頼むため、東部に住む姉を訪ねるシーンがある。姉はずっとここにいて欲しいと言うが、ファーンはやはり亡夫との二人旅に出て行く。好意を持ってくれるデヴィッドデヴィッド・ストラザーン=もう一人のプロ俳優)もいて、カリフォルニアの家族とともに一緒に暮らそうと言われるが…。
(デヴィッドと自然の中で)
 ファーンはもうベッドでは安らげない。どうして旅立つのか、それをどう考えるか。人それぞれに答えがあると思うが、人はどこであれ一人で生きていくしかない。その厳しさを身に沁みて感じさせる。そこにこの映画が魂の底に触れたような深さがあると思う。見る人それぞれで自分なりの答えを探して行けばいい。そういう映画だと思う。そこが「社会派」のレベルをさらに超えたところだ。今までに数多くのロードムーヴィーが作られてきたが、この映画は「」「パリ、テキサス」「モーターサイクル・ダイアリーズ」などに匹敵する傑作として語り継がれるだろう。
(クロエ・ジャオ監督)
 監督のクロエ・ジャオ(1982~)は北京で生まれ、アメリカで高校、大学を出た。幾つかの職を経て、ニューヨーク大学で映画を学んだ。父親が離婚し、女優のソン・タンタン(宋丹丹、チャン・イーモウ監督の武侠映画「LOVERS」などに出演)と再婚したりしたことが中国を離れた理由にあるのかもしれない。2015年のデビュー作は日本未公開。第2作が2017年の「ザ・ライダー」で、ロデオで重傷を負った現代のカウボーイを描く作品だそうだが未見。第3作が「ノマドランド」で、これほどの傑作を作り上げたとは驚きだ。中国ではクロエ・ジャオの過去の発言が批判されているらしいが、自国の暗部を見つめる映画が高く評価されるアメリカの底力こそ学ぶ必要がある。
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古賀稔彦、小野清子、前の山、沢村忠ー2021年3月の訃報②

2021年04月07日 22時09分45秒 | 追悼
 スポーツ関係など1回目に書けなかった日本人の訃報と外国人の訃報をまとめて。まずは元柔道選手の古賀稔彦(こが・としひこ)が3月24日に53歳で亡くなった。92年バルセロナ五輪柔道71キロ級金メダリスト。次のアトランタ五輪でも銀メダルを獲得した。名前は知っていたけれど、柔道のことは詳しくなく「平成の三四郎」と呼ばれた切れ味鋭い一本背負いの映像に驚いた。
(古賀稔彦)
 92年は岩崎恭子が200m平泳ぎで金、有森裕子がマラソンで銀を取ったことの方が印象深かったのだろう。柔道でも吉田秀彦が金だったが、それ以上に初参加の田村亮子が決勝で敗れて銀だったことが印象深い。現役引退後は指導者となり、アテネ五輪女子強化コーチを務めた。2007年から環太平洋大学教授。3人の子どもたちも皆柔道選手である。

 女子体操選手で東京五輪で団体銅メダルを獲得した小野清子が13日死去、85歳。女子体操では唯一のメダルになっている。夫は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われた小野喬で、小野喬は五輪4大会出場、金5、銀4、銅4獲得という記録を持っている。東京大会時にすでに2人の母で、「ママさん選手」の先駆けと言われた。1986年に参院選東京選挙区に自民党から立候補して当選、92年に再選されたが98年は落選、2001年に比例区で当選して、2003年に小泉内閣で国家公安委員長、少子化担当相を務めた。その他、スポーツ界の各種役職を数多く務め。なお死因は自宅で転倒して入院中に新型コロナウイルスに感染したためだった。
 (小野清子)
 大相撲の元大関、前の山が3月11日死去、76歳。1970年名古屋場所に関脇で13勝2敗をあげ、場所後に大関に昇進した。高砂部屋に所属し、張り手を武器にした激しい相撲だというが、取り口は覚えてない。しかし、大関としては実績を残せず10場所で陥落した。昇進後の最初の場所前にケガをして、最初の場所を休場してから立ち直れなかった。大関として二桁勝てなかった。72年春場所では「無気力相撲」が批判され、親方から休場させられて大関を陥落した。74年春場所で引退、その後は高田川部屋を創設した。98年に境川理事長の「名跡改革」に反発して、一門の意向に逆らって理事選に立候補、間垣親方とともに当選した。それが一番歴史に残るのか。
(前の山)
 「キックの鬼」と呼ばれた沢村忠を3月26日に死去、78歳。70年代初期に短い「キックボクシング」ブームがあり、その時代を支えた選手だった。タイのムエタイを日本でキックボクシングと名付けて、60年代末に興業が始まった。沢村は空手選手だったが、キックボクシングに誘われ66年にデビュー、76年に引退するまでスターとして活躍した。1973年に日本プロスポーツ大賞受賞。テレビ中継もあり、漫画にもなり、当時は非常に有名だった。引退後は自動車整備会社を経営。
(沢村忠)
清水勲、2日死去、81歳。漫画研究家。特に明治初期のビゴーワーグマンらの研究で知られ、岩波文庫の「ビゴー日本素描集」「ワーグマン日本素描集」を編集した。サザエさんや手塚治虫などの研究でも知られ「サザエさんの正体」などの著書がある。
中村平治、17日死去、89歳。インド現代史、東京外大名誉教授。著書「インド史への招待」など。
山崎剛太郎、11日死去、103歳。フランス文学者、翻訳家。東宝東和で多くのフランス映画に字幕を付けた。
大越愛子(おおごし・あいこ)、15日死去、74歳。女性学者、元近畿大学教授。僕には女性学者、フェミニズム研究の詳しい事情はよく知らないけれど、多くの啓蒙書を著した大学所属の研究者として名前を知っていた。著書に「フェミニズム入門」「女性と宗教」など。

 外国ではフランスの映画監督、ベルトラン・タヴェルニエが3月25日死去、79歳。フランスでは70年代から21世紀まで長く活躍したが、日本ではあまり紹介されなかった。中では「田舎の日曜日」(1984)はカンヌ映画祭監督賞を受け、日本でもキネ旬8位に入っている。パリのジャズミュージシャンをテーマにした「ラウンド・ミッドナイト」(1986)はアメリカでも高く評価され、ハービー・ハンコックがアカデミー作曲賞を受賞した。キネ旬4位。僕はその2作品の印象しか残っていない。
(ベルトラン・タヴェルニエ)
 アメリカのメトロポリタン歌劇場の指揮者を40年務めたジェームズ・レヴァインが3月9日死去、77歳。もともとピアニストとして10歳から活動。やがてジョージ・セルについて指揮者となった。1975年から「メット」の音楽監督、86年からは芸術監督を務め、メットを世界有数の劇場にした功績は非常に大きいとされる。99年にミュンヘンフィルの音楽監督になるが成功せず、04年に小澤征爾の後任としてボストン交響楽団音楽監督としてアメリカに戻った。しかし健康不安がつきまとい、また2017年には過去の少年に対するセクハラ疑惑が起こってメットを解雇された。その盛衰にアメリカ現代史が象徴されるようなクラシック界のアイコンだった。
(レヴァイン)
 カセットテープの開発者、オランダの技術者ルー・オッテンスが3月9日死去、93歳。オランダ・フィリップス社の製品開発部長を務め、1963年に初めてドイツの見本市で発表した。今までに世界で1千億本が売れたと言われる。他のメーカーにも製造許可を無償で与えたことで、世界に広まった。その後CDの開発にも携わった。そういう人がいたことも知らなかった。
(オッテンス)
バニー・ウェイラー、2日死去、73歳。ジャマイカのレゲエ歌手。グラミー賞を3回受賞。
ヘルムート・ビンシャーマン、4日死去、100歳。バロック演奏の大家のオーボエ奏者。バッハの権威。
パトリック・デュポン、5日死去、61歳。パリ・オペラ座芸術監督を務めたバレエダンサー。
辛春浩(シン・チュンホ)、辛ラーメンで知られる韓国食品大手「農心」創業者。ロッテ創業者の辛格浩(重光武雄)の弟。65年にロッテから独立し、即席麺を韓国の国民食に育てた。
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田中邦衛、篠田桃紅、大塚康生ー2021年3月の訃報①

2021年04月06日 23時00分18秒 | 追悼
 2021年3月の訃報特集。後半に多くの報道があった。1回目は日本の文化関係のみ。まず俳優の田中邦衛。3月24日死去、88歳。死因が「老衰」と報道されて驚いたが、数年前から衰えを見せていたらしい。故郷の岐阜で中学に勤務後、上京して俳優座養成所に通った。田中邦衛は7期生に当たり、同期に井川比佐志、山本學らがいた。50年代末から個性的な存在感を買われ、「人間の条件」などの映画に出演。60年代には東宝の若大将シリーズ、東映の網走番外地シリーズなどで主演を支えるバイプレーヤーとして活躍した。
(田中邦衛) 
 今回の報道を見ると、多くの人がテレビドラマ「北の国から」を思い出している。90年代以後の特番は見ているものもあるが、最初のシリーズを見てないから僕はあまり書くことがない。80年代にはテレビを持たなかったので見られない。舞台では70年代に安部公房スタジオに所属したが、それも見てない。だから僕は「仁義なき戦いシリーズ」などの東映実録映画で知ったのではないか。ところで、昨年亡くなった森崎東監督のATG作品「黒木太郎の愛と冒険」に誰も触れない。これこそ主演作品でもあるし代表作の一本ではないか。
(映画「学校」)
 僕にとって一番思い出にあるのが、山田洋次監督の「学校」だ。辛苦の中で生きてきた字も読めない下層労働者、イノさんを演じて忘れがたい。字を読めるようになりたくて夜間中学を知るが、竹下景子先生を好きになってしまう。競馬が大の趣味で、オグリキャップの活躍を授業中に熱弁したりする。この映画は定時制高校で何度も生徒に見せているが、そのオグリキャップのシーンを何度も見せてくれと言われたことがある。その思い出が強烈なのである。

 書家というより前衛的水墨画家というべきだった篠田桃紅(しのだ・とうこう)が3月1日死去、107歳。もともと書道の枠内で活動していたが、やがて50年代から抽象的美術家のような作品を多く作って海外で評価された。1956年に渡米、58年に帰国後一躍注目された。僕には作品のことは良く判らないけれど、多くの本も書いて知名度があった。長く生きたことで「百歳の力」「一〇三歳になってわかったこと」「一〇五歳 死ねないのも困るのよ」など最近まで続々と本を出していた。映画監督篠田正浩はいとこにあたり、映画「心中天網島」で背景に使われている。
(篠田桃紅) (著書「百歳の力」)
 アニメーターの大塚康生が3月15日に死去、89歳。日本のアニメ草創期から映画、テレビで活躍し後進に大きな影響を与えた。「白蛇伝」に始まり「太陽の王子ホルスの大冒険」の作画監督、テレビでは「ムーミン」「ルパン三世」「未来少年コナン」など。宮崎駿ルパン三世 カリオストロの城」の作画監督も務めた。日本のアニメ隆盛に貢献した人である。著書、画集も多い。
 (大塚康生)
 作家の小沢信男が3月3日に死去、93歳。訃報では「裸の大将一代記」が取り上げられるが、作品には東京徘徊記や昔の犯罪ルポなどが多い。もともと詩を書いていて、その後俳句も詠んでいる。花田清輝に認められ新日本文学会に参加したが、左翼的というより随筆・ルポのような作風で諧謔、風刺的な作品を書いた。今まで読んでなかったのだが、ちくま文庫に「ぼくの東京全集」という選集があった。読んでみたら面白かった。
(小沢信男)(ぼくの東京全集)
 本の装幀家(ブックデザイナー)、グラフィックデザイナーの平野甲賀が3月22日死去、82歳。武蔵美から高島屋宣伝部に務めたが、退職してフリーとなった。晶文社のほとんどの本を手掛けたので、ぼくには印象深い。マスコミでは沢木耕太郎深夜特急」が取り上げられているので、ここでも画像を載せておいた。一見して個性の判る字だった。黒テントや高橋悠治らの水牛楽団のポスターも手掛けたと出ていて、そう言えばと思い出した。
(平野甲賀)(沢木耕太郎「深夜特急」)
 映画プロデューサーの原正人が3月17日死去、89歳。ヘラルド映画に入社して多くの欧米映画をヒットさせた。黒澤明監督がソ連で製作した「デルス・ウザーラ」では製作協力を務めた。81年にヘラルド・エースを設立して「戦場のメリークリスマス」「」などの合作大作を製作した。他に「瀬戸内少年野球団」「失楽園」「金融腐食列島 呪縛」「リング」「武士の家計簿」などがある。
(原正人)
村上”ポンタ”秀一、ドラマー、9日死去、70歳。「赤い鳥」に参加し、73年からスタジオミュージシャンとしてジャンルを超えた多くの曲に参加。1万枚を超えるアルバムに参加、1万4千曲を超える収録を行った。ジャズが専門ながら、ピンク・レディもキャンディーズも山口百恵もバックでドラムをたたいていたのはこの人だった。
濱田滋郎、音楽評論家、21日死去、86歳。スペイン音楽研究の第一人者で、日本フラメンコ協会会長を務めた。
遠山慶子、ピアニスト、29日死去、87歳。フランスのコルトーに認められ20歳で渡仏、パリでデビューした。
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「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件の真実」を読む

2021年04月05日 20時57分41秒 | 〃 (さまざまな本)
 リチャード・ロイド・パリーの「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件の真実」(上下、ハヤカワ文庫)を読んだ。「感動的な魂の書「津波の霊たち」(リチャード・ロイド・パリー)を読む」を先に書いたが、そのリチャード・ロイド・パリー氏の前著である。「津波の霊たち」が素晴らしい本だったので、「黒い迷宮」も読んでみたいと思ったのである。原著は2011年に刊行され英米で非常に高く評価された。濱野大道氏による翻訳が2015年に出て、2017年に文庫化されている。

 これは確かに驚くべき犯罪ノンフィクションの傑作だ。ただし感想を書くのは難しい。犯罪そのもの、犯罪を犯した者、犯罪の被害者、その家族のことは、どんな事件であっても書きにくいと思う。しかし、このルーシー・ブラックマン事件ほど書きにくい事件もないように思う。事件は2000年7月に起こった。東京・六本木のバーで「外人ホステス」をしていたルーシー・ブラックマン(21歳、元英国航空客室乗務員)が行方不明になったのである。彼女は親友とともに日本に来ていた。友人が警察や英国大使館に相談に行くが消息はつかめない。そのうちカルト教団に入って修行するから探さないでというハガキが来る。真相はどこにあるのか。

 イギリスから家族もやって来る。しかし、ルーシーの父母は離婚していた。父はワイト島で新しい家族と暮らし、母はルーシーの妹、弟とロンドン南部の町に住んでいた。父と妹がまずやって来る。母も後に来るけれど、決して父とは同じにならないようにしていた。娘を思う気持ちは同じでも、別れた夫婦は全く「敵同士」のような状態にあった。この本がすごいと思うのは、英国人として取材しやすい条件はあるとしても、ここまで家族のことを深く書き込むのかということだ。出版前に原稿をそれぞれに見せたところ、双方とも相手に良く書かれていると言ったという。この両親の行き違いを読むのは辛いけれど、人間世界の苦さを読む者も味わうことになる。

 著者は英国人だから日本事情に関する説明が出て来る。それが日本人にも興味深い。外国から見れば、お酒の接待だけを行うホステスが理解出来ない。それはつまり「売春」の婉曲な表現なのではないか。しかし、僕もこの本を読んで知ったことだけど、「外人バー」は「同伴出勤」(客と夕食を食べて、その後一緒に店に来ること)は奨励されるけれど、店では一緒にお酒を飲んで会話をするだけなのである。ただ、その会話が「英語」であることに意味があった。英語で会話できる(と思い込んでいる)人が飲みに来て、観光ビザで来た外国人女性が接待するのである。

 日本人からすれば「英国航空客室乗務員」を退職して、バーで働くことは理解出来ない。しかし、英国では客室乗務員の地位は高くないのだという。それは「空飛ぶホステス」みたいな仕事で、チームを組むわけでもなく時間に追われる。そして客に飲み物を配って行くことで、妹によれば「姉は同じ仕事をしていた」ことになる。日本では客室乗務員(キャビン・アテンダント)なんて呼ばれる前は「スチュワーデス」と呼ばれ女子の花形職業だった。「容姿端麗」に加え「英語が話せる」ことが求められるから、「高級感」が出て来る。

 被害者には弱みがあって、カードでつい買い物をして借金がかさんでいた。そういう人はどこにでもいるのだ。だから疲れるだけの英国航空を退職して、日本で稼げるという話に賭けた。親友に誘われて一緒に来る気になった。代々木の「外人アパート」に住んで、すぐに六本木の仕事も決まった。そこら辺の話がじっくり進行し、なかなか真相が明らかにならない。たまたま沖縄サミットがあった年で、家族はブレア首相を引っ張り出して、日本の森首相に要請を行う。日本警察は威信を賭けて捜査せざるを得なくなる。それにしても、ルーシーはどこへ消えたのか。
(逗子マリーナ)
 冒頭に川端康成眠れる美女」から引用されている。そのことの意味が判明するとき、この犯罪の深淵に息を呑む思いがした。「逗子マリーナ」の写真を載せたが、ここは日本でも初期に開発された海浜リゾートで椰子が並んでいた。今はリビエラグループが経営するが、2000年当時はもうすぐ破綻するセゾン系の西洋環境開発が経営していた。ここは川端康成最期の地であり、この犯罪が起こった場所でもある。その犯罪を起こした「織原城二」という人の人生が語られる下巻になると、俄然物語は緊迫していく。

 それを書くのは止めておきたい。長い本だけど、自分で読んで貰えば判ると思う。自分で驚いて考えるためにも、また誤解を避けるためにも書かない方がいいと言うことが。とにかく犯人の人生は驚くべきものがあり、犯罪内容も驚くものだ。理解出来る犯罪はないかもしれないが、それにしても全く理解不能なタイプの猟奇的犯罪だ。犯人を突き止めることにおいて、日本の警察は有能だったとは言えないが、著者は日本ではこのようなタイプの犯罪と犯罪者は珍しいのだという。犯罪率が低く、捕まれば「自白」する犯罪者が多い中で、警察の捜査力と想像力は鍛えられない。「想像を超えた犯罪」には弱いのである。オウム真理教事件のように。

 僕はこの事件をうっすらと覚えているけれど、内容はほとんど覚えてなかった。当時の報道も覚えていない。日本の事件捜査に対する著者の見方は、なるほどと思わされた。起こった出来事も書かないけれど、容易に調べられる。本も入手しやすい。被害者の顔もいまさら載せる必要もないだろう。著者の写真と経歴は「津波の霊たち」の記事を参照。
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映画「狼をさがして」と東アジア反日武装戦線

2021年04月03日 23時22分40秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国の女性監督キム・ミレが作った記録映画「狼をさがして」が公開されている。1週目は午前10時50分、夜21時という時間設定だったが、今日から夕方17時の回があるので見に行った。「狼をさがして」なんて、幻のニホンオオカミを探すドキュメントかと思うロマンティックな題名だが、これは70年代半ばに爆弾闘争を繰り広げた「東アジア反日武装戦線」を探る記録映画なのである。時間にして74分なので抜けていることも多いが、まずは貴重な映画である。

 原題は「東アジア反日武装戦線」の方で、英語題は「East Asia Anti-Japan Armed Front」である。当時の韓国は朴正熙の厳しい軍事独裁政権だったから、日本の左翼テロ事件など注目されなかったに違いない。映画内では「忘れられたテロリスト」と言われているが、日本では60年代から70年代に起こった「反乱の季節」全体が継承されなかった。「連合赤軍」のあさま山荘事件リンチ事件、あるいは日本赤軍によるハイジャック事件などは、今も時々振り返られるからまだしも知名度はあるかもしれない。でも1971年12月のクリスマスツリー爆弾事件黒ヘルグループなんかの方が知られていないだろう。
(映画の題名場面。ハングルで「東アジア反日武装戦線」)
 僕は「東アジア反日武装戦線」と彼らの起こした事件のことはよく覚えている。1974年8月30日、東京丸の内の三菱重工ビル前で大爆発が起き、死者8人、負傷者多数が出る大惨事となった。ガラスが割れて降り注ぎ被害を大きくしたのである。その後「東アジア反日武装戦線 狼」の名前で犯行声明が出た。続いて三井物産大成建設間組など大手企業が毎月のように狙われた。「」以外にも「大地の牙」「さそり」を名乗ったグループがあった。僕は当時は浪人時代で、自分の境遇と合わさるかのような連続爆破事件に「どこまで続くんだろう」と思って過ごしていた。

 1975年5月17日に、主要なメンバーが一斉に逮捕された。その時に「大地の牙」の斎藤和は持っていた青酸カリで自殺したことが衝撃を与えた。他のメンバーも持っていたが使うことは出来なかった。逮捕者8名と指名手配2名の名前は僕は今でも全員言える。こういう言い方はなんだけど、70年代のグループで全員の名前を言えるのは東アジア反日武装戦線とキャンディーズだけなのである。それは彼らの提起した「日本のアジア侵略企業の責任を問う」という視点が日本近代史を学び始めた自分にとって強い印象を与えたということだ。
(キム・ミレ監督)
 監督のキム・ミレは韓国や日本で労働運動や人権問題を扱った記録映画を撮ってきたという。自分の親が日雇い労働者だったので、日本でも同じような境遇にある大阪・釜ヶ崎で取材していて「東アジア反日武装戦線」のことを知ったという。そこで数年にわたって彼らを追い続けた。2012年から2017年頃のことである。2017年に大道寺将司(「狼」、死刑囚)が獄中で死亡し、浴田由起子(えきた・ゆきこ、「大地の牙」、ハイジャック事件で超法規的に釈放、後ルーマニアで逮捕され懲役20年)が出所した。そこまでを追っているが、取材出来た当時者は荒井まり子宇賀神寿一浴田である。他は周辺の人物を取材している。
(浴田さんと荒井まり子さんの母)
 この事件は政治的背景のある事件で初めて死刑判決が出た事件だった。(その後、連合赤軍事件北海道庁爆破事件=冤罪主張事件で死刑判決が出た。)僕はその頃、他の冤罪事件に関して彼らと連絡を取ったことがあって、彼らの丁寧な対応に驚いた。マスコミ報道で「爆弾魔」的に伝えられていたが、ちょっと違うのかなと思った。死刑廃止運動に関わっていたから、僕は彼らの死刑判決を確定させてはいけないと思っていた。もう就職して多忙だったけれど、集会やデモに行ったことがある。当時の支援運動のミニコミなどはまだ取ってあるはずだ。

 今日は弁護士の内田雅敏さん、新聞記者鈴木英生氏のトーク付き。内田さんも指摘しているが、この映画には三菱事件の被害者が取り上げられていない。太田昌国氏が大道寺の俳句を通して触れられるだけ。監督は「日本ではタブーになっている」と語るが、それは「虹作戦」(昭和天皇暗殺計画)があったからだろう。那須御用邸から全国戦没者追悼式に戻る天皇列車を荒川鉄橋で爆破するという計画だったが、直前で中止された。その爆弾が三菱事件に使われたきっかけは、8月15日に起きた文世光の朴正熙韓国大統領狙撃事件だった。

 今から考えると、その事件の評価も間違っていた。そして三菱事件後の声明で死者を出したことを謝罪しないという決定的間違いを犯した。その事の意味はもっと考える必要がある。存命だったならば確実に取材したはずの松下竜一さんの「狼煙を見よ」も触れられていない。その意味では時間も短く点描で終わっている感もあるが、残された問題は見るものが考えるべきことだと言えるだろう。知らない人にこそ見て感想を聞きたい映画だ。

 なお、映画に中野英幸さんが出てきて斎藤和さんのこを語っていた。映画の宣伝コメントに友常勉さんも出ていた。故斉藤龍一郎さんとともに731部隊展をやったメンバーである。このブログに書いた「大道寺将司の死」、「文世光事件の長い影」も参照。
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「内政不干渉」と国際人権法ー安保理常任理事国の責任

2021年04月02日 23時07分49秒 |  〃  (国際問題)
 中国の抱える問題を書いてきたが、最後に中国やロシアが主張する「内政不干渉」という原則について考えてみたい。「内政不干渉」とは19世紀以後の国際法の中で確立された考え方で、もちろん今も生きている。もともとは弱小国が強国から不当に干渉されることを防ぐ決まりである。しかし、現実にはアメリカはずいぶん弱小国に「干渉」してきた。発展途上国が自国の資源を国有化するようになると、アメリカ資本を守るためにCIAが介入して政権転覆を謀るのである。一方、ソ連や中国も他国の共産党の反乱を支援していたから「内政干渉」していた。
(「内政不干渉」を主張する中国報道官)
 歴史的に見ると、今ではすべての国は「主権国家」として平等ということになっているが、19世紀段階ではそうじゃなかった。「欧米列強」が一番上で、その次に日本のように不平等条約の対象の「準文明国」、そして国家形成前の「未開」と分かれていた。しかし、20世紀になると2つの世界大戦を経て「民族自決」の考えが確立され、植民地だった地域もどんどん独立していった。それらの国々は国際連合に加盟して、国連加盟国として平等な地位を持つようになった。

 国際連合は単なる主権国家の集まりではない。第二次世界大戦のあまりにも悲惨な出来事を経て、もはや単なる「内政不干渉」ではいけないと思われたのである。例えばナチスドイツによる「ユダヤ人迫害」を内政問題として見過ごして良いものだろうか。だからこそ、国際連合憲章では基本的人権人間の尊厳を守ることを目的として国際連合を組織すると明記された。1948年には世界人権宣言が国連で制定された。だから、加盟国で重大な人権侵害が起きている時に、そのことを批判するのは今は「内政干渉」ではない。批判しない方が国連憲章違反だ。
(「内政不干渉」をめぐる国際法の歩み)
 宣言では法的拘束力がないから、それをもっと拘束力のあるものにしようと国連で検討が進められた。その結果「国際人権規約」が1966年の国連総会で採択された。二つあって、「社会権規約」と「自由権規約」である。正確に書けば「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」である。どちらも1976年に発効した。なお二つの「選択議定書」が後に採択された。一つは「個人通報制度」を認めるもので、もう一つは「死刑廃止条約」である。日本は選択議定書は未締約だが、人権規約本体は締約国になっている。
 
 ところで、この人権規約の加盟国を調べてみると興味深いことが判る。まず「自由権規約」から見る。これは思想・信教・集会などの自由、参政権、法の下の平等、拷問の禁止などを幅広く規定している。国連加盟国のうち、173国が締結しているのに、未だ署名はしているものの批准していない国の中に中華人民共和国がある。署名もしていない国にミャンマーサウジアラビアなどがある。それらの国の人権状況が厳しいのは当然だろう。中国がミャンマーやサウジを支援するのもなるほどと判る。

 一方、「社会権規約」を見てみれば、そこでは労働組合結成の権利教育や医療を受ける権利社会保障結婚の自由などが規定されている。こちらには何とアメリカが署名しただけで批准していない。公的な医療保険もないのは当然なのである。こっちには中国やミャンマーも加盟している。サウジアラビア、マレーシア、南スーダンなどはどちらも未加盟。ロシアやサウジを除くイスラム諸国はどちらも入っているが、現状は規約が守られているとは言えない。入っているだけで人権が守られるわけではない。

 だけど、国連安保理の常任理事国として国連内で特権を持っている中国やアメリカが、国際人権規約に入っていないのはおかしいのではないか。中国とアメリカがやり合ったけれど、アメリカは本当は中国に自由権規約を批准するべきだと迫るべきだった。しかし、社会権規約未批准のアメリカは中国にそういうことを言えない。だけど、そういう米中が常任理事国でいいのだろうか。特権には義務が伴うのではないか。ここでは中国が言う「内政不干渉」は、今ではその国の人権状況への批判には通用しない概念なのだと確認したい。

 日本政府の対応も感心しないことが多い。日本の場合、入ってない人権条約も多いし、なにより個人通報制度を一切無視している。これは人権侵害に対して、個人で国連に通報出来るものである。人権規約に入ると、人権状況の審査がある。外国人問題や刑事裁判での人権問題などが特に指摘されることが多い。だけど、日本政府も人権規約を認めているんだから、中国やアメリカを批判してもいいだろう。なお、中国に批判的なことを書いたが、中国の軍事的脅威を強調してアメリカと軍事的一体化を進める動きも危険だ。そのことももっと書きたかったが、長くなったので一端この問題は終わりにしたい。
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香港の「愛国者」とは誰のことかー「愛国者」の罠

2021年04月01日 23時08分48秒 |  〃  (国際問題)
 中国の全人代(全国人民代表者大会)は3月11日に「愛国者による香港統治」を決定した。大会での採決では、賛成2895、反対0、棄権1となっていて、たった一人だけど棄権者がいた。「勇気ある行動」なのか、「全会一致を避けるための茶番」などかは判らないけれど。その具体的な方法は30日に全人代常務委員会で決定された。下の画像は全人代常務委員会の採決時のもので、全員が賛成していて、反対、棄権はゼロだった。
(全人代常務委員会で香港の選挙法を変更)
 変更された選挙方法とは、立法会議員などの候補者が「愛国者かどうか」を事前審査する制度の新設、、香港政府トップの行政長官を選ぶ選挙委員会の権限強化立法会の定数を70から90に増やし現在半数の直接選挙枠35を20に減らすなどである。 直接選挙枠が90のうち20しかないんだから、仮に民主派が立候補出来て当選したとしても全く影響力を及ぼせない。これをもって「一国二制度」は事実上終わったと多くのマスコミが指摘している。
(香港の新しい選挙制度)
 1984年の中英共同声明を受けて、香港特別行政区基本法が制定されているが、その解釈権は中国全人代にあると前から決まっている。中国は中英共同声明は歴史的文書になったと決めつけている。共同声明をどう理解するかは難しい問題もあるが、常識的に考えて「中国は約束を守らなかった」ということだ。もっとも21世紀になれば、中国本土自体がもっと「民主化」されているだろうと多くの人が思っていた。この現実を見れば、台湾を「一国二制度」で統一するというシナリオは永遠に不可能になったと言っていい。

 近代中国の歩みは欧米列強に蹂躙された歴史だった。だから「国土統一」が何よりも優先する課題だというのは理解出来る。第一次世界大戦時のイタリアに「未回収のイタリア」という領土があったが、その言い方で言えば「未回収の中国」というものがあった。「香港」と「マカオ」は回収した。「東トルキスタン」(新疆)と「チベット」も譲ることはない。残っているのは「台湾」だという感情を理解することは出来る。だが、そういうことを言い出せば、僕は「沿海州の返還」をなぜロシアに要求しないのかが判らない。歴史的にはアヘン戦争以前からロシアが北方を侵略していた。

 近代は「国民国家」で構成されている。どんなにグローバル化が進んでも、いや進めば進むほど人々の「国家」に寄せる帰属意識は膨らんでいく。中国では革命後の混乱が長く続き、事実上の「鎖国」のようになっていた。人々はアメリカやソ連に対峙する毛沢東の姿を英雄視していただろう。しかし、「改革開放」後の発展する姿を見た時にこそ「中国が誇らしい」と思えたのではないか。オリンピックで中国選手が大量にメダルを獲得し、中国企業が外国でどんどん評価される。僕自身が高度成長下で育っているので、「国家の発展を我が事のように喜ぶ素朴な心情」が多くの人にあることは理解出来る。

 だが「国家主義」というのは暴走していくものだ。中国が香港に関して「愛国者」と言っているのはどんな人々を指しているのだろうか。国務院香港マカオ事務弁公室の張暁明常務副主任という人がこんな説明をしている。「愛国者」とは「国の基本システムに反対しない人」だと。「香港独立や混乱を招く人々、国の基本システムに挑戦する人は愛国者じゃないと明確に指摘されている」。かつて「国の基本システムに挑戦」して革命を起こした党が今ではこういうのである。

 これでは自民党右派の人々は大喜びではないだろうか。香港に学びたい人が日本にもアメリカにもたくさんいるだろう。歴史を顧みるまでもなく、「基本システムに挑戦する人」がいなければ、世の中は発展しない。日本の戦時中を思えば、無謀な戦争を続けた軍部が「愛国」を強要していたが、戦争に反対した少数の人々こそが「真の愛国者」だった。中国にだって、それを理解している少数の人はきっといるに違いない。その小さな声に耳を傾ける知的空間がどんどん狭くなっているかも知れないけれど。

 権力者が「愛国者」を持ち上げる時には、すでに「亡国」の兆しがある。中国はそういう段階に入っていて、このまましばらくは「国家主義」が世を覆うと思われる。だけど、そこにこそ「愛国の罠」がある。自由で柔軟な発想を禁じた社会は衰微に向かう。それがどういう形で現れるかは誰にも判っていないけれど、やはり中国も同じように歴史が進行するだろう。
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