尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「自衛隊」の海外拠点がある時代ー「同時多発テロ」20年①

2021年09月14日 22時49分01秒 |  〃  (国際問題)
 2001年9月11日のことは今も鮮明に覚えている。2000年4月から夜間定時制に勤務していたので、帰宅時間も就寝時間もそれまでより遅くなっていた。何曜日かまでは覚えていないので調べてみると、その日は火曜日だった。この日はケーブルテレビでCNNやBBCをずっと見続けた記憶がある。日本のテレビ局より情報が新しいかなと思ったのである。ブッシュ米国大統領はテロを「新しい戦争」と呼んだ。

 10月7日になって米英両国によるアフガニスタン攻撃が開始された。作戦名は「不朽の自由作戦」だった。ここから戦争の21世紀が始まったわけである。いつもは国際ニュースへの関心が低い生徒にも印象が強かったようだが、「このケンカはどっちが勝つのか」と問われて答えに窮した。

 当時の小泉純一郎首相は直ちに米国支持を鮮明にして、9月24日には訪米してまずニューヨークを訪れている。25日の日米首脳会談に先立っていて、こういう即応力は確かにリーダーとしての能力には違いない。そして10月5日には臨時国会に「テロ対策特別措置法案」を提出し、29日には成立した。このスピードは小泉内閣が発足半年でもっとも勢いがあった時代だったということを考えても異常なほど早い。

 この法律は2年間の時限立法ながら、自衛隊が実戦に参加する外国艦船にインド洋で給油を行うというものだった。これは最前線で戦闘に参加したわけではないけれど、明らかに戦争に参加する行為というしかない。当時の保守政治家には1991年の「湾岸戦争」のトラウマが大きく残っていた。米国等の多国籍軍に増税してまで多額の財政的貢献をしたのに、大きな評価は得られなかった。

 そのため「今回こそは何としても自衛隊を出す」が目的になっていたわけである。「テロ対策特別措置法」は2年延長、1年再延長、さらに1年再延長を繰り返し、その後第一次安倍政権の退陣、参院での「ねじれ」により失効した。その後、福田康夫内閣で「新法」が提出され、参院で否決されたものの衆議院で3分の2以上の賛成で成立した。2年間の時限立法で一度延長されたものの、民主党の鳩山由紀夫内閣で非延長が決定された。

 「9・11」は世界を変えたと言われる。確かにいろいろと変えたと思うが、日本においては「自衛隊が海外で活動することが日常化した」ということがある。その後イラク戦争にも「イラク特措法」を作って自衛隊を派遣した。そして、ついに2011年からはアフリカのジブチ恒久的基地を建設して常駐している。これは国連の平和維持活動(PKO)とは違う。国連の活動ではなく、自衛隊の活動なのである。
(ジブチの自衛隊基地)
 まあ正式には「基地」とは日本語では言ってない。「ジブチ共和国における自衛隊拠点」(Japan's Self Defense Force base in Djibouti)と言うようだが、baseは基地が普通の訳語だろう。ジブチと言われて判らない人は、下記の地図を見て欲しい。ジブチ国際空港に付属するように、海上、陸上自衛隊が400名ほど駐在している。最近では新型コロナウイルスに感染した隊員が多数にのぼると報道されている。
(ジブチの地図)
 「日本軍」が海外展開するとなると近隣アジア諸国が反発するのではないか。そう思う人もいるだろうが、そういうことは起こらない。何故なら中国は自衛隊よりもっと大きな海軍基地を建設して常駐しているのである。日本も中国も何でジブチにいるのかと言えば、もちろん「海賊対策」である。もともと米軍が中心になって行われていた海賊対処は、その後多国籍海上部隊が成立した。韓国もそこに参加しているので、日本を批判することはあり得ない。オーストラリアやパキスタン、トルコなども参加している。

 ソマリア沖の海賊事件は最近でこそ減ったようだが、対岸のイエメンでは悲惨な内戦が続いている。海賊だけでなく、武器密輸なども多い地帯だから「海上警察行動」の必要性は否定できない。しかし、このように中国に対抗するように「海外拠点」を持つことに慣れてしまっていいのだろうか。ジブチとは「地位協定」を結んでいて、自衛隊はジブチの法律の適用外になる。これでは沖縄における日米地位協定を批判できるはずがない。自衛隊が海外で活動することに多くの人が違和感を持たなくなった。それが「20年間で変わったこと」だ。
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「燃えあがる緑の木」三部作②ー大江健三郎を読む⑪

2021年09月13日 22時58分15秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎燃えあがる緑の木」の続き。第二部のラストで「ギー兄さん」が教会の展望を問われても答えられなかった。その場にいたピアニストの泉さんは、ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の映画「アレクサンダー大王」の話を皆にする。反政府ゲリラの首領だった通称「アレクサンダー大王」は時々「てんかん」を起こすが、その時仲間たちは背を向けて座り「見なかった」ことにすると。それにならって背を向けようという泉さんの提案を皆が受け入れる。ただしサッチャンだけはギー兄さんの姿に失望して教会を飛び出したのだった。

 サッチャンはそのまま教会を離れ、東京へ行く。一応K伯父さんの家に向かうと、しばらく伊豆の別荘を使うようにと提供された。その時に本を一冊借りたいと言うと、K伯父さんは矢内原忠雄アウグスティヌス『告白』講義」という本を選ぶ。サッチャンは「両性具有」者で、ある時期まで男として生きていた後、女として生き直す「転換」を体験した。第一部の終わりでギー兄さんが村人に糾弾された後で、ギー兄さんと性的に結ばれ自らの「転換」の意味が判ったと思う。そして二人で小さな教会から再出発しようと決意したのである。
(第三部 大いなる日に)
 サッチャンは伊豆の別荘で苦しみを通り抜け、別荘の隣人と知り合って「性的大冒険の日々」を送る。大江文学にはよくある設定で、「懐かしい年への手紙」にもそういう日々が出て来た。その日々を通して、「救い」を考えるが答えは見つからない。連絡の付かないサッチャンを訪ねてK伯父さんがやってきて、故郷の村でギー兄さんが襲撃され重傷を負ったと言う。ギー兄さんはサッチャンに戻って欲しいと言っていると伝える。3ヶ月ぶりにサッチャンは教会に戻った。

 ギー兄さんを襲撃したのは、かつて対立した新左翼党派だった。からくも生命だけは救われたものの歩くことは出来ず、内臓も損傷を受けた。そのため時々てんかんを起こすようになる。教会内部では、伊能三兄弟を中心に武闘訓練が行われ外部からの襲撃に備えている。一方で教会を外部に拡大することを目論み、「世界伝導の行進」を計画していた。谷間の村から原発阿川原発と書かれているが、「佐多岬半島の根方」とあるから明らかに伊方原発)まで行進し、そこで「集中」を行うというのである。

 「集中」とは教会で行われる「祈り」のことで、もちろん非暴力的なメディテーションである。原発当局にも事前に連絡してあったが、反原発活動家も加わり思いがけず大きな人数になった。そして「集中」の間に原発で軽微な事故が発生した。そのため「原発事故を待ち望む狂気の教団」と外部からの批判が大きくなる。伊能三兄弟は教会に近づけないように警戒を強め、教会に加わった子どもに会えないという親が「被害者の会」を結成する。一方で行進が終わっても村へ帰らず、全国を巡礼するグループが出て来る。教会では「武闘派」と「巡礼団」の対立が激しくなっていく。

 このようなラストに向けた緊迫感あるクライマックスは大江文学の特徴である。「万延元年のフットボール」や「洪水はわが魂に及び」ではラストが近づいた時の非常に緊迫した世界には一瞬も気を緩められない。「燃えあがる緑の木」で起きる教会内部の対立激化、ギー兄さんの決断も同じように緊迫した世界が展開されて、途中で止められない。サッチャンは「第一秘書」格でギー兄さんに付き添うが、対立には冷ややかな態度で冷静である。屋敷で事務を執りながら、教団の推移を見つめている。その視点が興味深い。
(Eテレ「100分de名著」で取り上げられた)
 ラストの展開と悲劇については触れないことにする。三部作を読むのは大変だと思うが、やはり現代日本文学の重要な達成であることは間違いない。ただし、僕にはいくつかの疑問もある。一つはギー兄さんを襲う集団が「新左翼党派」とされることである。「内ゲバ」は70年代後半から80年代にかけて、非常に重苦しい問題だった。しかし、90年代になるとほとんど起こっていないと思う。調べてみると革労協内部の暗闘が21世紀まで続いていたが、ここで暗示されるのは「中核対革マル」のどちらかだと思う。党派内で重要な人物ではなく、単に見張りをしていただけで今は離脱している人物を襲撃するのは現実感が薄い。

 その結果として、教会内部の問題ではなく全然無関係の「外部からの襲撃」によって、教会が大きく変えられることになる。そういうことは歴史上良くあるとも言えるけれど、本来は教会内部の矛盾と向き合うことによって、教会が発展もしくは崩壊していくというプロットの方が望ましいと思う。この小説だけで言えば、いろいろな可能性が「内ゲバ」によって潰えたという物語になってしまった。

 もう一つはあまりにも外国の思想、文学の引用が多いこと。今までも同じだけれど、今回はさらにイエーツダンテなどに止まらず、アウグスティヌスシモーヌ・ヴェイユなどに広がっている。大江健三郎はもともと学者的であり、知識人世界を描いてきた。とはいえ、ここまで外国の詩人や思想家が出て来るのはどうなんだろうか。もちろん学者世界を描く小説ならそれで良い。だがこの小説は「宗教」「救い」を扱っている。知識を積んでも救いは訪れないと作品内部で自ら語っているけれど、まさに「隔靴掻痒」という感じが最後まで付きまとう。

 最後に「救い主」や「教会」のイメージにどうもヨーロッパ的な感じが抜けないことである。四国の村の伝承がベースになっているのに、組織するとなると大学出ばかりで西欧的になってくる。伊能三兄弟は大学では「民族派」だったとされるが、教会内部では「救い主」を求める強硬派である。民族派ならば、むしろ「神ながらの道」のような方向を求めるのではないか。「絶対神」などなくても宗教が成立するのが、日本の神道ではないかと思う。日本の新宗教は西日本から発生したものが多い。四国の村にはそっちの方が相応しい気がする。

 大江健三郎は多くの小説で「コミューン的なつながり」を描いてきた。しかし、その時に「日本型」のコミューンではなく、日本の風土に基づきながらもベースにキリスト教的なムードが出て来る。「フランス文学」を学んできたからだろうか。ウィキペディアに、発表当時に読売新聞に掲載されたインタビューが紹介されている。「信仰対象となる人物のいない時代、そもそも既成宗教の基盤がない国で魂の問題を解決するには、自分たちで宗教のようなものをつくるしかない、と考える人たちの話です」というのだが、その結果日本では無理だ、あるいは少なくとも文学では描けないということになっている。

 日本で「救い」を深く考えようと思う時、仏教神道の検討は欠かせない。巡礼団の中心が曹洞宗の僧侶なので道元は出て来るが、日蓮親鸞は出て来ない。ここで扱われるテロも「政治党派」のものだった。だから「オウム真理教」やキリスト教、イスラム教の原理主義的なテロを考えるには、あまり役立たない。そういうような不満もあるのだが、これほどの力作には人生で一度は挑む価値がある。しかしまあ、他の傑作を順番に読んでいって、「燃えあがる緑の木」に至るというのが望ましいだろう。
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「燃えあがる緑の木」三部作①ー大江健三郎を読む⑩

2021年09月12日 22時36分03秒 | 本 (日本文学)
 新潮文庫から全3冊で出ている大江健三郎燃えあがる緑の木三部作を読み終わった。ちょうど「9・11」(アメリカ同時多発テロ)から20年ということで、関連のニュースが多い。僕もいろいろ感じることもあるが、宗教テロ、「救いはどこにあるか」などの問題はこの三部作で深く考察されているから、ここで考えたい。

 「燃えあがる緑の木」三部作は原稿用紙2千枚にもなるという大江作品で一番長い小説である。当初はこれを最後の小説にすると言っていた。内容的な疑問、完成度の問題はあると思うが、そのぐらい力が籠もっているのは間違いない。第一部は1993年11月、第二部は1994年8月、第三部は1995年3月に新潮社から刊行された。ちょうどノーベル文学賞受賞(1994年)を間にはさんだ時期で、刊行直後にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。僕は単行本は買わなかったが、1998年に刊行された文庫本を持っていた。
(第一部 「救い主」が殴られるまで カバー装飾=司修)
 この小説は今までの大江作品に出て来る「四国の谷間の森」を舞台にしている。それどころか、直接に「懐かしい年への手紙」(1987)を受けている。時代的には明示されないが、1990年代初頭と思われる。瀬戸大橋がすでに完成していること(1988年)、第2部で大江自身の「治療塔」(1990)、「治療塔惑星」(1991)の続編を登場人物が構想する部分があること、その話の中でソ連崩壊(1991年12月)に触れられていることなどである。だから主筋は1992年頃から始まるはずだ。

 この三部作は谷間の森に生まれた小さな宗教的共同体が拡大していくとともに、内外に衝突が起こるようになり「分裂」してゆく様子を描いている。その「教会」の名前が「燃えあがる緑の木」教会というのである。そのイメージと言葉はアイルランドの詩人イエーツから引用されている。「」と「」という相克するものを抱え込んだイメージは鮮烈である。3作目のラストでは実際に池の島にそびえる大檜が炎上する。

 「懐かしい年への手紙」では語り手の作家「K」(大江自身)にとって、兄貴格だった村の青年「ギー兄さん」による二度にわたる共同体建設の挫折が描かれた。ギー兄さんの悲劇的な死から10有余年、村の伝承を先のギー兄さんに伝えてきた「屋敷」のオーバー(祖母)は、いよいよ死が近づいている。そして「ギー兄さんを呼んできてくれ」と言う。「先のギー兄さん」はすでに亡くなっている。しかし、この時作中人物の多くは誰のことを指しているのかすぐに判ったのである。それは村に住んでオーバーから伝承を受けていた「」という人物である。

 以後村人は隆を「ギー兄さん」と呼ぶ。彼はこの地域出身の外交官「総領事」の息子で、大学時代に友人との関係で新左翼党派の「内ゲバ」に関与した過去がある。父は息子を外国へ送ることも考えたが、彼は父の友人でもある作家の「K伯父さん」(大江自身)の紹介によって森の「屋敷」に籠もることにしたのである。それは彼が「」についてじっくり考えたかったからだ。と言っても、一体これは何なんだろうと思ってしまう。なんで屋号のように「二代目ギー兄さん」を「襲名」する必要があるのだろうか。

 ところで、この小説の語り手は「懐かしい年への手紙」と違って、作家自身ではなく「サッチャン」という人物になっている。サッチャンは村の生まれだが、孤児となって屋敷に引き取られオーバーの世話をしていた。東京の大学へ通った時には、K伯父さんの家に住んで障がい児の「ヒカリさん」の通学に付き添ったこともあった。その時は男性として生きていたが、実は両性具有者だった。村へ戻ってからは女性として生きることにして、なかなか理解されない中を生き抜いている。大江文学初期には同性愛者が多く出て来ることを⑨で指摘したが、ここでは両性の特性を持つ「インターセクシャル」(半陰陽)の人物が重要な役割で登場するのである。

 さすがに大江文学最大の巨編だから、なかなか内容に入らないまま長くなってきた。2回に分けて、僕の疑問に関しては次回に回したいと思う。第一部ではオーバーがついに亡くなり、その葬儀では「童子の蛍」と呼ばれる伝統行事が復活される。K伯父さんも参加して、日を持って山を登るイメージが鮮烈だが、実は行事の裏には隠された目論見があった。そして葬儀の日、立ち上る焼き場の煙を潜った鷹が大岩に登っていた「2代目ギー兄さん」にぶつかってくる。その姿を多くの村人が目撃する。

 オーバーの不思議な力がギー兄さんに受け継がれた「奇跡」だと村人は受け取る。心臓病の子どもにギー兄さんが触れると奇跡的に病状が軽快する。小児ガンの子どもも生きる力を取り戻し、ギー兄さんは「救い主」なのかと評判になるが、一方でそれを認めない村人との対立も深まっていく。ガンの子どもが死亡し、村人たちは集まってギー兄さんを糾弾する。そこまでが第一部『「救い主」が殴られるまで』になる。
(第二部 揺れ動く(ヴァシレーション)
 第二部はどうしても「間奏曲」的な感じがするが、第三部に向けて重要人物が登場し、また重要人物が退場する。「ギー兄さん」(2代目)の父である「総領事」は、かつてサンフランシスコ総領事を務めていたことがあって呼び名が定着した。しかし、その後も順調に出世しアルジェリアなどの大使を務めた後、EC(ヨーロッパ共同体、1992年11月からEUとなる)駐在大使となって、当時のN総理(中曽根?)の信認も厚かった。しかし、その後定年を残して退官し、息子の住む四国の村へ戻ってきたのである。それは死に至る病を自覚したからで、晩年を「教会」に拠って「魂」に専念したいと思ったのである。

 また先のギー兄さん以来細々ながら続いていた農場に、「伊能三兄弟」がやってきて大躍進が始まる。三兄弟というが、実は兄弟といとこである。彼らは遊びに行った道後温泉のディスコで三人娘と仲良くなって連れてくる。彼女たちは実は音楽を学んでいて、教会の合唱隊の中心になる。伊能三兄弟を中心に農場が整備され商品化が進むとともに、農場の若者たちを訓練して警備するようになる。またかつて糾弾の中心人物だった「亀井さん」は運命の転変で教会に集うようになり、私財を投げ出して大きな教会堂を建てることになる。

 他にもK伯父さんの友人の息子ザッカリー・K・高安、「総領事」の後妻(ギー兄さんの義母)「弓子さん」、国際的に活躍するピアニスト「泉さん」などが登場し、教会の外面的な整備とともに内面的な儀式なども整備されていく。最後にヨーロッパを再訪したい「総領事」はギー兄さんと訪欧の旅に出る。その一方で、怪しげな新興宗教だとするマスコミの追求も激しくなり、特に「暁新報」の花田記者が追求の最先端にいる。(これらの人物は明らかに実在人物をモデルにしている場合もあり、花田記者は本多勝一なのだろうと思う。)

 そういう中でK伯父さんと総領事らは、イエーツやダンテなどヨーロッパの作品を論じ合う。そして「総領事」と葬儀の中で、教会なりの儀式が作られていく。(それらはあくまでも「サッチャン」の視点で「教会の歴史のための文書」として語られていく。)そこで明らかになっていくのは、小さな森の教会が思わぬ大きさに発展していく中で、「本当に神はあるのか」という問題が焦点になっていく。伊能三兄弟は教会のために、ギー兄さんは救い主であると宣言して欲しいと詰め寄る。しかし、ギー兄さんはうずくまってしまい答えない。その様子を見たサッチャンは失望して教会を去る。そこまでが第二部『揺れ動く(ヴァシレーション)』。

 これだけ書いても第二部までしか終わらない。これでもずいぶん登場人物もエピソードも絞っているのだが。この小説は「懐かしい年への手紙」を先に読んでいないと、話が通じないところが多いと思う。それどころか大江自身の今までの作品が相当に引用されている。だが、それらは読んでなくても判ると思うが、「懐かしい年への手紙」とは直接のつながりが強い。主人公が同じく「ギー兄さん」と呼ばれることも共通である。それとともに、先代ギー兄さんの時には失敗した「コミューン」が、今回は曲がりなりにも大きく発展した一時期があった。そのことの問題をどう考えれば良いのか。それは次回に。
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都立高校の「男女別定員」再考、「男女別学」こそ問うべきである

2021年09月10日 22時49分32秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 先に「都立高校(普通科学年制)の男女別定員制をどう考えるか」(2021.6.23)という記事を書いた。都立高校に「男女別定員」があることに反対運動がある。それに対して、東京の場合「私立女子高校」が多いためやむを得ないのではないかという自分の考えを書いた。その後、ジェンダー平等を求める弁護士らが「性差別」とする意見書を6月28日に公表した。また朝日新聞7月25日付「フォーラム」欄で「男女別定員は必要か」という大きな特集記事が掲載された。それらを読んで、もう一回書きたいと思ったのである。

 それらの記事では「公立高では都立入試だけ」と大きく報じられている。まるで東京の高校入試制度にだけ全国唯一の「性差別」が存在してるような感じである。しかし、東京に「男女別定員」があるということは、すべての都立高校が共学だということである。近隣県では「男女別学」のところがある。「別学」なら当然のことに「男女別定員」は存在せず、性別に関係なく成績順に合皮が決まるのみである。男女の合格ラインの差は生じない。
(全国の中高の共学、別学の割合)
 東京の「男女別定員」を問題にする人は、何故か全国の公私立高校に「別学」が沢山あることは問題にしない。どうしてだろうか。性別によって進学できる学校が制限されているということは、男女別定員制よりも遙かに重大な性差別だと僕は思うのだが。そもそも「男女別学」は憲法に反しないのだろうか。「お茶の水女子大学」「奈良女子大学」のように国立の女子大が存在してるんだから、違憲ということはないのだろう。まして私立学校の場合は、私立学校法で「私立学校の特性」「自主性」を認められている。

 しかし、公立高校の場合はどうなんだろう。戦前はもちろん別学というか、そもそも性別により制度そのものが違った。戦後改革で新制高校が発足したとき、西日本は共学になったところが多いが東日本では別学が続いたと言われる。それはGHQの教育に関する「指導」が東西で異なっていたからと言われたりするが、詳しい理由は知らない。東日本でも近年共学化が進んだところが多いが、それでも北関東には別学が残っている。

 埼玉県では浦和、熊谷、川越、松山、春日部高校が男子校である。一方で女子校として、浦和第一女子、川越女子、春日部女子、熊谷女子、鴻巣女子、松山女子などがある。群馬県でも前橋、高崎、大田、渋川、館林が男子校で、それぞれの地域に同名の女子校がある。栃木県でも宇都宮、足利、栃木、真岡、大田原などで別学になっている。(足利は共学化の予定。)不思議なのは茨城県で、水戸第二高校、日立第二高校では「制度上は共学」なのに男子は一人もいなくて「実質女子校」なのである。

 他にも公立の別学高校はあるし、前記高校でも定時制課程では共学というところが多い。校名を見ると、女子校(実質女子校)は「○○女子」とか「第二」を名乗っている。男子校が「○○男子高校」と名乗ることはないのである。埼玉県立浦和高校は東大合格者数で公立トップになることもある難関校として知られている。しかし、その高校を女子が受験することは出来ない。僕にはこっちの方がずっと重大な性差別だと思うがどうなんだろうか。

 大阪では近年になって「男女別定員」を止めたという。その結果男女比のアンバランスが生じているという。もし東京で「男女別定員」を取っていなかったら、旧制中学につながる高校(日比谷、立川、両国、戸山、小石川、新宿等)は「実質男子校」、旧制高等女学校につながる高校(白鴎、竹早、駒場、富士、三田、小松川等)は「実質女子校」になっていた可能性があるのではないだろうか。それが戦後になって「ほぼ半々」の男女別定員を設けたことで、「都立高校は共学」という考えが定着した。70年代に白鴎高校に入学した自分は、府立第一高女だった過去は歴史が古いという証と思っていただけである。
(東大合格者トップ校は別学が多い)
 上記にあるように、東大合格者が多い高校には別学私立高校がズラッと並んでいる。単に成績優秀者がもともと集まっているのかもしれないが、成績上昇のためには「別学」の方がいいのかもしれない。しかし、公立高校の場合は「男女がほぼ半々」であることが望ましいのではないか。もちろん高校には様々なタイプがある。専門高校では男女比が異なることが多い。工業高校は男子が多く、商業高校は女子が多い。それは日本の現実社会の反映だろう。そのこと自体も問い直す必要があるが、受験希望者が選んでいるのだから仕方ない。一方「普通科」高校の場合は男女半々ずつが自然だと思う。

 もちろん体育の授業や運動部の活動は男女別になる。しかし、学校行事や生徒会活動に男女共同で取り組むことは「男女共同参画社会」へ向けた若い世代のトレーニングとして欠かせないと思う。もっとも今の都立高校の募集要項では、男子の方が定員が多くなっている。それは前回記事で書いたように、東京に私立女子高校が多いためである。公私で協議して取り決めるので、なかなか変えるのも大変だと思う。しかし、僕はそこはおかしいと思う。「男女定員は同数」に向けて努力するべきだ。そのために経営上の問題が起きる私立高校の方で共学化を目指すべきだろう。しかし、「男女別定員」そのものは「男女共学」を担保する制度だったのではないだろうか。
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オンライン授業、「出席」の扱いはどうすべきか

2021年09月09日 22時52分07秒 |  〃 (教育問題一般)
 新型コロナウイルスの感染拡大で各学校で「オンライン授業」が行われることも多い。テレビで見たところでは、生徒が学校に行くか、家でオンライン授業を受けるかを家庭が選択出来る学校もあるという。ところで、「オンライン授業」を家で受ける場合、その扱いは「出席」になるのかと思っていたら、公立小中学校のオンライン授業は「出席停止」にするようにという文科省の通知があるという。東京新聞9月7日付記事では「出席扱い割れる 保護者不安 一部自治体が独自判断」と大きく一面で報じていて、僕はそのことを初めて知った。
(横浜市緑区の霧が丘学園、東京新聞の記事掲載のもの)
 この問題をどう考えるべきだろうか。最初に新聞を読んだときは、記事に引きずられるように「出席で良いのでは」と思ったのだが、その後さらに考えてみたら「文科省の通知の通り出席停止で良い」と思うようになった。まあ世の中全体にとってはそれほど大きな問題とも思えないが、こういう問題も学校にはあるのである。

 まず最初に書いておくが、法的には「出席扱い」にして問題はないと思う。今は「不登校」の生徒がフリースクールに通った場合なども「出席」扱いするようになっている。「オンライン授業」の場合、授業に参加していることを授業者が確認できるのだから、むしろ「出席」の方が納得できる感じもする。何も勝手に家にいるわけではなく、学校長の方針で家庭で「オンライン授業」を受けられるというから家にいるのである。

 そういう意味では「オンライン授業」を「出席停止」とするのは確かに違和感もあると思う。「出席停止」というのは「出席」でも「欠席」でもなく、「出席を要しない日」である。普通は「忌引き」と「インフルエンザ」なので、出席停止はゼロという生徒が大部分である。「忌引き」は児童・生徒の場合、祖父母の場合が多いから、遠い地方に行っても3日ぐらい。インフルエンザは結構長く掛かる場合もあるが、学校保健安全法の施行規則に決められた伝染病だから、勝手に学校に来られても困る。でも、まあ1週間ぐらいだろう。

 だから僕は「オンライン授業」を「出席」扱いにしても良いとは思うのだが、その場合「欠席」の扱いが難しくなる。「オンライン授業」に参加しない生徒は「欠席」なのか。その場合、体調が悪くて寝ているのか。それとも経済的にICT環境を整備できないため「オンライン授業」に参加できないのか。それとも一家に何人も子どもがいて、一度に全員が「オンライン授業」を受けられないのか。はたまた、もともとずっと「不登校」の生徒なのか。あるいは「新型コロナウイルス」に感染して本当に「出席停止」になるべき生徒なのか。あるいは単にサボっているのか。これらを授業者が的確な判断を下すことが出来るのだろうか。

 「オンライン授業」をどう扱うか、技術的に難しい問題も多々あるだろう中で、一人一人の児童・生徒が何故「オンライン授業」に参加できないのか教師に判断出来るとは僕には思えない。それとも「オンライン授業」の場合、受けてなくても一斉に出席扱いするべきなのだろうか。それはかえっておかしいだろう。そうすると、「オンライン授業」を受けたことを確認出来た生徒だけを「出席扱い」にすることになる。それでは「出席停止」の日数が他の生徒に比べてダントツに多い生徒は、家庭に問題があるのではないか、「オンライン授業」を受けられない環境にあるのではないかと思われかねない。

 ところで記事の中では「出席日数が内申点や成績にどう影響するか不安。特に受験生は気がかりだと思う」という「小学生の母」という意見が載っている。僕にはこれは意味不明だ。確かに僕の今までの教員生活を通して、就職や私立学校への推薦では「欠席日数」が一定程度以下であることを求められたことはある。でも「出席日数」を問題にする学校や会社があるだろうか。「小学生の母」だから、高校受験や就職ではない。私立中学や公立中高一貫校ならば、相手も「オンライン授業」やってるんだから事情はよく判っているはずだ。「私立学校では出席停止が多いと不利になりますか」と取材してみれば、そんなバカなことはないのがすぐ判るだろう。

 ところで「出席日数が内申点や成績にどう影響するか」という不安は、「課題提出」などの面では成績に影響することもあるだろう。実際に教室に出席している方が質問もしやすいと思う。しかし、全員ではなくても相当数の生徒がオンラインで受けている場合、配慮がされるはずだ。どちらかを選択できる場合にオンラインを選択した生徒が不利にならない工夫は必要だ。そのことを含めた上で、オンライン授業は「出席停止」という方針そのものはそれでいいように思う。
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歴史家色川大吉氏の逝去を悼む

2021年09月08日 22時14分38秒 | 追悼
 色川大吉氏が亡くなった。9月7日、96歳。健康に不安があることは大分前から伝えられていた。長命を保って、2010年代にも新著を刊行していたことに驚いていた。しかし僕はもうそれらを追いかけて読んではいなかった。「色川大吉」は僕にとって「青春」の思い出につながる歴史家なのである。僕は色川氏の本を読まなかったら、歴史を学ぶ道に進んでいなかったと思う。自分の人生に非常に大切な意味を持った人として追悼したい。

 今思い返してみると、色川大吉という人は歴史学者という枠に止まらない人だった。市民運動家であり、独特の高揚感を読むものにもたらす著述家だった。しかし、そういう顔を見せてくるのは70年代半ば以降で、僕が名前を知ったのはその前である。まず中公「日本の歴史」の第24巻「近代国家の出発」で名前を知った。ただ通史の一巻だから、これで特にどうこうということはないんだけど、小学生から中学生にかけて僕はこのシリーズを熟読したので思い出深い。基本的な日本史の流れはこのシリーズで学んだのである。

 高校2年の時に、朝日新聞日曜版「思想史を歩く」という連載で色川氏の文章を読んだ。そこでは三多摩地方の自由民権運動の深い広がりが紹介され、「五日市憲法」を作った明治の青年たちの息吹きが伝わってきた。そこで熱く主張されていたのは「日本に自生的な民主主義への道があったのだ」ということである。今から見れば、当たり前過ぎるかもしれない。しかし、その当時は近隣アジア諸国には民主主義システムの国はなかった。それどころか高度に発展した工業を持つ国も日本しかなかった。

 日本の民主主義は外国由来のものであり、「日本はアメリカに民主主義を教えられた」と信じる人も多かった。日本には民主主義の種がなかったというのである。だから、アメリカやヨーロッパを目指すか、それとも社会主義革命を目指すかの違いはあったとしても、「日本の未来」が日本史の中に見つかるとは思えなかったのである。そこに色川氏の文章を読んで、日本で歴史を学ぶ意味はここにあると思ったのである。続いて高校の図書室にあった「明治の文化」を読んだ。そして歴史系学科のある大学を受験した。
(「明治の文化」)
 今はお城が好きだとか、戦国武将が好きだとかいうのを「歴史ファン」というらしい。僕も実はそういう意味での歴史マニアでもあった。だが、それだけなら小説や映画が好きだというのと変わらない。「なぜ歴史を学ぶのか」は、「もう一つのあり得たかもしれない日本の可能性」を探し求めることで、「日本の未来を変えるためのヒントを見つける」ということである。色川大吉を初めとする「民衆史」の中に、求めていたものを見つけたと思ったのである。そして歴史の教員になったんだけど…。

 1971年に色川氏はユーラシア大陸を自動車で横断する大旅行を行った。その紀行は「ユーラシア大陸思索行」(1973)として刊行された。またチベット旅行が「雲表の国 青海・チベット踏査行」(1988)になった。このように単に歴史学者というより、大旅行家、紀行作家という存在でもあった。同時代の日本人のスケールを越えている。これらの旅行を組織する能力は水俣をめぐる不知火海総合学術調査団にも生きたと思う。その調査報告書「水俣の啓示」上下は分厚くてまだ読んでいないのだが。
(「ユーラシア大陸思索行」)
 1980年に色川大吉、小田実らと「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)を結成した。(1995年解散。)当時は毎年のように「右傾化」が言われていた。だから「これでいいのか」となるが、僕はなるほどと思いながらも全面的に参加する気にはならなかった。今色川氏の話を直接聞いたかどうか思い出せないのだが、日市連の集会にも1,2回は参加したような気がする。そこで見聞きしたかもしれない。(色川氏は国分寺市の東京経済大学教授だった。遠いので直接色川ゼミに参加する気はなかった。)
(「五日市憲法」を発見した深沢家土蔵)
 主著は「新編明治精神史」(1973)であり、「ある昭和史 : 自分史の試み」(1975)だろう。それらは普通の意味での「歴史書」とはかなり違う。政治経済史に触れることが少なく、歴史に埋もれている「個人」が大きく取り上げられる。「精神史」とあるが、それは「文学」「思想」などの表現を中心にしたもので、フランスのアナール学派のような「心性史」とはズレている。その後「社会史」が主張されるようになると、色川「精神史」が少し褪せた感じがしたものだ。そういうことを含めて、この情熱的な歴史家を再評価することはまだ誰も手を付けていない。残したものが大きすぎて、なかなか全体像が把握出来ないが誰か取り組んでくれないだろうか。
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ジャン=ポール・ベルモンドを悼む

2021年09月07日 22時15分30秒 | 追悼
 フランスの俳優、ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo)が9月6日に亡くなった。朝スマホのニュースを見たときには出てなくて、新聞を見て初めて知った。ジェーン・バーキンが倒れたというニュースが出てるのに、どうしてこの重大な訃報が出てないんだろう。2001年に脳梗塞で倒れて以来、ほとんど動向が伝わらなかったから、あれほどの世界的大スターが知られなくなってしまったのか。近年では2011年にカンヌ映画祭で名誉賞を受けたほか、2016年に出川哲朗と対面したといった画像が出て来るぐらいだ。

 ベルモンドは若い時は舞台俳優を目指していて、その後も時々舞台になっていたらしいが、日本では見られないから全然知らない。50年代末にフランスの若き映画監督に見出され、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)を象徴する映画俳優となった。特にジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(日本で付けた名訳)。ベルモンドの衝動的な性格設定が非常に新鮮で生々しく魅力的だった。
(「勝手にしやがれ」、左=ジーン・セバーグ)
 ベルモンドはフランスではまず大アクションスターとして認知されていると思う。同時代に活躍したアラン・ドロンが今でも日本で「美男子」の代名詞になっているが、フランスではベルモンドの人気の方が高かったと言われる。庶民風貌風貌で、コメディもアクションも出来るからだろう。その頃の60年代、70年代の娯楽映画群は当時公開されたまま忘れられていたが、2020年、21年に不思議にも日本でリバイバル上映されヒットした。

 体を張ったアクションの凄みは今見ても凄い。僕らはつい「ジャッキー・チェンみたい」などと思ってしまうが、ベルモンドが千葉真一を通してジャッキー・チェンにつながるという流れがあると思う。もっとも世界的に大ヒットした「リオの男」などは今見るとストーリー的にちょっと厳しいなと思ったが、刑事を演じた「恐怖に襲われた街」の壮絶なアクションは見どころがあった。アメリカのグラマー女優ラクエル・ウェルチと共演した「ムッシュとマドモアゼル」ではスタントマン役で、何でも自分でやっている。
(「恐怖に襲われた街」)
 ゴダールとはその後「女は女である」に出たが、「気狂いピエロ」(1965)で訣別した。ゴダールはどんどん革命化していき、ベルモンドはアクション大スターになっていくから当然とも言えるが、根本には演技観の違いがあったと思う。政治問題というよりも、ゴダールのシナリオを使わない即興的な演出がやりにくいということだろう。ゴダールの方も商業的スターは使わないようになっていく。それでも「気狂いピエロ」は僕の大好きな映画だし、ゴダールの最高傑作だと思う。衝動的な主人公を魅力的に演じきれるのはベルモンドしかいなかった。
(「気狂いピエロ」)
 ベルモンドはゴダール以外にも有名な監督と組んでいる。トリュフォーの「暗くなるまでこの恋を」でカトリーヌ・ドヌーヴと共演した。マダガスカル沖の仏領レユニオン島の煙草王を演じ、写真花嫁でドヌーヴがやってくる。これがまた悪女で主人公は振り回されるが、作中で「君は美しすぎる」と嘆息している。アラン・レネ薔薇のスタビスキー」では30年代の大疑獄事件の中心人物スタビスキーを貫禄で演じた。この作品では製作も兼ねている。しかし、何といっても一番はジャン=ピエール・メルヴィル監督の「いぬ」じゃないか。
(「いぬ」)
 僕はアラン・ドロンもメルヴィルの「サムライ」が最高だと思うのだが、スタイリッシュな映像で語られるギャングたちの疑心暗鬼、その中の孤独の描写が素晴らしいのである。「いぬ」ではベルモンドが密告者を疑われるギャングをやっている。筋がこんがらがって判りにくいが、こういうクールな役どころがカッコいい。イタリアのマルチェロ・マストロヤンニ、日本の勝新太郎菅原文太などに少し似ているが、他のどこの国にもいなかった独自の魅力がある。

 60年代には映画だけでなく、文学、思想、ファッションなどフランスの存在感は今とは比べものにならないほど高かった。ベルモンドやアラン・ドロンなどが日本でも大衆的人気があったのも、そういう時代性があったと思う。「フランス」に輝きがあって、「フランス映画」だったら見るという層があった。そういう「フランス趣味」を壊したのがヌーヴェルヴァーグだが、それでも「新しいフランス映画」として見られた。俳優もジャン・マレーやジェラール・フィリップなどを継ぐ新しいスターが求められた。ベルモンドはそんな時代を代表するフランス出身の世界的スターだった。一時代の終わりを感じる。
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木村敏、富山妙子、入江一子他ー2021年8月の訃報②

2021年09月06日 22時51分30秒 | 追悼
 2021年8月の訃報特集2回目。大きくは報じられなかったが重要な訃報が幾つもあった。精神医学者木村敏(きむら・びん)が8月4日に死去、90歳。京都大学名誉教授。笠原嘉、中井久夫らとともに、日本の精神病理学第2世代を代表する存在と言われる。国際的にも注目されている人だが訃報が小さかった。僕も詳しくないが、ちくま新書の「山竹伸二「こころの病に挑んだ知の巨人」」を読んだ時、ブログに以下のように書いた(2018.9.26)。「「時間」の概念で心を深くとらえ、世界的にも評価が高いという。僕も名前は知ってたけど、読んだことがなく全然中身を知らなかった。統合失調症はさまざまな兆候(幻聴など)を「未来」としてとらえる。一方、うつ病は「過去」にとらえられた病で、その間に「現在」の病もあって、それが「躁病」だというのは、なかなか考えさせられる。」単に精神医学に止まらず、哲学や思想への影響も大きかった。
(木村敏)
 画家の富山妙子が8月18日に死去、99歳。富山妙子はまだ存命だったのかと正直最初に思った。80年代までは相当有名な人だった。もっとも「社会運動圏」の人だけかと思うけれど。少女時代を「満州」で過ごし、戦後は筑豊炭田で働く労働者を描いた。70年代からは韓国民主化運動への連帯、慰安婦など日本の戦争責任を主題にした作品が多くなった。特に詩人金芝河の作品をもとにした作品、80年の光州事件をテーマにした『光州のレクイエム I』などで知られた。著書も多数ある。テーマが「政治的」であるとして日本の画壇では無視されたが、あらためて再評価するべきだろう。土本典昭監督の記録映画「はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮」の主人公になった。
 (富山妙子、作品は「祝出征」1994)
 画家の入江一子が8月10日死去、105歳。画家は長命である。植民地時代の朝鮮大邱で生まれ、女子美専(今の女子美大)を出た。60年代末から「シルクロード」を描き続け有名になった。中国、中央アジアから西アジア一帯を取材している。東京の杉並区阿佐谷に「入江一子シルクロード記念館」(2000年開館)が作られている。
(入江一子)
 作家の坂上弘が8月16日に死去、85歳。1955年、慶大在学中(19歳)に芥川賞候補となった。以来3度候補になったが受賞できなかった。70年前後に「内向の世代」と呼ばれた一員だが、この世代は古井由吉以外芥川賞を受賞出来なかった。リコーに勤務しながら執筆を続け、退職後は日本近代文学館長も務めた。代表作は「優しい碇泊地」「田園風景」などとあるが、僕は読んだことがない。
(坂上弘)
 作家の高橋三千綱が8月17日に死去、73歳。1978年に「九月の空」で芥川賞を受賞した。(同姓の高橋揆一郎と同時受賞。)同作は剣道に打ち込む青春を描く人気が高かった。「さすらいの甲子園」「天使を誘惑」など映像化された作品も含め著書は数多い。ゴルフ関係、時代小説、漫画原作なども多い。
(高橋三千綱)
 児童文学研究者、翻訳家の神宮輝夫(じんぐう・てるお)が8月4日死去、89歳。早大在学中に早大童話会で古田足日、鳥越信、山中恒らと知り合い「小さい仲間」を結成した。以後青山学院大教授のかたわら、多数の児童書を翻訳した。「ツバメ号とアマゾン号」に始まるアーサー・ランサム全集(岩波少年文庫)、「ウォーターシップダウンのうさぎたち」やセンダック「かいじゅうたちのいるところ」、劇団四季でミュージカル化された「人間になりたがった猫」など膨大な数になる。翻訳者を知らずに読んでいる本もあることだろう。
(神宮輝夫)
 近代文学研究者で文芸評論家、平和運動家の西田勝が7月31日に死去、92歳。戦後世代の研究者として近代日本文学館建設の中心となり、名前は西田が付けたという。明治の思想家、文芸評論家、田岡嶺雲(たおか・れいうん)の研究で知られ、半世紀掛けて2019年に全集を完結させた。一方で80年代には反右傾化を掲げて市民運動に参加し、特に80年代の反核運動を主導した。21世紀になって「植民地文化」研究を進めた。
(西田勝)
 女性学者、社会学者の井上輝子が8月10日に死去、79歳。70年代のウーマンリブ運動に参加し、1973年に和光大助教授となり、和光大学にいち早く女性学講座を設置した。日本における「女性学」確立の功績者と言われる。「岩波女性学事典」など多くの編著がある。
(井上輝子)
 元ひめゆり平和資料館館長の宮良ルリ(みやら・るり)が8月12日死去、94歳。「ひめゆり部隊」に18歳で動員され、戦後に県内外で証言を続けた。資料館開設に努め、2010~11年に館長を務めた。
(宮良ルリ)
 前IOC会長のジャック・ロゲが8月29日に死去、79歳。もともとはベルギーの整形外科医で、五輪にはセーリングで3回出場した。2001年から13年にかけ、IOC会長を務めドーピングに厳しい姿勢を示したことで知られる。東京五輪決定時の会長だった。
(ジャック・ロゲ)
鹿島光代、7月27日死去、92歳。ドメス出版会創業に関わり、女性問題の著書を多数出版した。
田島良昭、2日死去、76歳。累犯障害者の支援に携わった。
吉原公一郎、6日死去、93歳。作家、ジャーナリスト。「小説日本列島」は熊井啓監督で映画化された。日米安保の闇、疑獄事件の追求など数多くの著書がある。今は読まれていないだろう。
みなもと太郎、7日死去、74歳。漫画家。79年から「風雲児たち」を連載していた。
鍛冶真起(かじ・まき)、10日死去、69歳。「ニコリ」前社長で、「数独」の名付け親。
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ジェリー藤尾、笑福亭仁鶴、辻萬長他ー2021年8月の訃報①

2021年09月05日 22時22分44秒 | 追悼
 2021年8月の訃報特集。千葉真一を別に書いたので、1回目は芸能関係を中心に。歌手、俳優のジェリー藤尾が8月14日に死去。81歳。日中戦争下の上海で、日本人の父と英国人の母の間に生まれた。戦後引き揚げてきたが、母の死をきっかけにグレ始め、高校を中退してジャズ喫茶などで歌い始めた。歌手としては1962年にNHKの「夢であいましょう」で歌った「遠くへ行きたい」が代表作となった。紅白歌合戦に3回出場している。
(ジェリー藤尾)
 しかし、僕にとってジェリー藤尾は歌手ではなく俳優として記憶されている。鹿島茂は「昭和怪優伝 帰ってきた昭和脇役名画館」でジェリー藤尾に一章を充てている。僕も若い頃に見た60年代の映画にいっぱい出ていたというのを思い出す。「用心棒」など黒澤明作品にも出ているが、そういう作品より「偽大学生」「地平線がぎらぎらっ」「真田風雲録」などが印象深い。中でも「拳銃(コルト)は俺のパスポート」の宍戸錠の子分役は忘れがたい。容貌から「独特の脇役」という位置づけが多かったが、見た人には忘れられないと思う。
(「拳銃は俺のパスポート」、右=宍戸錠)
 上方落語3代目笑福亭仁鶴が8月17日に死去。若い人はジェリー藤尾を知らないかもしれないが、仁鶴は知ってるだろう。もっとも僕もテレビタレント、司会者としての仁鶴しか知らない。ナマで落語を聞いていない。上方の落語家は当然のことながら聞く機会が少ない。それに仁鶴の深夜放送も聞いてない。関西のラジオ局だったから。それでも60年代後半からの桂三枝(現文枝)や月亭可朝などと並ぶ仁鶴の活躍は東京でも知られていた。ボンカレーのCMもあったし。1985年から始まったNHK大阪制作の「バラエティー生活笑百科」は2017年まで毎週出演していた。この番組は定時制勤務の時よく見ていたように思う。
(笑福亭仁鶴)
 俳優の辻萬長が8月18日に死去、77歳。仁鶴はふりがなを付けなくても読めると思うけど、この人は「かずなが」と読むと今回ちゃんと知った。俳優座養成所14期生。91年以後、井上ひさしの「こまつ座」の所属俳優となった。だから僕は何本も見ている。じゃあ作品名を言えと言われると、何に出ていたのかすぐには言えないけど。女優しか覚えてないので、すみません。調べると「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」「兄おとうと」「夢の泪」「夢の痂」「イーハトーボの劇列車」などが出ている。映画にもテレビにもいっぱい出ているし、他の舞台にもいっぱい出たけど、やはり井上ひさし作品だろう。
(辻萬長)
 能楽師の野村幻雪が8月21日死去、84歳。狂言の野村万蔵の4男に生まれながら、能楽へ移った。兄の野村萬、万作とともに、3兄弟で「人間国宝」の指定を受けた。シェークスピアの作品を基にした新作能などにも取り組んだというが、能の話となると全く判らない。名前も初めて知った次第。
(野村幻雪)
 松竹の映画プロデューサーだった山内静夫(やまのうち・しずお)が8月15日に死去。96歳。作家里見弴の4男として生まれ、戦後に松竹に入社した。小津安二郎作品の製作に名を連ね、特に父が原作の「彼岸花」「秋日和」で知られる。後に松竹取締役隣、引退後に鎌倉文学館長を務めた。小津監督に関する回想なども残した。
(山内静夫)
 ローリング・ストーンズのドラマーだったチャーリー・ワッツが8月24日に死去。80歳。僕はローリング・ストーンズにも、ドラムにも語れるほどの知識がないから名前と写真を載せるだけで。
(チャーリー・ワッツ)
斎藤雅広、ピアニスト、8日死去、62歳。若くして認められ、テレビ、ラジオなどで軽妙なトークを交えた演奏で人気を集めた。
藤島メリー泰子、14日死去、93歳。ジャニーズ事務所名誉会長。ジャニー喜多川の姉で、多くの男性アイドルを育てた。作家藤島泰輔の夫人だった。
西脇久夫、30日死去、85歳。ボニージャックスのトップテナー。
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ガースー人間第一号ーそして菅政権は霧の中へ

2021年09月03日 22時56分31秒 | 政治
 9月3日に菅義偉首相が自民党総裁選に出馬しないことを表明した。というか、自民党の臨時総務会でそう表明した。国民向けにはきちんとした説明をしたとは思えないが、まあ、いつものことである。僕は一昨日に「内閣崩壊がいつ起こっても不思議ではない段階に入ってきた」と書いている。全然驚きはないが、もう少し粘るのかと思っていた。無派閥の菅氏が昨年立候補出来たのは、二階幹事長の支援が大きかった。その大恩人を辞めさせると伝えられていた。もう「冥府魔道」(「子連れ狼」)を行く決心をしたんだと思っていた。
(菅首相、総裁選不出馬を報じるテレビ)
 何でも小泉進次郎環境相に幹事長就任を打診したが、受け入れなかったという。将来ある(と自民党内で思われている)小泉氏に今幹事長を引き受けるメリットもないし、当選4回には荷が重いだろう。結局人事をやろうとして、誰も動かなかった。それは自民党の若手議員が派閥を越えて「選挙に勝てる顔」を求めていたということに違いない。その自民党の都合で9月いっぱいを次期総裁選びに費やすのである。新型コロナ対策、ワクチン接種、経済対策、アフガニスタン情勢…そんなヒマがどこにあるのか。

 僕は菅首相がパラリンピック終了後に退任する可能性は前から高いと思っていた。もう眼が死んでいて、とても権力闘争に耐えられる状態とは思えない感じだった。オリンピック、パラリンピック終了後に「安倍政権で一年延期した五輪を成功させることが出来た。新型コロナとの戦いはまだ長く続くので、若い世代にお願いすることにしたい」とでも言えば、権力にしがみ付いてる感じがしなかったんじゃないだろうか。もう誰も進言出来なかったのかもしれないが、横浜市長選で命脈が絶たれていたのだと思う。

 もともと1年前に「石破対岸田」では石破が勝ってしまいそうだから、石破阻止のためだけに「長老連合」にかつぎ上げられたのが菅政権である。己の身の程をわきまえていたならば、自分が選挙の顔にならないぐらい判るだろう。どうしても次も自分がやりたいんだったら、野党の要求を憲法上拒めないと言って臨時国会を開いてしまえばいいのである。そして(審議せずに冒頭解散を前回に続いて実行するのは難しいだろうが)、代表質問終了後にでも解散すればいいのである。選挙に負けても、立憲民主党が一党で過半数を取るのは難しいだろう。自公で過半数を割っても「維新」が助太刀するから第2次菅政権が発足するはずだ。

 「ガス人間第一号」は1960年に作られた東宝の特撮映画である。本多猪四郎監督の手腕もあって、東宝特撮ものの中でも傑作になっている。(八千草薫が美しい。)人体実験により体をガス化できる能力を持った青年が、美しい日本舞踊の師匠のため犯罪を重ねる。最後はガス化した主人公はヒロインの付けた火によって悲劇的な結末を迎える。「ガースー人間」は人事をもとに権力を握っているように見えていたが、やはり本質は「ガス人間」の一種だったように思う。実質がなく、単に気体を集めていただけの権力構造はあっという間に蒸発してしまった。
(「ガス人間第一号」)
 最後に燃え上がる前に自ら身を退けば良かったのに。と思うけれど、官房長官時代を見ていても、こういうやり方しか出来なかったんだろうと思う。今さら首相を変えるなんて、どう見たってアンフェアだ。この1年間の総括の意味で、自民党は菅首相で選挙するべきだった。官房長官8年を見ていたはずの日本国民は、なぜか「たたき上げ」とか呼んで「自助」を求める首相に当初は7割近い支持を与えた。それを思い出してみれば、次は誰がなっても「なんとなく」期待する層がかなりいるのだろう。その期間に選挙をやっちゃうとはフェアなやり口とは言えない。「ガースー」には完全に気化して貰って、衆院選にも出馬を取りやめるべきだと進言する人はいないか。(安倍、麻生、二階、菅、皆政界を引退すれば、政界はずっと風通しが良くなるだろう。)
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「孤狼の血 LEVEL2」はやっぱり面白いけど、

2021年09月02日 22時50分12秒 | 映画 (新作日本映画)
 白石和彌監督の映画「孤狼の血 LEVEL2」が公開された。東京は猛暑の8月から突然秋冷の9月になって、体も付いていけないような日々。そんな疲れた日々にあっても、絶対に寝ないで見られる熱い映画である。まあ疑問点も多いんだけど、あまり考え込まずに松坂桃李の活躍を楽しんで見れば良いのかもしれない。

 第一作の原作柚月裕子弧狼の血」(2015)は高く評価され、日本推理作家協会賞を受けた。映画化された白石和彌監督の「弧狼の血」(2018)もキネマ旬報ベストテン5位に選ばれた。原作も映画も広島県呉原市(架空)で起こる暴力団抗争と警察の対応を描いている。主人公の大上役所広司)は時には法律を無視しても暴力団と手を結び、町の治安を守ろうとする警官だった。ところが大上は前作の最後で殺されてしまった。

 前作では大上に付く若い警官日岡松坂桃李)がいた。日岡は最初は大上に疑問を持ちながらも、次第に大上の手法に共感するようになっていく。実は日岡には「秘密のミッション」があったのだが、大上の秘密ノートを受け継ぐ警官になってしまった。前作のラストでは日岡が裏で仕組んで尾谷組五十子組長石橋蓮司)を襲撃して殺害した。原作はその後日岡を主人公にして2作書かれているが、映画は基本的設定は前作を受けつつオリジナルストーリーとして作られた。1988年の前作から3年後である。

 殺害された五十子組長を慕う上林成浩鈴木亮平)が出所してくるところから始まる。上林(うえばやし)はさっそく刑務官の妹がやっているピアノ教室を訪れ報復をする。3年前の事件はすでに手打ちになっていたが、上林はそれを認めず五十子組内で思うままに暴れ始める。「ピアノ講師殺人事件」の捜査本部に日岡も呼ばれ、同僚として定年間近の瀬島中村梅雀)と組む。日岡たちは上林の獄中の様子を聞き、事件に関与している疑いを強めるが証拠が挙らない。日岡は親しくしている「華」のママ近田真緒西野七瀬)の弟近田幸太村上虹郎)を五十子組にスパイとして送り込んでいる。上林はあまりにもひどいと近田幸太(チンタ)から情報を得るが…。
(日岡と瀬島)
 原作も前作も「仁義なき戦い」(というか「県警対組織暴力」)みたいな話である。そのために広島を舞台にしてるわけで、もう「パスティーシュ」(模倣)というか「オマージュ」である。大真面目にやっているから「パロディ」ではなく、和歌で言う「本歌取り」みたいなものである。設定に現実性があるかどうかという批判をしても意味はない。しかし、2作目の上林はいくら何でもモンスター過ぎると思う。完全にサイコパスであり、多くの人が対応を誤って怪物を育ててしまった。しかし、そういう上林を大迫力で演じた鈴木亮平はすごいと思う。正直言って見ていて怖かった。
(上林とチンタ)
 間違いなくジャンル映画の傑作だが、この面白さは演技やスタッフの力量の確かさに支えられている。また白石監督の演出技量にも感嘆するしかない。日岡と関わる近田真緒を演じた西野七瀬は元乃木坂46メンバーとのことだが、大変良かったと思う。これはむしろSFで言うパラレルワールドだと思って、何故か広島県で「仁義なき戦い」が続いてるという世界の話として見た方がいいと思う。広島各地でロケされている。映画内では残虐シーンが多いので、嫌いな人は見ない方がいいと思う。
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臨時国会を開かなくてはならないー自民党総裁選前の混迷政局

2021年09月01日 22時21分59秒 | 政治
 あまり細々とした政局の話をもう書きたくないなと思う。数年前に書いた記事が後で読むと自分でも意味不明だったりする。「賞味期限」が短すぎるのである。何にしても2ヶ月以内に衆議院選挙があるんだから、それだけ書けばいいようなものだ。そう思っていたのだが、最近の菅義偉首相の混迷ぶりはひどすぎる。

 突然、来週にも党役員と内閣の改造を行うらしい。自民党総裁選が「無投票で菅再選」なら、それでいい。しかし、総裁選告示前に幹事長を変えるなど、普通はあり得ないだろう。もちろん党役員は総裁に人事権があり、内閣改造も首相の専権事項だとは思う。でも普通の感覚では、総裁選で決定した次期総裁(それが菅氏自身であっても)が決まるのを待つものだろう。こんな風に人事を強行するのは、1974年11月の田中角栄首相を思い出させる。内閣崩壊がいつ起こっても不思議ではない段階に入ってきたのではないか。

 今やるべきは「臨時国会」である。いま国会を開けば、野党の鋭い追求が予想される。菅首相の答弁ぶりにも不安が残る。もうすぐ選挙だというのに、国会を開いてわざわざ野党を勢いづかせるのは、愚の骨頂だというのが首相の考えだろう。選挙対策だけなら、国会を開かない方が有利だ。しかし、もちろん臨時国会は開かなければならない。憲法上の規定である。「第五十三条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」
(「政府・与党 臨時国会応ぜず」)
 野党4党(立憲民主党、日本共産党、国民民主党、社会民主党)が臨時国会の召集を求めたのは、先々月の7月16日である。4分の1を越えているから、臨時国会を開かなければいけない。自民党総裁選は自民党の党則で総裁任期が切れるから行われる。これは私的なルールである。一方、臨時国会の開会要求は憲法上の規定である。これは国のルールである。今の菅内閣は国のルールより、自分たちのルールを優先している。そういう政治は「覇道」であって、「王道」ではない。そういう政治家が「愛国心」などと言う資格はない

 7月29日に愛知県常滑市で開かれた野外フェスで、感染対策が不十分で酒類の販売も行われていたと問題になっている。このフェスに経産省が3千万円の補助を予定していたが、主催者に違反があった場合補助金の交付取り消しを検討するという。確かにこの音楽祭は問題だと思うが、一体補助金を取り消す資格が政府にあるのだろうか。僕は思わずそう思ってしまった。法律で規定されたわけではない政府や自治体の「要請」レベルに対する違反を、憲法の規定を堂々と無視する内閣が非難出来るんだろうか

 ところで自民党総裁選9月17日告示、9月29日投開票で行われる。もっとも衆議院が解散されれば、総裁選も先送りかと言われている。首相は公式的には「今のコロナ感染状況では、解散出来ない」などと言っているが。戦後一回しかない衆議院の「任期満了選挙」になるのだろうか。日本の憲法では首相の権限が強く、やる気になれば相当粘れる道がある。菅首相が諦めなければ、いろんな可能性がある。総裁選に岸田文雄前政調会長が立候補を表明し、記者会見で党役員は1期1年、3回までとすると表明した。これは幹事長を最長期間務めている二階幹事長への「解雇通告」みたいなもんだ。そうしたら、菅首相は総裁選前に幹事長を交代させる手を打ってきた。
(二階幹事長交代へ)
 政治ウォッチャーには面白い展開だが、いくら何でも国民無視の党内抗争というしかない。特に何故かいつまで「人気が高い」とされる河野太郎氏を重要ポストに抜てきするとの予測もある。ワクチン接種担当をやらせておいて、今変えるのは「コロナ対策最優先」が口先だけだということになる。現任政調会長でありながら総裁選出馬を模索した下村博文氏は、何故か菅首相と面談した後に「出馬見送り」を表明した。どうなってるの?その裏で重要ポストを提示されたという説もあるらしい。いくら何でも「下村幹事長」はやり過ぎだろう。

 マスコミでは次期幹事長に早くも何人かの名前が上がっているが、あえて思いがけない推測をしておけば、一人は野田聖子氏か。現在「幹事長代行」をやっていて、幹事長が退任するということなら「代行」が昇格するのが「自然」という「建前」のもと、女性幹事長に選挙を仕切って貰う。もう一人は奇手過ぎるかと思うが、二階は辞めるが麻生はいつまでやるんだという声もあるし、思い切って麻生副総理に幹事長就任を要請するという手である。財務相は「党内融和」を名目に石破茂氏を充てる。いろんな人事を考えていると思うが、一番の問題は菅内閣の人事に乗ってしまったら、若手には将来がなくなる可能性がある。しかし、そういう問題と別にして、ルールに則ってまずは国会を召集することが必要だ。
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