尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『オフィサー・アンド・スパイ』、ドレフュス事件を描く傑作

2022年06月15日 22時20分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロマン・ポランスキー監督の『オフィサー・アンド・スパイ』という映画が公開された。題名だけでは何だか意味不明だが、これは19世紀末フランスで起きた「ドレフュス事件」の完全映画化といえる作品である。2019年のヴェネツィア映画祭審査員大賞国際映画批評家連盟賞を受賞した。原題は「J'accuse」で、作家エミール・ゾラの有名な弾劾文「私は告発する」(あるいは「我弾劾す」)である。日本語題名は、原作になったロバート・ハリスの小説『An Officer and a Spy』から。この人はポランスキーの『ゴーストライター』(2010)の原作者である。

 冒頭でフランス陸軍砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスの軍人名誉はく奪の儀式が描かれる。大きな建物の前に軍人が建ち並び、そこをカメラがゆっくりとパンしてゆく。ドレフュスは「私は無実だ」と叫ぶが、容赦なく階級章が剥ぎ取られていく。結局無実の冤罪だったわけだが、このような不名誉の儀式が行われるのか。そこから時間が戻って、実は真の主人公であるジュルジュ・ピカールとドレフュスの関わりが示される。そこから裁判になって、非公開の軍法会議でドレフュスに終身禁錮が言い渡される。そして南米ギアナ沖の俗称「悪魔島」に送られた。1895年のことである。
(名誉はく奪式)
 ドレフュス事件といっても、今では日本ではほとんど忘れられているだろう。僕の若い頃はかなり違っていた。「自然主義の大家」ゾラの名前は有名で、松川事件救援に立ちあがった作家広津和郎は「日本のゾラ」と呼ばれた。戦後日本では共産党をターゲットにした冤罪事件が多発し、1920年代のアメリカで起きたサッコ&ヴァンゼッティ事件と並び、ドレフュス事件も「政治的冤罪」として知られていたのである。1930年に書かれた大佛(おさらぎ)次郎の傑作ノンフィクション『ドレフュス事件』に詳しく経過が描かれていて、僕も若い頃に読んでいろいろと教訓を得たものだ。
(実際のドレフュス)
 1895年にピカールが新任の諜報部長に就任し、士気が乱れていた諜報部の立て直しに着手する。ドイツ大使館のごみ箱から出た紙くずを清掃人の女性から秘かに入手していたが、ピカールが復元してみたところ怪しい人物が浮かび上がる。警察に頼んでそのエステルアージを調べると、ドイツ大使館との秘密のつながりが明るみに出て来る。エステルアージの自筆文書が入手出来たのだが、それを見たピカールはドレフュスのものとされた文書と筆跡がそっくりなことに気付く。ドレフュスを有罪とした証拠を再検討すると、すべてあやふやなものだった。ピカールはドレフュスは無実で、エステルアージが真犯人と確信してゆく。
(ピカールと愛人モニエ夫人)
 その時点ではピカールはまさか軍が真実を拒むとは思ってもいなかった。外部に漏れる前に再審を開いてドレフュスを釈放するべきだと上層部に上申するが、この事件は終わった、一切触れるなと言い渡される。それでも引き下がらないと、かえってピカールの方が軍の名誉を汚すとして左遷され、ついに命の危険を感じたピカールはすべてを告発する決意をする。ドレフュスを守れというエミール・ゾラの告発が新聞に掲載された日、ピカールは逮捕されてしまった。結局いろいろと曲折がありながら、ドレフュスとピカールの名誉は回復されたわけだが、この事件から得られる教訓は大きい。
(エミール・ゾラ)
 権力機構は自分の権威を守るためには、真犯人を守ることさえする。証拠の偽造さえする。そのことが判っていると、現代日本で起きた袴田事件などを理解するのに役立つのである。この映画は事件の経過と関係人物をていねいに描いていく。的確な編集リズムで、事件の構図を判りやすく提示する。その古典的な出来映えは、ポランスキーとしても「テス」「戦場のピアニスト」などを思わせるほどである。ポランスキーには過去に少女との性的スキャンダル問題があって、セザール賞の監督賞を受賞したことに抗議活動があった。しかし、演出の力量に限って言えば、確かなものがある。

 ピカールにはジャン・デュジャルダン(『アーティスト』でアカデミー主演男優賞)、ドレフュスルイ・ガレル(父フィリップ・ガレルの『恋人たちの失われた革命』主演)、ピカールの愛人モニエ夫人にエマニュエル・セニエ(ポランスキー夫人)、筆跡鑑定人にマチュー・アマルリックなどなど。撮影は『戦場のピアニスト』以後のポランスキー作品を担当しているパヴェル・エデルマン、音楽はアレクサンドル・デスプラ。現実のピカールはその後軍籍に復活して、少将まで昇進。ドレフュス救援の同志だったクレマンソー内閣で陸軍大臣となったが、1914年に落馬して死亡した。ドレフュスも軍に復帰したが、健康を害していて1907年に退役。1935年に75歳で亡くなった。
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