豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

桐野夏生『グロテスク』

2009年06月14日 | 本と雑誌
  
 桐野夏生『グロテスク(上・下)』(文春文庫)は、東電OL殺人事件の被害者をモデルにした小説である。

 巻末に「実在する人物・・・とは一切関係ありません」とあるが、この小説を東電OL殺人事件と一切関係ないと思う読者がいるだろうか。
 この小説から東電OL殺人事件を差し引いたら何が残るだろうか。

 港区にあるエスカレーター式の名門、リズミック体操をやっている女子高といったら慶応女子高しか考えられない。被害者が慶応女子高出身であることはあの事件の核心だった。
 あの学校に対する羨望、その裏返しの嫉み--斉藤美奈子の解説に引用されている「モデルと思しき学校」の卒業生の言葉をみよ!--、その卒業生が売春をしていたという落差が意外性を生み、溜飲を下げる者を生んだのだった。

 主人公が《Q女子高》に合格したものの、学校内にある階級社会(なぜか「クラス」とルビが振ってある)の壁を前に挫折したことが、この小説の出発点になっている。この出発は正しい。
 しかし、これを《Q女子高》で済ませてよかったのだろうか。
 《Q》は、聖心でも、学習院でも、青学でもなければ、筑付でも、お茶の水でもない。慶応女子高以外にはありえない。
 
 われわれがよく耳にする慶応女子高の「悪いうわさ」程度の事実の上に乗っかったフィクションは弱い。
 慶応女子高でない港区の名門女子高出身者が、Q大経由でG建設の総合職に就き、やがて売春婦になったとしても、少なくともぼくは全然興味がない。 

 慶応女子高からクレームのつけようがないくらい、クレームをつけられたとしても「事実の証明」によって違法性を阻却できるくらい十分に取材したうえで、《慶応女子高》と明記すべきだった(げんにこの小説の中でも《東大》は《東大》と明記してある)。
 
 この点で佐野真一『東電OL殺人事件』も決定的に弱かった。
 ただし、父親の死の影響などは佐野の記述のほうがはるかに説得的だったし、桐野は触れなかった、主人公(のモデル)と同期入社でハーバード留学を果たした東大卒OLが彼女に与えた影響の指摘なども、佐野が説得的である。

 誰もが慶応女子高を想定し、東電OL殺人事件を想定しながら読むことを予定しながら、《Q女子高》としておけばプライバシー問題はクリアできるのだろうか。これを「Q女子高」と書き、巻末に「実在でない」と注記することで、はたしてすむのだろうか。
 
 終章ちかく、主人公の腰までの長いカツラがずれたり、お化けと呼ばれたりする記述は、あの事件の被害者が気の毒で正視できなかった。
 柳美里『石に泳ぐ魚』以上に、モデル小説とモデルのプライバシーが問題になってもおかしくない内容ではないか。

 《Q女子高》に関する記述が緩いのに、他方で挟雑物が多すぎる。
 「私」、「ユリコ」、「ミツル」、とくに「ミツル」のオウム真理教をなぞったような殺人事件の記述は、いかにも“サイドストーリー”もつけときました、ページ数を調整しましたといった感じである。

 『柔らかな頬』のほうが小説としての出来はよかったように思う。
 
 この作品は平成15年の泉鏡花文学賞を受賞したとある。
 最近何冊か文学賞受賞作を読んで得た教訓だが、文学賞は「販売促進」ないし他社系の作家を自社に引き寄せる撒き餌のようなもので、受賞作の小説としての面白さとは関係ないようだ。

 * 表紙カバーもグロテスクなので、載せたくない。