豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

川田順造編『新版・近親性交とそのタブー』(その2)

2022年10月29日 | 本と雑誌
(承前)
 内堀基光(文化人類学)「インセストとその象徴」も、川田と同様にインセストは「われわれが想像するよりはるかに頻繁になされているともいわれている」といい(165頁)、インセストの中核は母と息子の関係であり(153頁)、「遺伝学的には人間は十分に近親交配的な存在である」と書いている(151頁)。「人間は近親交配的な存在である」というのは事実なのか、どのような経過でそのようなことになるのだろうか。
 最終的には、内堀は、インセスト「禁止の行動的基礎を追い求めることはおそらく不可能であり、・・・(インセスト・タブーには)解きがたい謎あるいは『迷宮』・・・が残される」、そして、「罪としてのインセストに対しては、常になぜそれが悪なのかという反対向きの想像力が働く」と結んでいる(166頁)。
 文化人類学者にとって「謎」であり、「迷宮」であるのだから、ぼくのような素人がインセストやインセスト・タブーを理解できないのは当然というべきだろう。

 小馬徹(文化人類学)「性と『人間』という論理の彼岸」も、ぼくの理解力をこえているが、端々で印象に残る文章に出会うことができた。
 トーテミズムにおいて、「動・植物は人間の始祖であり、一方では同氏族員や結婚相手でもあり得ることになる」(175頁)。「そこでは、動物と人間の結婚も論理的に可能になる。日本を初め、世界各地で無数の異類婚姻譚が育まれてきた。」(179頁)。
 母子婚を許す事例は報告されていない。「母とは、婚入して来た女性として、元々他者性を帯びた身内なのである。・・・オイディプス王の物語が、母子婚の可能性を逆説的な形で指し示している」(178頁)。
 「生殖としての性」の領域からは各社会が近親婚に指定している部分が排除されている。人間社会は・・・性行為の内から、近親婚と定義した部分を除外した生殖の営みだけを結婚として合法化して、家族・共同体の組織化と維持に利用して来たのだ。・・・しかし性現象は抑えようもなくそこから外へ溢れ出て、社会の構造原理であると共にその破壊原理ともなるという性の両義性が、ここに胚胎する」。川田は近親性交が穢れた行為として忌避される一方で、始祖神話には母子・兄妹等の近親性交はしばしば語られている事実を指摘している(182頁)。
 「人間は全ての出発点にインセスト。タブーを置いた。そして、インセストの禁止を通じて自然の差異(sex)を強化した性差(gender)と年齢カテゴリーを作り出し、、その差別化を前提とする交換のシステムである共同体を立ち上げたのである。社会的な交換は禁止が創り出す欠乏を埋め合わせる相互的な活動(・・・である)」(190頁)。
 「これに反してボノボは能うかぎり性の禁止を取り除いて解放した。・・・人間の性はタブーに反しない限りの生殖という狭い範囲に囲い込まれたが、ボノボの性は生殖から存分に開放されている。・・・性は半ば言語に代るコミュニケーションの手段と化している感もある。」(190~1頁)・・・「人間を見れば、最も親密な異性である姉妹と娘たち(それに母親)を性交の相手とすることをタブーとして封じ込めたがゆえに、その性の営みは想像力によって深く内面に根を下ろした性愛(エロス)へと高められた。・・。結婚とは、チンパンジー型の抗争的な生を生きたヒトが、群れ同士の熾烈な抗争を回避して生存を確保するために発明した画期的な仕組みであったに違いない」(191頁)。
 「(レヴィ=ストロース)は、結婚と家族を、人間が人間になり、人間が人間であり続けるための歴史上の、しかしそれゆえに一時的な必要悪として受けとめているかのようである。・・・工業化による生産力の革命的な飛躍を経て、人間は家族から独立した個人としても生きて行ける社会的条件を獲得した・・・女性は、もはや疎外されて力ない「交換の客体」ではあり得ない。・・・20世紀後半から欧米では家族の紐帯がずい分と緩いものとなって久しい」(192頁)。
 「・・・とはいっても、・・・近親性交や近親婚がタブーの対象から外される気配は微塵もない」と彼はいう(193頁)。
 結婚と家族が一時的な必要悪であるという考え方には共感する。わが民法典(条文)からはすでに「家族」という言葉は消えているが、「婚姻」は残っており、その性愛機能が反映された条文(嫡出推定など)も存在する。しかし、その内実はかなり揺らいできている。このような状況を文化人類学から眺めた俯瞰図を得ることができた。工業化を経験した後の現代社会におけるインセスト・タブーの文化人類学的な実態調査はあるのだろうか。

 古橋信孝(古代日本文学)「自然過程・禁忌・心の闇」には、日本書紀、古事記、源氏物語などにおける近親相姦の事例が多数紹介される。日本霊異記に出てくる蛇と交わる女の物語の解釈なども示される(213頁~)。「近親相姦も獣姦と同じで、あまり表面化しないはずだ。(近親相姦は)法的に禁止されてはいるが、禁忌自体は当事者の心理的レベルにすぎないのだ。それを、一見科学的な、近親婚は悪い遺伝子が産まれる子に出る確立(ママ)が高いという説明が通行している./社会的に禁忌であり、あまり表面化しないが、確かに潜在している。性の禁忌はそういう問題としてあった」(208頁)。
 法学の世界でも、この「一見科学的な」理由で近親婚禁止の根拠が説明されることが多いが、再考が必要であろう。

 出口顕(文化人類学)「インセストとしての婚姻」は難しくてぼくには理解できなかった。
 渡辺公三(文化人類学)「幻想と現実のはざまとしてのインセスト・タブー」も難解だが、「婚姻も交換もない世界」を夢想するというレヴィ・ストロースの言葉が印象に残った。女は「欲望の対象、性本能を煽る対象であり、他方で他者を欲望させ、他者と縁組させて他者をつなぎ入れる手段でもある」が、しかし「女はやはり一人の生身の人間である」(134頁注16)という一文も。
 高橋睦郎(詩人)「自瀆と自殺のあいだ」の著者は、『禁じられた性』(潮出版社、1974年)の編者である。ともに近親相姦を扱ったアイルランドの詩と源氏物語の共通点として人間の自意識を指摘する。
 以上9編からなる本書は、2001年に川田と山極が世話役となって開催されたシンポジウムを書籍化したもの(その新版)である。
 「千代田区千代田1番地」のラビリンスから始まって、今度はインセスト・タブーの迷宮へと、今年はやたらと迷宮への旅がつづくようだ。みずから迷い込んだのだが・・・。

 2022年10月28日 記

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